父と母(1)
「お母さま! お母さま!」
部屋から閉め出され、どんどんと扉を叩くが母からの返事はない。扉の外側で待機していた騎士たちが困惑した顔で跪いた。
「リナリア王女、王妃様はいかがいたしましたか」
「何か問題でもございましたか」
う、と言葉に詰まる。内容が内容なだけにあまり詳しくは説明できない。
「……ええと、その、親子げんか……で、お母さまが体調をお崩しに……」
騎士たちが顔を見合わせた。
そういえば先ほどの母は扉の前でかなり大きな声で叫んでいたけれど、外には漏れ聞こえてはいなかっただろうか。
〈おーい、大丈夫か〉
頭の中でクロックノックの声がする。
(あっ、はい。わたくしは大丈夫です。クロノとばあやは大丈夫ですか?)
〈こちらはお前の母がわあわあ泣いているくらいで、他は問題ない。それもばあさんが幼子をあやすようになだめとる。こっそりドアを開けようと思えば開けられるとは思うが、事態の収束にはならんじゃろな。とにかく自分はもうだめだと騒いでおるぞ。この部屋には防音魔法をかけているから、余計なことが外に漏れることは無いのだが……この事態を何とかできるヤツを早う誰か呼んで来てくれ〉
(わかりました!)
リナリアは、ふうと息を吐いて騎士たちの顔を見上げた。
「すみませんが、侍医と、検閲官の学舎にいらっしゃるシャロン先生を呼んで来ていただけますか? わたくしは、お父さまを呼んでまいります。お父さまは今玉座かしら、お部屋かしら」
「承知いたしました。陛下は本日はお部屋でヘレナ様の絵をお描きになっているとお聞きしました」
「わかりました、よろしくお願いいたしますね」
頭を下げる騎士たちに礼を返して、リナリアは父の部屋に走った。回復魔法のおかげか、体力はすっかり回復している。今の母を本当に支えられるのは、医者の証明でも魔力の知識でも無い。
最初にバーミリオンとの婚約計画について話したときや、デートの話をしていたときの母の顔を思い出す。母は、父が本当に好きなのだ。
(お母さまを支えられるのは、お父さまだけなのよ)
そして、リナリアたちのことも――。
背中に、まだ母の手の感覚が残っている。母は、リナリアを守ることを最優先にしてくれた。
『あの子は、グラジオの地位を脅かす可能性がある、厄介な存在なのですよ。城内で派閥争いが起これば、リナリアやヘレナにだって何か悪影響が及ぶかもしれません』
母が言っていたことを思い出す。
以前の人生で、いつの間にか母が急に厳しくなったのは、リナリアに王族としての教育を詰め込み、兄に「王子らしく」「王になったら」とことあるごとに言い聞かせていたのは――自分の子供たちが得られるべきものを、ウルという存在に取られてしまわないようにと、母なりに悩んでのことだったのではないだろうか。
あの当時母がウルがどんな子かまで知っていたのかはわからないけれど……そのくらいから夫婦仲もあまり良いものとは言えなかったように思う。
夏に家族で森に行った時のことを思い出す。
(今度の人生では、これからも家族で笑いあいたい。お父さま、どうか――)
父の部屋の前にたどり着く。息を切らして一人走ってきたリナリアに、扉の前の護衛兵たちがぎょっとして駆け寄ってきた。
「リナリア王女、いかがしましたか」
「確か寝込まれていたのでは……何か緊急のことでしょうか」
リナリアは息を整えながら、大きく頷いた。
「お父さまに、お母さまのことで緊急の用事がございます。部屋に通していただけますか」
父は窓の大きな部屋でヘレナをモデルに絵を描いていた。
ヘレナの誕生日にねだられていた絵だろう。ヘレナは花を一輪手に持って、足をぶらぶらさせて窓枠に座っている。父の絵はまだ下描きで、木炭の黒い線がキャンパスの上にヘレナの輪郭をかたどっていた。
リナリアが部屋に入ると、父は驚いて手にしていた木炭を取り落とした。
「リナリア! 気がついたことは先刻報告を受けたが、もう歩けるのか。しかし、まだ寝ていないと……大丈夫なのか」
「お父さま、お母さまが大変なんです。今のお母さまには、お父さまが必要です!」
「……何があった。説明しなさい」
父の顔が険しくなる。ヘレナは窓枠に座ったまま、きょとんと首を傾げた。
「おかあさま、どうなさったの?」
父がちらとヘレナを見て、近くに控えていたエリカを手招きした。エリカが慌てて傍に寄ってくる。
「エリカ、ヘレナを部屋に連れて戻りなさい。今日の絵の時間は終わりだ」
「し、承知いたしました。お連れいたします」
「えええええ、ヘレナまだ、おとうさまがしゃっしゃってするのみてたいのにぃ」
不満そうな声を上げるヘレナをエリカがなだめながら抱き上げて部屋の外へ連れて行った。父は、傍らの布で手を拭う。リナリアはどこから説明したものか迷ったが、まずは今必要なことに絞って話をすることにした。
「お父さま、お母さまが……先ほど、魔力を暴走させておしまいになって、今わたくしの部屋にこもってしまっているのです」
「何……? 一体、何故突然に」
父が、怪訝そうに眉根を寄せる。
「……わたくしが、お母さまと喧嘩をしました」
「……けん、か? リナリアが?」
父は困惑した表情を浮かべた。
