父と子(1)
父はリナリアをひょいと抱き上げて歩き出した。
「リナリア、このことは決して他言無用だ。グラジオやヘレナにも言ってはいけない」
「はい、お父さま」
リナリアは神妙に頷く。クロノが父の後ろにちょこちょことついて来た。
(そういえば、お父さまはクロノには何もおっしゃらないのでしょうか)
〈暗示と隠遁の一種で、われのことを必要だと思って探さねば意識しないようになっとるでな。われがこの場にいることをすぐに忘れるような感じになる〉
(なるほど……)
〈とはいえ、この先は念のため姿を完全に隠しておくか。近くにはおるから念話は普通に出来るでな〉
言い終わるが早いか、後ろを歩いていたクロノの姿がたちまち消えてしまった。
父が部屋の扉を開けると、廊下には侍医とシャロン、そして父の護衛騎士が待機していた。
「侍医はご苦労であった。もう戻ってよい。シャロン殿はこれから学舎まで案内していただきたい」
シャロンが少し驚いた顔をして、しかし優雅に礼をした。
「承知いたしました。陛下」
シャロンの先導で学舎へ向かう。父の表情は暗い。実際のところ、父としてはまだ半信半疑なのかもしれない。
「……シャロン殿。学舎に着いたら、リナリアと共に気を失ったという子供のところへ見舞いたい」
「ウルですね。承知いたしました。現在は王妃様の指示で学舎の一室に隔離しております。魔力を吸う水晶を適切な位置に配置しておりますので、先日のように暴走することは無いかと存じます」
シャロンは普段通りおっとりとした口調で受け答えをしており、その声色からウルの置かれている状況を推測するのは難しかった。
(お母さまは先生がたにウルについてどう指示したのかしら。ティナやヨナスがきっと心配しているわ)
父は貴族や役人の多い場所ではずっと沈黙していた。魔法検閲官の制服を着た美女を先導にして、国王が王女を抱いて歩いているのはどうしても目立ってしまう。すれ違う人々はみな慌てて頭を下げ、通り過ぎた後で不思議そうに父の後ろ姿を見つめる。図書館を過ぎ、神殿を過ぎ、ようやく学舎に入るというところで、父が立ち止まった。
「……魔法検閲官の学舎に入るのは初めてだな」
そういえば、グラジオも近づくなと言い含められていると言っていた。父も子供の頃からそう教えられ続けていたのだろうか。
シャロンが微笑してゆっくり扉を開く。
「現在、リナリア姫様の同期生たちが座学の授業を受けている頃ですわね。ウルは一番上の階にある一室に寝かせております。まだ意識は戻っていないのではないでしょうか」
「そうか」
父の瞳が揺れる。
リナリアの知る父はいつもいかめしくて、厳しくて、動揺することなんてめったになかった。あの頃の父は――ウルの存在を知っていたのだろうか。
(もしお父様も知らなかったのなら……今度こそ、きちんと向き合って、家族で解決したい。お母様もショックが大きかったし、間違いなく大きな波が立つことにはなるけれど……ウルも、わたくしたちも心穏やかに過ごせる方法を探したいわ)
石造りの無骨な階段を一段ずつ上がっていく。アーキルやサイラスの個室があるフロアも通り過ぎ、最上階に着く。ウルが寝かせられているという部屋は、最上階の一番奥の部屋だった。部屋の前には衛兵が一人立っており、国王の姿を見ると非常に驚いた様子で慌てて敬礼をした。シャロンも衛兵にふわりと礼をする。
「ごきげんよう。中はサイラスがおりますか」
「は、はい。サイラス・レリック殿がいらっしゃいます」
「陛下と姫様がお見舞いにいらっしゃいました。取り次いでください」
シャロンが父とリナリアの方を振り返る。父が重々しく頷いた。
「ご苦労。ここに護衛騎士を立てるので、取次が済んだらしばらく下で待機していてくれ」
「しょ、承知いたしました!」
護衛騎士はガチガチになりながら、部屋の中に入った。それから10秒もしないうちにバタバタと音がして中からサイラスがドアを開けた。
「ヘ、へい、陛下!? こここここれはよくお出ましに……うおおこのサイラス国王陛下にお会いできるとは大変な光栄!!! うおおおお!!」
サイラスは大きな声で唸る……というより吼えると、その場に這いつくばるように頭を下げた。リナリアはあわあわと父とサイラスを見比べていたが、父は表情を変えずサイラスを見下ろしていた。
〈こいついちいち大袈裟じゃな……〉
(突然の訪問でびっくりさせてしまっているのはお父様もですよね……サイラス先生お気の毒に……)
「うむ。頭を上げてくれ。ウルという少年を見舞いに来た。まだ意識は戻っておらぬのか」
サイラスは床に両手をつけたまま、ガバッと顔を上げる。
「はっ!! ありがとうございます!! おそらく一度にたくさん放出したため、一時的な魔力不足に陥っているのだと思いますがまだ目覚めません!! リナリア王女は目覚めたのですな!! お体に大事はございませんか!!」
リナリアは父の腕からサイラスを見て、にこりと笑った。
「はい、先生。ありがとうございます。わたくしはもう大丈夫ですわ」
「それは良かった!! それならばウルもじきに目覚めるやもしれませんな!!」
