父と母(2)
「ふう、ふ……」
ぽろぽろと流れ続ける母の涙を隠すように、父が母の顔を自分の胸に誘う。
「そうだ、夫婦は二人で一つだろう……あなたがそのように取り乱して泣くのを見るのは初めてだな。どうか泣かないでくれ。どうしてよいかわからなくなる」
「コリウス様……申し訳ございません……」
母は父にしがみついて身体を震わせていた。侍医とシャロンが目配せをしてドアの近くまでスッと下がる。
「陛下、妃殿下、我々は扉の外で待機しておりますので、お話が終わりましたらお声がけください」
「ああ、そうしてくれるか。もしまた暴走が起こったときは……」
シャロンが「おそれながら」と進み出る。
「今の状態ですとおそらく連続して暴走なさることは無いかと存じますが、万が一の際のときに備えてリナリア姫様に魔力を吸い取る水晶をお預けしたく思います。リナリア姫様はこちらの水晶をお使いになったことがお有りですので」
父はシャロンに頷いて見せた。
「わかった。ではリナリアは部屋にいてよい。クロノはリナリアに付き、エンデ夫人はロゼリアに付きなさい。私たちはそちらのソファで話そう。良いな、ロゼリア」
「はい……」
シャロンがリナリアのところに来て魔水晶を手に握らせる。その際少しかがんで、リナリアの耳もとにそっと口を近づけた。
「ウルは学舎の先生がたが交代で見ておりますからね」
はっとシャロンの顔を見ると、シャロンは軽くウインクしてから離れていく。
侍医とシャロンが部屋から出た後で、父が母をふわりと抱き上げる。たくましい父の腕は、母を軽々と抱えてソファまで運んだ。
リナリアはそのあとについて、ソファの向かいの椅子に座った。父は母の隣に腰掛けると、母を支えるようにその肩を抱く。
「ロゼリア、もっと私にもたれてよい。リナリアからは親子げんかをしたと聞いたが――」
母がおそるおそるといった風に、頭を父の肩にもたせかけた。リナリアは父の視線を感じて、どう説明するべきか迷う。今はあまり母を悪者にするような言い方はしたくないけれど、ウルと距離を置く結果になるのは望まない。
「その……わたくしが、今回倒れたことについて……わたくしが自分から、魔力暴走させたお友達の近くに飛び込んだので……その件で、お母さまにご心配をおかけしてしまって……」
言葉を選びながらゆっくり発言すると、父の眉間の皺が深まった。
「リナリア、それは良くないな。なぜ検閲官が到着するのを待たなかった」
「ご、ごめんなさい。お友達が、苦しそうにしていたので……助けてあげたくて、とっさに……」
父が目を閉じて顎髭を撫でる。
「……それで万が一お前の身に何かあったら……いや、今回も本当は『何かあった』に含まれるのだがな。とにかく、王族を害したとみなされるとその友人にも不利益なことだ」
「……はい」
リナリアはしゅんとして俯いた。
「しかし……リナリアが飛び込んでしばらくしてから、周囲の植物の動きが止まったとその場に居合わせた者から証言があった。ガリオ長官の見立てでも、お前がそばにいることで落ち着いたのではないかとのことだ。お前の存在がその友人の支えになったのは確かなのだろう」
そういえばフリッツの魔力暴走の件でもガリオ長官が主に対処していた。当然今回も、ウルの後見であるガリオ長官が事後処理に絡んでいるのだろう。
(ガリオ長官は、わたくしがウルの本当の属性に気がついたことにはまだ気づいていないのかしら。わたくしの魔力の残滓などがウルに残っていたら……)
〈どうじゃろうな。魔力残滓があったとして、お前も一緒に魔力暴走を起こしておると思われておるから、偶然と見られる可能性の方が高そうじゃ。何しろお前、探知は苦手じゃとみんな知っとるからな。まさか高度な偽装魔法を見破るとは思われんじゃろ〉
(それなら良いのですが……)
