〜░▓▒▓░の独白〜 後編
昨日、リハーサルの前にあの子は私に「ごめんね」と言った。私は例の件だと思ったから、「もう気にしないで」と答えた。するとあの子は首を振り、にっこりと笑った。
「やっぱり男の子に頼ってはいけないわね。大事なことは自分でしないと」
反省する方向性が間違っている気がしたけれど、私はそれでもかまわなかった。しかし、彼女は。
「今度こそ、ちゃんとやるからね」
今度こそ、とは何のことだろう。もう終わった話ではなかったのだろうか。
もしかしてもう一度看板をダメにしようとしているのなら、今度こそ見つかってしまうと思って私はあの子の袖をつかんだ。
「もう、何もしなくていいわ。一緒に聖誕祭を見ましょう」
そう言ったけれど、彼女は袖から私の手を外して静かに首を振った。
それから学院寮を出る直前まで一緒にいたはずなのに、いつの間にかいなくなっていた。開始直前まで探したけれど見つからず、とうとう終わるまで戻ってこなかった。
学院寮の食事の時間に会えたのでほっとしたけれど、なんだか怖くてどこで何をしていたのか聞けなかった。別れ際、あの子は「明日、あなたの顔を見るのが楽しみだわ」と言っていた。
そして今日、聖誕祭の本番。
あの子は朝から見当たらなかった。こんなこと、あの子と友達になって初めてで、とても不安だ。どこに行ってしまったんだろう。
学院寮の前で謹慎が解けたらしいエルクを見つけたから、あの子を見ていないか聞いたら不機嫌に突き飛ばされた。演奏を格上の貴族に取られたことでイライラしているのだろうか。それにしてもレディに乱暴するなんて、お話にならない。あの子はエルクと縁を切るべきだ。今日会ったらもう一度ちゃんと話し合おう。
聖誕祭に王族が参加するのは何十年ぶりとかで、神殿には見たことのない数の兵士や騎士が集まっている。遠目に見た王女様は、美しい黒と赤のドレスを着ていた。色合いは神官服と同じなのに、あんなにきれいに見えるのは、どうしてだろう。きっと私が欲しいものは、あの子はなんでも持っているんだろうなと思った。将来に何の不安もなく、ただいるだけでみんなに大切にしてもらえるお姫さまが羨ましかった。その姿に、幼い頃の姉が重なって苦しくなる。
ウルの看板は完成していた。ほとんどが黒と白で構成された絵だったけれど、一部に色が入っていて、メリハリが効いてよく目立っていた。左側のガーネットは、前に見たときよりシンプルな赤色になっていて、なんだか別物みたいだった。ウルが笑っていたのが憎らしかった。王女様にも、副神官長さまにも、大人にも求められる彼が、私が手にできないガーネットを持つ彼のことが、『嫌い』なんだと……ようやくはっきりと自覚した。彼が今日までずっと落ち込んでいたら、この胸のつかえは無くなったのだろうか。
席に行けばあの子に会えるかと思ったけれど、あの子はやっぱりいなかった。
聖誕祭が始まる。
バイオリンの演奏も、女神様役の女性の横顔も、一人ずつに配られた色紙の花びらも、どれもこれも美しいもののはずだった。けれど、私はそれを見ても何も感じない。隣にあの子がいないから。
昨日と同じように、聖誕祭が終わってもあの子は姿を見せなかった。
だんだん不安になってきた。今日は特別な日なのに、朝からずっと姿を見せないなんて、何か事件や事故に巻き込まれたのではないだろうか。
マチルダ神官に相談しに行こうと思い、退場列から外れて神殿の奥へ向かった。
すると、階段の方からあの子の声が聞こえた気がした。王女様は先に退場したので、もういないはず。よく考えたら、今は王女様のお見送りで奥の神官たちも、みな出払っているのだった。
出来るだけ足音を殺して近づくと、やはりあの子の声だった。話の内容はよく聞こえなかったから、周囲を伺いながらそっと階段を上がった。
「だからね、この本とそのペンダントを交換してほしいの」
どきんとして踊り場の手前で歩みを止める。
「すみませんが、できません。このペンダントは何にも代えられません」
