仲直り
翌日も母は食事の席に現れなかった。その代わりに父が夕食に同席するようになり、ヘレナは無邪気に喜んでいたが、その状態が三日続くとさすがにグラジオはいぶかしみ出した。
「母上、体調でも悪いのかな? 父上とけんかした? 城にはいるんだよな?」
ダンスの練習中、小さな声でグラジオが話しかけてきた。髪を頭の上に結い上げたダンスの先生が、モノクルをきらりと光らせてこちらを見る。グラジオは慌てて咳払いをしてダンスを続けた。
「……わたくし、お母様とけんかしたので。お母さまはわたくしと顔を合わせたくないのかもしれません」
「リナが!?」
グラジオが大きな声を出してすぐ、先生がパンパンと手を鳴らした。二人は慌てて姿勢を正し、先生に礼をする。
「リナリア様、グラジオ殿下、ダンスに集中なさってくださいな。もうパーティーは明後日でございますのよ」
「はい! すみませんでした」
「それにしても……グラジオ殿下が踊らないなんてもったいのうございますわね。基礎は出来ているのですから、リナリア様とご一緒に踊られればよろしいのに」
先生が頬に手を当ててこれ見よがしにため息をつく。グラジオは口を尖らせて頭の後ろに手をやる。
「だって、なんか恥ずかしいっていうか……多分みんなに注目されたら笑っちゃうし、俺」
「殿下、お言葉遣いにお気をつけあそばせ。少々休憩にいたしましょうか」
先生がダンスの練習室から退室してから、グラジオは身を乗り出しながらリナリアの方に迫ってきた。
「で、リナ、母上とけんかってどういうことだよ。おとなしくて賢い『神童』リナが、親子げんか!?」
心配というよりは純粋に興味を持っているようで、グラジオの目の奥が心なしかキラキラしているように見えた。リナリアは苦笑する。
「その、この間庭園で倒れた関係で、一緒にいたお友達とのお付き合いを止められたので……それはいやだって言ったんです」
すると、兄は真面目な顔つきをして腕を組み、うんうんと頷いた。
「そういうことなら、それはリナが正しい!! 友達との付き合いに口を出されるのは嫌だよな!! 俺も、よく周りに『田舎貴族と仲良くするのは良くない』なんて言われるんだけど、ディルと文通するの楽しいしさ。もしリオンと付き合うな、なんて言われても、すっごい怒る」
ディルというのはディートリヒの愛称だ。どうやら兄はまだディートリヒと友好関係を続けているらしい。
「お兄さま、ディートリヒ様と仲良しなのですね。失礼ながら、性格は反対に見受けられますのに」
グラジオはフフンと得意げに胸を張った。
「男の友情をわかってないなあ、リナ。ディルと文通するのは面白い! たくさんいる兄弟たちの話を読むのも面白いし、北方に出る魔獣の話や、騎士物語はかっこいいしな! 知ってるか? 昔のつよくてかっこいい騎士は北部出身者が多かったんだぜ。きっとディルもつよい騎士になる」
「そうなのですか? それは初耳です」
リナリアは騎士にはあまり興味が無かったから、騎士物語の類はあまり読んでこなかった。実在の人物のことくらいは復習しておこう、と心に留めておくことにする。
「それにしても、今日の夕食も父上かな。父上といっぱい話せるのはうれしいけど、リナも母上と仲直りしないまま誕生日っていうのもちょっと気まずくない? 今日母上の部屋に仲直りしに行ったら?」
「え……あ、そ、そうですね……」
リナリアが謝って終わるような話ではないので、少し躊躇する。兄がニカッと笑ってリナリアの背中をぱしっと叩いた。
「きゃっ」
「しーんぱいするなって。俺もついてってやるよ。兄上様だからな」
「え……えっ?」
とまどっているうちに、兄は水を飲むと言って離れて行ってしまった。そうしてリナリアが返事をする前に、母の部屋に行くことが決まったのである。
ダンスの練習が終わったその足で、グラジオとリナリアは手をつないで父と母の寝室に向かった。「思いついたらすぐ行動!」と言ってグラジオがリナリアの手をがっちりつかみ、それに引っ張られるような形だった。
何を話すべきかも浮かんでいないので、リナリアは変な汗をかいていた。
「お兄さま……お兄さまは、お母さまやお父さまとけんかなさったことはおありですか……?」
「え? 父上は怖いからさすがにないけど……母上とはしょっちゅうけんかっていうか、いいあらそい? はしてるかな。リナは初めてなんだなあ。そっかそっか。それで母上もびっくりしちゃったんだ」
兄はにやにやしながらリナリアを振り返った。
「母上はさ、俺は王子なんだから、騎士の稽古よりも将来王になる勉強を優先させろって言うじゃん。でも、立派な騎士になるためには子供の頃から体を鍛えなきゃいけないし、父上みたいに強い王様のほうが頼りになるだろ! ……って話をして、よく怒られる。たまにリオンの話をされるんだけどさー、あいつだって勉強できるけど魔法の研究に使う時間の方が多いから、結局俺と一緒だからな!」
確かに、バーミリオンとグラジオは興味の対象が違うけれど、好きなことに情熱をかけるところはよく似ている。リナリアはくすっと笑って頷いた。
「お兄さまは、お母さまと仲直りするときはどうするんですか?」
「えっとー……母上と仲直りしたいですって言う」
想像よりもあまりにストレートな解決法にぽかんとしてしまう。