クロノと念話で話している間、部屋には沈黙が流れていた。しばらくして、母が何か言いかけて口を閉じた。父はその気配に気がついて、母の頭に大きな手をそっと置いて優しく撫でた。なんだか母が少女のように見える。
「どうしたロゼリア。何かあったら遠慮せず言いなさい」
母の呼吸が震える。
「どうしたらいいか、わからなくて……私は……」
「うん? 何か困りごとか? 言ってみなさい。なんでもよい。子供のことでも、公務のことでも、私のことでも――あなたがすべて抱える必要はない」
母の目からまた涙がこぼれる。魔力があふれないか心配だったけれど、もし何かあったら魔水晶が活躍するより先にクロノが魔力を吸ってくれるだろう。
ばあやがスッとハンカチを差し出し、母はそれで目元を拭った。それから何度か深呼吸をして、父に向き合うように座り直す。
「私は……グラジオやリナリアに、危ない目に遭ってほしくなくて、貴方に知られる前に何とかしようと焦り、うまく立ち回ることもできませんでした」
「どういうことだ」
母が唇を噛む。
「コリウス様は、教えてくださいませんでした。私以外に結婚しようとしていた方がいたことを」
父の顔が険しくなった。
「ロゼリア、何の話を――」
母はふるふると首を振る。
「結婚して、しばらくしてから知ったのです。コリウス様には身分違いの愛する方がいて、その方と結婚するために婚約を先延ばしし続けていたこと。そして、学院卒業後に私が婚約相手に選ばれたのは、候補の中で婚約を解消しても取り返しのつく年齢だったからだということ。最終的に私と結婚してくださったのは、その方が行方をくらませてしまい、私と結婚しない理由が無くなったからだということ。私は今までそれを、考えないようにしていました。全て噂で、信じるに値しないと言い聞かせて」
母の声が震えて、だんだんか細くなっていった。険しい顔をしていた父は、今度はすっかり弱り切った顔をし、首を振って片手で顔を覆う。
「そうだ……そんなことは、噂にすぎない……人の噂に振り回されないでくれ。そのようなこと……」
「噂……本当に噂なのですか。それならば、物置のあの絵はなんですか。あの赤毛の針子の絵は」
顔を覆っていた父の手がぴくりと動く。
「……ああ、そうか。あなたはあの部屋の片づけを……」
「あの絵が、そしてあの絵を捨てられなかったことが、貴方の気持ちの証ではありませんか。私は……いえ、私の気持ちなどは、この際どうでもよいのです。私とて、側室を迎えられることだって覚悟して王妃になっているのですから。たとえ貴方に心から愛されなくとも、王妃としてあなたを支えられたらそれでよかった。ただ、私がひどく心を乱されるのは、貴方が、私との結婚前にその愛する方とお子をもうけていたということ……これは私の気持ちの問題で済むことではありません」
それを聞くなり父は目を丸くし、眉を跳ね上げた。
「なんだと?」
「……まさか、ご存じないのですか?」
父は片手で口を覆い、瞬きが多くなる。母は困惑した顔をして父を見つめている。
「そんな、まさか……。なぜあなたがそのようなことを――いや、待ってくれ。この話は部屋で改めて聞こう、今、リナリアの前でする話では……」
父がリナリアの方を見る。リナリアは真剣な顔で父を見返した。
「……お父さまは、ガーネットのペンダントにお心当たりはありませんか。金の鎖に装飾の美しい台座の美しいペンダントです」
リナリアの言葉に、父の眉がぴくりと反応する。
「ガーネットのペンダントが、なんだと言うのだ」
「わたくしの大切なお友達が、お母さまの形見のガーネットのペンダントを肌身離さず身に着けています。それは、彼のお母さまが、彼のお父さまに贈られたものと聞きました。彼はお父さまに会ったことはなく、お母さまが亡くなってからは孤児院で生活をしていたそうです。