答える声は、ウルのものだ。
「でも、これってあなたが先生に借りて失くしていた本なんでしょう。あなたはこの本を見つけて差し上げた私にお礼の気持ちを示すべきではないかしら」
「……それは、ありがたいことですが。別の形でお返しします。とにかく、このペンダントをお渡しすることはできません。お話がそれだけなら、僕はこれで。看板を片づけに行かないと」
「お待ちなさいよ」
誰が階段を下りてくる気配がする。ぱたぱたとそれを追うもう一つの足音。私は内側の壁に張り付いた。
「離してください。階段で引っ張るのは危ないですよ」
「ねえ、恥ずかしいと思わない? 身の丈に合わないものを後生大事に持っているなんて。価値あるものは、それに相応しい人が持つべきだわ。ガーネットはあなたには似合わない。それはあの子のための宝石なのよ」
心臓がドキドキする。まさか、あの子は。
「……意味がわかりません。これは、僕の父と母をつなぐ大事なものです。あなたに相応しくないと言われる筋合いもありませんし、僕はもう二度と誰にも――っ」
怪訝そうな声でそう言った後、ウルは息を呑んだ。
「もしかして、先生が言っていた『看板を塗りつぶしたもう一人』というのは、あなたなのですか?」
私の心臓がずくんと、嫌な感じにうずく。
「……ひどい言いがかりだわ」
「左側の看板は、ガーネットだけが丁寧に塗りつぶされていました。それは、僕がガーネットを持つことを非難してのことと考えれば、納得できます。いえ、でもそれはもう良いんです。終わったことですから……。ただわかっていただきたいのが、あなたにとってはガーネットが重要なのかもしれませんが、僕はそうではないということで……」
「――は?」
思わず声が出てしまった。上の階段の二人がハッと息を呑む気配がする。私は踊り場に上がって二人の前に姿を見せる。あの子は――リースは私の顔を見て、ウルの手を放した。ウルはよろけたけれど、壁にもたれていたので、足を踏み外すことは無い。
「あなたはガーネットが重要ではないの?」
私が一歩ずつ迫ると、ウルはおびえた目をして服の上から胸のあたりを握る。そこにガーネットのペンダントがあるのだろう。私は、彼の手の上に自分の手を重ねる。
「な、なんですか、ルオナさ……」
「ガーネットが重要じゃないなら、私に頂戴よ。ガーネットでなくて良いなら、くれてもいいじゃない。どうして、どうしてあなたみたいな人が持っているのよ。そうやって言うのなら、別にあなたの誕生石でもないんでしょう? ねえ」
ウルの手に爪を立てた。ウルが顔をしかめて、私から逃れようと身をよじって踊り場に下りる。私は放してやらない。放してやるものか。
「いたっ……違うんです。そういう意味じゃなく……僕は、ガーネットであることにこだわっているんじゃなくて――」
「ねえ、ちょうだいよ。いいじゃない。あなたは、王女様にも、副神官長さまにも、先生たちからも気に入られているんでしょう。いじめられたら助けてもらえるんでしょう。それならいいじゃない。ガーネットの一つくらい、それをずっとずっと求めていた人にあげたっていいでしょう。あなたはもっといい物をたくさん持っているでしょう」
涙で前が見えない。もう、そこにあるペンダントが欲しくて仕方なかった。ガーネットの価値を知らないやつから引きはがしたかった。踊り場で揉みあっているうち、下り階段側に彼の背中が回った。
リースの手が私の肩に置かれ、彼女は私の耳に口を近づける。そう、きっと、あの日エルクにそうしていたように。
「ルオナ、手を放して」
落ち着いた彼女の声に頭が冷え、絶対放すまいと思っていたウルの手を、私はあっさり放した。
急に手を放されたウルの体は後ろによろめく。彼の頭がゆっくり後ろに、階下に向けて倒れていく。
それなのに、彼ときたら胸のペンダントから手を離さなかった。
こんなとき、人って何かに捕まろうとするものなのではないのかしら。
落ちゆく彼を見ながら、そんなことを冷静に考えられる自分に驚いた。