シャロンがやわらかな笑みを崩さないままサイラスの背にそっと手を添えた。
「サイラス、そろそろ陛下を部屋の中へご案内いたしませんと」
「はっ!! 確かに!! では陛下、中へどうぞ!!」
がばりと身を起こしたサイラスに続いて部屋の中に踏み入れる。石の壁に囲まれた非常に簡素な作りの狭い部屋で、窓がひとつだけあった。中央にベッドが置かれ、その四方、少し離れた位置に水晶が設置してある。水晶が魔力を吸った気配はない。ベッドに近づくと、横たわっているウルの顔が見えた。父が一瞬歩みを止めたが、そこでリナリアを床におろして傍らに置かれていた椅子に近寄って座った。
「先ほど話を聞いたが……王妃が突然顔を見せて驚かせてしまったらしいな」
「それは!!」
大きな声で話し出そうとするサイラスを手で制して、シャロンが話を引き取る。
「彼はとても真面目な子ですので、恐れ多くて必要以上に緊張してしまったのかもしれません。その場にいた生徒に呼ばれて私が駆けつけた時には既にリナリア姫様と共に救出されていましたが、暴走の跡を見たところ、周囲を攻撃するタイプの魔法ではなく、自らを包んで護るような魔法のように見受けられましたわ。ただ身を隠したいという一心であのようなことになってしまったのかもしれません」
「……そうか。彼に触れても?」
「問題は無いかと」
父が人差し指の甲でウルの頬に触れる。それから、手を首のほうにスッと移動させ、ウルの首から少しだけ見えるペンダントのチェーンに触れた。
「……シャロン殿、サイラス殿、しばし席を外してくれるか」
「承知いたしました。部屋の外で待機しております」
「承知いたしました!!」
シャロンとサイラスは礼をして速やかに部屋から出て行った。部屋には、父とリナリア、ウル、それから姿を隠したクロノの四人だけになった。
父が改めてウルの首のチェーンに手をかけて、するっと引いた。服の下から、金の装飾が施された台座に嵌まったガーネットが現れる。
「ああ……」
父が息を漏らし、ガーネットを握りしめた。大きく、ごつごつした手が震えている。その反応を見れば、このペンダントは父が贈ったものだというのは明らかだった。
「……チェーンは、元々ついていたのを生活費のために手放したと聞きました。ウルは、このペンダントがあれば両親と一緒にいるようで心強いのだと、そう言っていました」
今にして思えば、ウルはリナリアが王女だとわかった瞬間から、リナリアは腹違いの妹なのだとわかっていたのだろう。実際、兄の姿を見たら動揺して逃げていたし、思うところも色々あっただろう。それでもずっと優しく……友人として、時には兄のように接してくれていた。
(リアとして接していた期間があったからかもしれないけれど、それにしたって……きっと苦しいこともあったでしょうに。わたくしは、ずっとウルに甘えていた)
父が再びウルの頬に触れる。
「……クロステン、というのはリネの本当の苗字ではない。彼女の実家が営んでいた糸工房の店名だ。リネの本当の苗字は、ファーデンという。だから、ウルの本当の名前はウル・ファーデンということになる。この子が知っているかはわからないが」
リナリアもウルに手を伸ばしかけたとき、見えない手がそれを止めた。姿を隠したクロノだと頭では理解できたけれど、あまりに驚いてビクッと跳ねてしまう。
〈この阿呆! お前は魔力を引っ張られたんじゃろうが。まだ触れない方が良い〉
(そ、それもそうですね。ごめんなさい、クロノ……あの、どうでしょうか、ウルの様子は)
〈…………うーん、芳しくはない。普通魔力暴走があっても安定すれば自然に目を覚ますもんじゃ。それが2日以上起きないとなると、お前が呪いの影響で黒い夢の世界に行っていたように、別の魔法の影響が考えられる。ウルの場合は例の偽装魔法の反動じゃろうかのう。これについては現代の専門家の知識を頼らねば何とも言えぬ〉
(そう、ですか……)
ガリオ長官が偽装魔法の術者だったなら対処法の知識はあるかもしれないが、ウルの体のことを考えずにさらに悪化するようなことになるかもしれない。魔法の専門家といえばアーキルだ。しかし……現状ではガリオ長官を通さずにアーキルがウルに手を出すことは難しいだろう。
リナリアは父の顔を見上げる。
「お父さま。ウルを、保護してあげてください。悪いことに利用されないよう、ウルがこれからも安心して暮らせるよう、お父さまの庇護下に……」
父は眉をひそめて首を振る。
「……そう、簡単にはできぬ。ウルからも話を聞かねばならぬし、慎重に動かねばならない。この場で決められる話ではないのだ」
リナリアは祈るように両手を握り合わせた。父はリナリアの話をどこまで信じてくれるだろう。
「……ではせめて、ウルの後見をガリオ長官からアーキル先生に変更してください。ウルについて、ガリオ長官を通さなくてもアーキル先生が動けるよう。アーキル先生はきっと、受けてくださると思います」
「なぜだ。ガリオ長官は、検閲官の長で神殿の副神官長だ。彼が後見ならば不足はあるまい」
きっと目に力を込めて父を見つめる。
「ガリオ長官は、大事な時にウルの味方になってくれないからです」