彼のお母さまのお名前は、リネ・クロステン……赤毛で茶色の瞳の女性だそうです」
父の表情が固まる。母が目を伏せ、自分のスカートをぎゅっと握った。それから、笑顔を作って父を見たけれど、表情に力が入って不自然な微笑みだった。
「……こ、コリウス様にお心当たりがないのであれば、それで良いのです。今はまだ、何も起こっていません。ただ、コリウス様のお子様だと名乗るかもしれない子がいる、というだけで……私やリナリアが先走っての杞憂なら、その方が良いのです。今後もし何かあっても、コリウス様のお子はグラジオ、リナリア、ヘレナの三人で……王位は必ずグラジオに継がせると、ハッキリさせてくだされば……」
母の声は震えていた。きっと、父に否定してほしいと願っているのだろう。
確かに、まだウルが自分から何か言ったわけではない。それに、仮にウルの母がそうだとウルに話していたとして、それが真実だとも限らない。
(重要なのは、ウルの気持ちと今後のこと……それとウルの存在を利用する人が現れる可能性。以前の人生では、実際にガリオ長官はウルを利用しようとしていて……アルカディールにレガリア王の『庶子』の存在が知られていた。滅亡前、なんらかの計画が裏で動いていたのは確かだわ)
父が顔を上げてリナリアを見た。リナリアも姿勢を正して父の青い瞳を見据える。自分たち兄妹と、ウルと同じ、サファイアブルーの瞳。
「リナリア、その友人というのは……」
「ウルと言います。ウル・クロステン。来月13歳になる男の子です。わたくしの大切なお友達です」
「それは……お前の、世話係に任命されていた……この間の騒動の……そうか」
父の様子をじっと見ていた母は、とうとう諦めたように肩を落とした。
「……私のせいです。私が、あの子を確かめたくて、事前連絡をせずに庭園に訪問しました。突然のことに、あの子はどうして良いかわからなくなってしまったのでしょう。今なら、わかります。不安で不安でどうしようもなくなると、胸の奥からモヤモヤとした熱が噴き出してくるようで……止められなくて……。
私は……あの子がもし、本当にコリウス様のお子なら、グラジオの地位や安全が脅かされるのではないかと……恐ろしかったのです。あの子は、グラジオよりも先に生まれた男の子だから……。そして、真実を確かめるのが怖くて、貴方に何も、言えませんでした」
父が息を吐いて天井を仰いだ。
「私は……何も知らず、すべて終わったこと、過去のことだと思っていた。なんと愚かだったのだろうか」
「……今日は、先に休ませていただきますわ」
ソファから立ち上がろうとする母の手を父が掴んで引き止める。
「待ってくれ、ロゼリア。私は……」
母が振り返り、もう片方の手を父の手に重ねた。
「貴方は、あの子に会わなければ。安心なさってください。コリウス様や子どもたちに危険が無いのなら、私は逃げません。お部屋でお待ちしています」
そしてリナリアに力なく微笑む。
「リナリア、今日はばあやをお借りしますよ」
「は、はい。構いません。ばあや、お母さまをよろしくお願いいたします」
ばあやは深々と頭を下げ、母を支えに側に寄った。父が名残惜しそうにゆるめた手の隙間から、母がするりと抜ける。
「ロゼリア……今の私に言う資格があるかわからないが……それでも、あなたと私が夫婦であることは、この先も変わらない。あなたを離す気はない」
母が静かに首を振った。
「……コリウス様。一人でいる時間に覚悟をいたしますから……後ほどゆっくりお聞かせください。私も、思っていること、あなたが知りたいこと全て、お話しいたしますから」
そう静かに告げ、母はばあやの手に支えられて部屋を出ていった。
父はその後ろ姿を見送ってから、立ち上がり、リナリアを見下ろした。顔色はよくないが、その目には力が込もっている。
「リナリア、その子のところへ行く。お前も来なさい」