番外編 あの日のバーミリオン
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父に国を追い出されるような形で、レガリアに留学することになった。まだ幼い弟と離れ離れにさせられたのは身を切られるような思いだった。もっと遊んだり、勉強や魔法を教えてやりたかったのに。
私は「予知夢」の数少ない恩恵で知識だけは人より多いので、通常よりも一年早く入学できたのは幸いだ。あのグラジオが先輩になるなど、やりにくくてかなわない。
学院に通うレガリア貴族たちは学院寮というところに入るのが通例だそうだが、私の場合は何度もレガリアに通っていた関係で、城内に部屋が用意されていた。しかし、当然のようにグラジオの部屋の近くがあてがわれていたのは失笑ものだった。学院のクラスも違う上、かつてのように無邪気に遊ぶような仲でも無いというのに。
実際、入学してからも、グラジオと大して一緒にいたわけではない。レガリアの学院は他国からの留学生も多いため、私は将来の外交を見越してそういった者やレガリア国内の上流貴族と交流していた他は一人でいることが多かった。
一緒にいる際は合わせるけれど、精神年齢が釣り合わない相手と一緒にいてもつまらない。
今日も、一人で図書館に来た。
グラジオは騎士クラスで日が暮れるまで鍛錬をしているらしい。一度くらい見に来いと言われたが、全く興味がないので気が進まない。しかも行ったところで剣を投げられて相手をしろと言われるのが目に見えている。
レガリアには魔法が無い。宗教上の理由で、魔法に対抗するための職……魔法検閲官以外は魔法を使用するのが禁止されている。人々の中に魔力がある以上、誰にでもいつか向き合わねばならない時が来るのに、全く馬鹿げた国策だと思う。
しかし、魔法のない文化に全く興味がないかと言われれば、知りたいと思う。前時代的……あるいは原始的とも言えるかもしれないが、それだけ古代の文化に近い風習が残っている可能性があり、そこにはかつての魔法や魔法種族の痕跡があるかもしれないからだ。
だから今日は、レガリア各地の民話について調べてみようと思っていた。図書館の奥、神話や民話など古い物語の並ぶ本棚を見に行ってみると、黒い髪の少女が背伸びをして上の方の本を取ろうとしていた。
リナリアだった。
最近はグラジオたちの誕生日パーティも形式的な参加になっていて、あまり気にかけていなかったが……私より二つ下だったはずだから、今は10歳だったか?
ひどく久しぶりに近くで見た気がする。私が来国すると出迎えには来るものの、すぐに侍女の後ろに隠れたり、目が合うと逃げたりするので、初めて会ったとき以来まともに顔を見た記憶がない。嫌われるようなことをした覚えはないのだが、一方で親切にした記憶もないので、どうせ私が何か避けられるようなことをしていたのだろう。わからないので謝罪も反省もできないが、わざわざ問いただそうとも思えなかった。
こちらに気がついていないようだったので、しばらく本棚の陰から見ていると、リナリアは周囲を見回し始める。何を探しているのかとこちらも周囲を見て、踏み台や梯子の類が無いことに気がついた。この辺りはあまり子供が立ち入らないので、そういう配慮に欠けているのだろうか。それにしても、大人であっても身長が低い者もいるだろうに、由々しきことでは無いだろうか。帰る前に司書に申し入れておくか。
諦めるかと思ったら、リナリアは何か覚悟を決めたように一つ頷き……膝を曲げて跳んだ。それでも届かないので、続けて何度も跳び続けている。
深刻そうな顔と行動の不一致に呆気に取られていたが、よく考えると下手に引っ掛かったら危険だ。子どもの行動といえばそれまでだが、グラジオを彷彿とさせるのはやはり妹だということだろうか。
目の前で怪我をされるのも困るので、声を掛けることにした。逃げられるような気もしたが、それならそれで自分の用事を済ませるだけだ。
「どの本を取りたいんだ」
私が声を掛けると、リナリアはびくりと身をすくませて、目を見開いた。そういえばリナリアも、グラジオと同じ青く澄んだ目をしているのだった。
「バーミリオン……さま」
リナリアはみるみる顔を赤くして、頬をおさえる。確かに、一国の姫が本棚を前に飛んだり跳ねたりしているところを、隣国の王子に見られるのは恥ずかしいことなのかもしれない。流石にそこまで配慮はできなかったので、こちらとしても少々気まずい気持ちがしなくもない。
声を掛けたからにはさっさと用事を済ませようと、リナリアが手を伸ばしていた辺りの本を見る。そこは神話関係の本が多く入っている棚であった。
「リリア教の本か?」
リナリアは首を振って、その更に上の辺りを指差した。
「ほ、『宝石と……季節の……神話物語』、を、読みたくて」
見てみると、私の身長でもぎりぎりの高さだった。しかし、少し爪先立ちをしたら届く高さだったので、まだ良かった。これで私まで跳んだり跳ねたりする羽目になったら笑えない。
「これか」
リナリアに差し出すと、彼女は満面の笑みになり、受け取った本を胸に抱きしめた。それほどに読みたかったのか。