「正確には、もう少し複雑な事情がありますが、今わたくしだけでお話できることではありません。それについては、お母さまもいらっしゃるところでお話したいと思います。今大事なのは、お母さまはご自分の魔力が悪いものだと思ってらして、おそらく魔力暴走させてしまったこと自体にもひどく怯え、罪悪感も持ってしまっているのではないかと思うのです。だから、お父さまに、一緒に来ていただきたいのです」
「……大まかな事情はわかった。とにかく……今お母さまが一人震えていると、そういうことだな」
父はしゃがんでリナリアをひょいと抱き上げる。
「緊急であることは理解したが、国王が走ると、いたずらに周囲に動揺が広がる。早足でお前の部屋へ向かおう」
「は、はい。お母さまの護衛にお願いして、検閲官のシャロン先生と侍医も呼んでいただいてあります」
「そうだな……まずは女性の方が安心するだろう。よい判断をした。その後のことはまたガリオ長官に――」
「お父さま!」
ガリオ長官の名前が出て、つい反射的に話をさえぎってしまった。父が言葉を切ってリナリアを見る。
「なんだ」
「い、いえ、お父さま……お母さまを、どうか助けてください」
ウルのことだけでも慎重に対処すべきなのに、父が信任しているガリオ長官を証拠も無しにこの場で疑うのは悪手だろう。父は頷いて大股で歩き出す。走ってこそいないものの、リナリアが走るよりもよほど速いスピードで城の廊下を進んでいった。
リナリアの部屋の前では、すでに侍医とシャロンが控えていた。二人が父の姿を見て深々と頭を下げる。父がリナリアを床に降ろした。
(クロノ、お父さまをお連れいたしました)
〈おう、ようやった。こちらは多少落ち着いたが、相変わらず自分は危険だと思っておるな。いったん隠遁を解除しておくか〉
「妃はどうしている」
重々しく尋ねると、侍医が首を振った。
「王妃殿下は未だ混乱あそばされ、我々を中に通してくださいません。中にはエンデ夫人ともう一人侍女がおります」
「そうか」
父が部屋の扉を強く叩いた。
「ロゼリア、私だ! 入るぞ!」
『陛下……!? だめです、中に入ってはいけません!!』
「エンデ夫人、扉を開けなさい」
『だめ! だめです!!』
母の制止する声が聞こえるが、扉は開かれる。開けたのはクロノだった。父を前にしても普段と態度を変えることなく、ぺこりと頭を下げる。
「エンデ夫人が王妃様に服を掴まれて身動きが取れなかったため、代わりにお開けいたしました」
「構わない。よい判断だ」
父が一歩部屋の中に入り、侍医とシャロンを手招きする。リナリアは、それに続いて一番最後に部屋に入った。
母は部屋の奥、窓際にうずくまってばあやに抱きついていた。父がわざと足音を立てながら近づくと、悲鳴のような声を上げた。
「いけません、陛下!! さ、さきほど、私の身体から、光があふれて、止められなくて……!! もし目がつぶれてしまったら!! リナリアも近づかせないでください!!」
「シャロン殿、妃は今近づくと危険な状態なのか」
シャロンがすすっと母に近寄る。母は抵抗していたけれど、「失礼いたします」と言って手を握った。
「……王妃様もリナリア姫様と同じく光属性でいらっしゃいます。現在魔力は落ち着いていらっしゃいますが、残滓が少しございますね。しかし……その残滓から危険な気配は感じ取れません」
「あ、あの、むしろわたくしは、お母さまの光を浴びてから元気になりましたよ! お母さまの魔力は周りの人を元気にする魔法なのではないでしょうか」
リナリアは侍医の方を見て両手を横に広げた。侍医はリナリアの意図を察してリナリアの脈を測ったり、目の下や喉の奥を見たり、いつもの診察をした。それから、父の方に向かって頭を下げる。
「……確かに、お倒れになって寝込んでいらした後にしては健康上問題は無いように見受けられます」
「そうか、ならば私が妃に近づいても、問題はあるまいな」
父が母に一歩ずつ近づく。ばあやが何かささやいてシャロンと一緒に母から離れた。
窓際に一人になった母の前に、父が片膝をついた。母はおびえた様子で、自分の身体を自分で抱くようにして震えているらしかった。
「王妃、落ち着きなさい」
「もうだめ、だめです。レガリアの王族なのに、王妃なのに、ま、魔法なんて……も、もしかしたらリナリアがしょっちゅう倒れるのも、わ、私の……私の身体のせいなのでは……私に近づいては……ああでも……も、もし私を離縁なさっても、リナリアやグラジオはどうか……」
「落ち着け、ロゼリア!!」
父の声が部屋に響く。母はビクッとして父を見上げた。
「何を怯えることがある。大丈夫だと検閲官も侍医も言っている。あなたは誰も傷つけない」
「で、でも、あ、あとから何か、あるかも」
「たとえそうだとしても、私はあなたを見捨てはしない。そのときは何とかして助ける」
「でも、でも、私は王妃なのに――こんなこと、レガリアの王妃としてふさわしく……」
「ロゼリア。自分でも予想のできない事故があっただけで、あなたが王妃に相応しくないなど、そのようなことは誰にも言わせないし……一人で抱えて苦しむな。私たちは夫婦だろう」
母の目から、玉のような大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。