「そのままお伝えするのですか?」
「うん。そうすると母上が笑って抱きしめてくる。あ、それはその、そろそろ恥ずかしいからやめてほしいけど……でも仲直りできると食事はおいしい。リナも、せっかくパーティーでおいしいものがたくさん出るんだし、全部おいしく食べられるように今のうちに仲直りしときな」
少し照れながら話す兄の言葉に、少し元気が出た。
「……そのままで、良いんですね。理由が無くても」
「そうそう! 俺が悪くないときは謝りたくないし。仲直りしたいんならさ、最初からそう言えばいいだけなんだよ」
話しているうちに、両親の寝室の前に着いた。グラジオが強めにドアをノックする。
「母上ー、いますか! リナが言いたいことがあるって!」
今、母にはばあやがついているはずだ。だからきっと、ドアはばあやが開けるだろう。それでも、数日ぶりに会う母に緊張してしまう。
少しして、ドアが開いてばあやが顔を見せた。
「お二人とも中へどうぞ。お茶をお淹れいたしますよ」
「失礼いたします! ほら、リナも」
グラジオが兄さんぶって、リナリアに入室の挨拶を促した。
「しつれい、いたします」
どきどきして小さな声になってしまった。これではまた、以前のリナリアのようだ。時折出てくる昔の自分の気配に、やはり完全には変わることは出来ないのだなと思い知らされる。
部屋に入ると、母は窓際に置かれたテーブルに座っていた。あたたかそうなショールを着ていたが、少しやつれて見えた。食事もあまり喉を通らないのかもしれない。
母はグラジオとリナリアが手をつないで来たのを見て、目を細めて微笑んだ。
「どうしたの、ふたり連れだって」
グラジオが、リナリアの手を離し、ぽんっと軽く背中を叩いた。
「リナが、母上が食事に来ないのがさびしいって。ほら、言うことあるだろ?」
グラジオに促され、ドレスのスカートを両手でぎゅっとにぎりながら、母の方にゆっくり近づく。母は少し不安そうに首を傾げた。
「どうしたの、リナリア」
「あの、お母さま、わたくし……あの……」
言いよどんでいるうちに、母の前まで来てしまった。母の顔を見上げたら、鼻の奥がツンとした。
「リナは……お母さまと、仲直り……したいです……。お母さまとご飯、いっしょに食べたい……」
泣くつもりは無かったのに、母に嫌われてしまっていたらどうしようと思ったら、不安で涙がぽろりとこぼれてしまった。
「……リナのこと、お母さま、きらいになりましたか……」
「まあ、リナリア……」
母が椅子から降り、リナリアをぎゅっと抱きしめた。頬ずりする母の頬が、冷たかった。
「何を言うの。大好きに決まっているでしょう……ごめんなさいね、リナリア。あなたが、お母さまが思っていたよりずっと色んなことを知っていて、たくさんのことを考えていたから……不安になってしまったの。お母さまは、あなたに……あなたたちに幸せになってほしくて……ただそれだけなのよ。それ以外何も要らないの。それくらい、あなたたちが世界で一番大好きなの」
リナリアは母の胸にしがみついて、顔を押し付けた。今は心から小さな子になって甘えたかった。
「お母さま……お母さま、リナも……お母さまがだいすき……。お母さまにいっぱい褒められたくて頑張ったの。いい子ねって言われたかったの……でも……お母さまは、リナがお母さまの言うこと聞かなくても、嫌いにならないでくれるの?」
母はリナリアを抱きしめたまま、頭を優しく撫で額にキスをしてくれた。
「当たり前でしょう。お母さまは女神様ではないから……あなたが言うことを聞かなかったら怒ってしまったり、泣いてしまったりすることもあるけれど……絶対に嫌いになんてならないわ。たとえリナリアにお母さまよりも大事な人が出来て、お母さまから離れても……お母さまはずっとあなたを愛してる。もちろん、グラジオも、ヘレナもね」
「お母さま……リナも、お母さまが好き……。ほんとうは、ほんとうはヘレナがうらやましかった。たくさん甘えたかったの」
最初は冷たかった母の身体も、抱き合っているうちにだんだんあたたかくなってきた。思えば過去に戻る前から、自分は自分で思っていたよりも、母を求めていたのかもしれない。あの日、家族よりバーミリオンの幸せを願ったことさえも少しだけ許されたような気がして、胸の内にしこりのように残っていた罪悪感が溶けるような感じがする。
母がもう一度、今度はリナリアの頬に軽くキスをした。
「リナリアは、お母さまが知らないうちにたくさんたくさん頑張っていたのね。それに、お友達のことを大事に思える優しい子だわ。リナリア、あなたは良い子よ。とっても良い子。甘えたいときはいつでも甘えていいわ。会いに来てくれて、ありがとう」
なんだかそれは、以前の自分に向けられた言葉のようで、さらに涙が止まらなくなってしまった。
頭の中でクロックノックのため息が聞こえたから、きっと姿を隠して魔力を吸ってくれただろう。
その日の夕食には母を真ん中にして3人で手をつないで向かった。ヘレナと戯れていた父はその姿を目にして、心底ほっとした顔をしていた。父と母は互いに何も言わなかったけれど、子どもたちの前ではいつも通りに振る舞っていたように見えた。
こうして、あの夏の日以来、久しぶりに家族そろって穏やかな食事の時間を過ごすことが出来たのだった。