雪がたくさん積もった日
目が覚めたとき、リナリアの両目から涙が伝っていた。そのまま先ほどの夢を思い出して、新しい涙がはらはらと流れる。室温が低く、顔が冷たい。掛け布団を顔まで引き上げて、白い布に涙を吸わせた。
〈どうしたどうした。恐ろしい夢でも見たか〉
クロックノックがちょんちょんと枕元まで近寄ってくる。リナリアはゆっくり半身を起こし、息を吐いた。
「……クロックノック様、時を渡ると夢に影響が出るものなのでしょうか。それとも、あれはわたくしの妄想なのでしょうか」
ポツリポツリと先ほど見たバーミリオン視点の「以前の過去」の夢を説明する。クロックノックはそれを聞いている間、「あー」とか「うーむ」とか言葉にならない声を漏らして首を捻っていた。
〈それは……関係はあるかも、わからんが……いや、しかしのう……〉
歯切れの悪い返答に、リナリアは首を傾げた。
「あの、どういうことなのでしょう。わたくしでなくて、バーミリオン様の過去の夢を見るというのは……なんだか、見てはいけないものを見ているような、少し罪悪感があるのですけれど」
もしこれが本当にバーミリオンの過去なら情報として貴重だが、誰だって他人に自分の過去を見られたくはないだろう。不可抗力とはいえ、悪いことをしているようで落ち着かなかった。
クロックノックは腕組みするように羽を合わせて、ベッドの上をコロコロ転がる。転がりすぎて端から落ちないように、リナリアはふんわりと布団の傾斜を調節してあげた。
〈確かに、時を超えると『あったはずの過去や未来』の夢を見ることが稀にある。お前はわれの魔力と相性も良いからの、通り過ぎた過去のどこかを夢に見ることはあるじゃろ。しかし、普通は自分に関する出来事の『ズレ』を修正するために夢として整理するという意味合いがあっての現象なのじゃが。
お前の想像の産物かもしれん。しかし、お前のバーミリオンを救いたいと思う強い気持ちがヤツの過去を引き寄せた可能性も否定できん。まあ、おそらく毎夜見るもんじゃなし、しばし様子見かの〉
「様子見……」
カーテンの隙間から細く光の差す窓を眺めた。きっと今日は一面に雪が積もっているだろう。
「王妃様は、どうなったのかしら」
せめてバーミリオンが、母親の手を握れていたら良いなと思う。
夢の感傷に浸ってぼうっとしていたら、ノックもなしに思いっきり扉が開いた。リナリアは、反射的に布団にもぐった。シャーッとカーテンが開けられる音がする。
「リナーーー朝だぞ!!」
犯人は兄だった。グラジオはベッドに駆け寄って、布団を乱暴にひっぺがす。
「……お兄さま……? おどろきます、せめてノックを……」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだって、窓見たか? すっごい積もってる! 早く遊びに出なくちゃもったいないぜ。ほらほら、早く支度して……って、エンデ夫人まだなのか? っもー!」
時計は見ていないが、ばあやが来ていないということは、まだ相当早い時間なのだろう。もしかしてグラジオは雪が楽しみすぎて寝ていないのでは? と思い到る。
「……お兄さま、昨日ちゃんとお休みになりましたか?」
「寝たさ! そんで騎士の早朝訓練の時間に起こしてもらった」
騎士の早朝訓練は日の出前に行われる。そういえばグラジオは朝が強くて、騎士団に入ってからも誰より早く訓練していたのだった、と思い出した。子供のころからすでにその片鱗が見えていたのだ。
結局、兄に引きずり下ろされる格好で、リナリアはベッドから降りた。グラジオは腰に両手を当ててから、天井を指差す。
「今日はディートリヒも誘ってあるんだ。庭園にでっかい雪だるまを作るぞー! それに雪合戦も! ユクスも一緒にやってくれるって約束してるんだ」
ユクスというのはグラジオの従者で、騎士見習いの少年だ。確か、グラジオより八つか九つほど年上だった。今は姫君の部屋なので入るわけにいかず、外で待機しているのだろう。兄の無邪気なはしゃぎっぷりが可愛く見えて、思わず頬が緩んだ。グラジオはそれを自分と同じ理由で笑ったのだと解釈したらしく、得意げに頷いて見せた。
「な! 楽しみだろ。これからヘレナも起こして、そのついでにメイドに声かけとくから、早めに準備しろよ。朝食前に一回遊ぶからな、ちょっとでも溶けないうちに!」
リナリアの髪をわしゃわしゃと撫でて、グラジオは来た時と同じように慌ただしく出ていった。窓からはいつもより明るい光が差し込んでいる。鏡を見ると、髪は盛大にくしゃくしゃになっていた。