今なら多少は話せるかもしれないと思った。
「……宝石が好きなのか? それとも神話が?」
問いかけると、リナリアはいつものように俯いて目を逸らした。少し期待した自分が馬鹿らしくなったが、それならそれで慣れている。自分の探し物をしようとその場を離れようとした時、リナリアが声を出した。
「ほ、宝石、好きです。月の名前になっているの、どうしてかなって、知りたくて」
「ああ」
アルカディール・レガリア周辺ではリリア神話に関連する宝石が月の名前にあてられている。それはつまり魔法にも関連するところではあるのだが、魔法関連の情報を歪めて伝えられているレガリアにおいては、また異なる伝承がされているのかもしれない。私も多少興味が湧くところではあった。
「リリア神話に対応しているはずだが、レガリアとアルカディールでは少し異なるかもしれない。そういえば……以前グラジオが、騎士になると誕生石を柄に嵌めた剣を賜るのだと言っていたな。アルカディールでは各月の宝石は魔法の媒体として使うことが多く魔法使いの象徴だけれども、レガリアでは騎士の象徴なのかも……」
ハッとして口をつぐんだ。つい思考をそのまま口に出していた。子ども相手に話すには一方的すぎたかもしれない。横目でリナリアを見ると、なぜかこちらをじっと見つめたままだ。やけに注視されている気がするのだが、何か探られているのだろうか。
「……なんだ?」
簡潔に尋ねると、リナリアは瞬きをする。何度も。
「リナ……わ、わたくしは、ルビーが、好きです」
なぜか好きな宝石の申告をされ、私は首を傾げる他無かった。なぜ突然そのようなことを私に言うのだろう?
「ルビー……アクアマリンでは無いのか」
「?」
今度はリナリアが首を傾げた。なぜだ、お前の誕生石だろうに。
私の方が見当違いのことを言ってしまったような気がして、ため息をつく。
自分の好きな宝石なんて、考えたこともなかった。自分の誕生石は水晶で、幼い頃は御守りにと持たされたこともあるけれど、特別好きというわけでもない。
沈黙が重かった。
リナリアは何も話さないが相変わらずこちらを見ている。こちらはもう話題が無いし、別に考える必要もないので、本を探すのはまたの機会にしてもう帰ることにした。
「……では、私はこれで」
挨拶もせずに去るのは流石に不作法に過ぎるので軽く声を掛けると、リナリアは何度も頷いた。向こうもまた沈黙に困っていて、解放された気分だったのだろうか。
ヘレナは放っておいても勝手に色々と話しかけてくるので、出くわしてもこういう苦労はしたことがなかった。向こうの質問やら話やらに答えたり相槌を打ったりするのに困ることはあったが。
姉妹でもずいぶん違うものだ。
リナリアは年齢の割には難しい本を読んでいたようだし、図書館をよく利用しているのかもしれない。あと二年したらリナリアも学院に入学して来る。そうすると今よりは会う機会も多くなるかもしれない。
そうしたら、何故私のことを避けているのか、知る機会もあるだろうか。
◇ ◇ ◇
それから間もなく私に婚約者が決まったという知らせがあり、歳の近い異性との接し方に気をつけなければならなくなった。
だから今まで以上に会う機会も減り、リナリアと会話することもほとんど無くなったのだ。
──まさか、あのときのことも「好きだったから」と……あの女はまたそう言うのだろうか。
私という記憶情報以外は何も無い空間──しかしなぜか三度もリナリアが侵入してきた空間で、私は、幼い私が見聞きし触れたものを感じている。
無知で幼い私が、緊張してリナリアの手を取っていた。
好きな女と結婚したい、だなんて、あの父を見てよく言えるものだ。あれも自分なのだと解っていても、別人のように思える。
リナリアとのあの記憶も、あれはまた夢に見るのだろうか?
私ではない私が勝手に喜ぶのが何となく癪だから、見せてやりたくない気もする。
リナリアは、幼い私の顔をまっすぐに見つめる。
時折、以前私を見るときのような目をするときがある。大きな目を潤ませてこちらを見るのは、私を怖がっていたわけでは無かったのだろうか。
小癪なことに、幼い私はリナリアに見つめられると、それを喜ばしく感じている。それが直に伝わって、苦しい。
幼いグラジオがソファの隣に座って、ふざけて私を押す。私は、それを楽しいと感じている。
グラジオと遊ぶのを、あいつの話を聞くのを楽しいと感じている。
苦しい。
この胸のあたたかさが、苦しい。
この感情を否定出来ない自分が嫌になる。
今更こんなことを感じさせられて、どうしろと言うんだ。
なぜ「私」は、一人で此処に居る。
──なぜ?
馬鹿げたことを自問したものだ。
どれもこれも、自業自得だったな。
幼い私からの手紙を受け取って、リナリアが何度も瞬きをする。まぶしそうに。
そんなふうに私を見ていたこともあったと思い出し……私は気づけば笑みを浮かべていた。
あれは確かに変な姫だ。だが、結局は私が何も分かっていなかった──いや、分かろうとしていなかったのかもしれない。
私は、誰かに愛されることを無為に期待していた、臆病で卑怯な自分が嫌いだ。
……あの姫は本当に趣味が悪いと思う。