「これでは支度するのに余計に時間がかかってしまうのに……ふふ」
ほどなくして、メイドたちが小走りに朝の支度をしに部屋にやってきた。バーミリオンのことは気にかかったけれど、まずは子どもらしく──兄と妹と雪遊びをしようと決めた。
庭園は、子どもが遊ぶのにちょうどよかった。まだ誰も歩いていない地面は真っ白で、花やパーゴラ、ベンチの上に綺麗な雪が積もっていた。前日からグラジオが楽しみにしているのを知った庭師が、気を利かせて立ち入るのを待っていたのだ。
リナリアとヘレナは風邪を引かないようにうんと厚着をしたので、動きにくかった。ヘレナは不器用に雪を丸め、なんとか雪のうさぎを作ろうと頑張っている。エリカとばあやは少し離れたところで暖をとりつつ、こちらがあそぶ様子を眺めている。
「おねえちゃま、みてえ。あのねえ、ちいさいうさぎさんなの。おみみつけるの、むずかしいなあ?」
「お耳は、葉っぱでつけても良いかもしれませんよ。お目々は赤いのが良いかしら」
リナリアは庭師に頼んで、うさぎの目になりそうな植物の実を持ってきてもらった。赤い小さな実を雪につけてみると、それだけでだいぶうさぎに見える気がした。ヘレナは「わあ」と手をぱちぱち叩いて喜ぶ。
「ねえねえ、あかいおめめ、リオンさまみたいね!」
前のときには、それをバーミリオン本人に言ったのだろうか、なんて考えて胸がちくりとする。
(わたくしの選択は、人から思い出を奪うことでもあるのですね)
グラジオとディートリヒは姫たちに比べると軽装で、雪だるまを作るためにそれぞれ一生懸命に雪玉を転がしている。ユクスは雪人形の手や顔になりそうな枝や葉を集める係らしい。拾ったり捨てたりを繰り返すユクスに、ディートリヒが遠慮がちにアドバイスしていた。それを見たグラジオが「おお」と声を上げる。
「さすが、ディートリヒは雪遊びに詳しいな!」
「えへへ……。冬のグラッセンは本当に雪ばかりですから。せめて楽しく遊べるように工夫しているんです。本当に雪深いときは、小さな隠れ家だって作れますよ」
「えーっ! 今度の冬はグラッセン行く! 絶対行く! あ、これ作ったら雪合戦だからな。本気でこいよ!」
「えぇ……王子様に雪を投げるなんてできませんよぉ……」
「それじゃつまんないだろー! リオンなら対等にやってくれるぞ!」
「それは……あちらも王子様だからでは……」
気の優しいディートリヒに雪合戦の相手は荷が重そうだ。ふと、視線を上にやるとバルコニーに両親がいるのが見えた。
(まさか、わたくしたちの遊びをご覧に? 子どもたちの遊びになどご関心は無いと思っていたのに……)
母がリナリアの視線に気がついたらしい。控えめに手を振られ、思わず笑みがこぼれた。控えめに手を振り返したときにはヘレナも両親に気づいていて、ぴょんぴょんと跳ねながら手を振っていた。
結局、リナリアたちは一日中遊んだ。リナリアがもらった雪用の馬車で、城の近隣まで出かけさえした。グラッセン親子も馬車の様子を確かめるために同行した。馬車の通った後の雪には、車輪や馬の蹄鉄に刻まれた模様がそのまま写しとったように残っており、いつまでも見ていられた。グラジオも雪の上をずんずんと進む馬車に大はしゃぎで、ディートリヒに色々と質問していたようだった。この二日で、兄はディートリヒをすっかり気に入ったらしい。
夜になっても隣国からの知らせは何もなかった。
グラジオやヘレナ、レガリアの人々にとっては今日という日はひどく平和な、ただ、雪が多く積もった日だった。
(何もなかったらいいのに)
ベッドにもぐり、両手を組んで目を閉じる。
(わかっています。前回急ぎの使いが来たのは、バーミリオン様がこちらにいらっしゃったから。そうでなければ……他国への知らせには慎重になるはず。だから今日中になんの知らせもないのは当然のこと……でも……)
枕の下に、バーミリオンにもらったハンカチを入れた。いつかの時、令嬢たちの中で流行したささやかなおまじないで、思いを寄せる殿方にまつわるものを枕の下に入れると夢で彼に会えるというものがあった。
(今日は、ただの夢としてバーミリオン様のお顔が見られたらいいのに)
その夜、夢は見なかった。
翌日。
雪遊びではしゃぎすぎたからか、ヘレナが熱を出した。その看病で城の者がバタバタと走り回る中、隣国から国王宛に真っ黒の封筒が届く。
アルカディール王妃が亡くなったという知らせであった。
ユクス・ディートリヒvsグラジオで雪合戦もやりました。
ユクスは遠慮しないので、グラジオの顔にもぶつけます。