桜湯(後編)
第三王子が変わり者だというのは城の者ならずとも誰もが知っている。
一応王位継承権は持ってはいるが、誰もがこの男が継ぐとは思っていない。変わり者の王子、酔狂な王子、そう呼ばれていた。
第一王子と第二王子の王位をめぐる争いには、ほとんど縁のない第三王子に当然取り巻きのようなものはいるはずもなく、実際、今もお供を一人もつけず城内を歩いているのがその証拠であった。
ユーグルはエレンの疑問に対して特に気分を害した様子もなく、「いや、そこに生えてる桜と一緒だ」と中庭の桜の木を差しながらさらっと答えた。
これにはさすがにエレンも目を丸くした。
「では、何故それを求めたのですか?」
「私は、桜風呂に入りたかったのだ。しかし、このように立派な桜は大変希少だ。この美しい桜の枝を折るのはさすがに心を傷めるからね。そしたらアースドラゴンに立派な桜が生えているじゃないか。本当にちょうど良いタイミングだった」
と満足そうにユーグルは答えた。
湯のためだけにドラゴンの素材を棒に振ったのかと、度肝を抜かれた案内係りの少年だったが、エレンも負けず劣らず目を丸くした。
ただ、目王丸くした理由は案内係りの少年とは全く違う方向だが。
「桜湯とはなんですか!?」
エレンはものすごい勢いで第三王子に食いついてきた。
それを見越してユーグルはニンマリとした顔をした。
「知りたいか?」
「はい」
「どうしてもか?」
「はい」
勿体振るユーグルにじれながらもエレンは生真面目に返事をすると、ようやくユーグルは口を開いた。
「桜の湯とは即ち、極楽と同義だ。桜の樹木を煮出した湯からは、なんとも言えない桜独特の優しい花の香りが立ち上る。そしてその花を湯に浮かべれば、淡いピンク色が前面に広がり、目にも麗しい花見湯だ。ああ、思い出しただけでも、天にも上る心地だ。そう、端的にいって、最高だった」
そう言って恍惚の表情を浮かべるユーグルに、エレンは衝撃を受けた。
「湯に、花を、浮かべる、のですか?」
「さよう。おや、エレンはまだそういったことはしたことがないのだろうか」
エレンがお風呂を嗜み始めた月日はまだ浅い。
自宅に風呂を用意させてからは一年も経っていなかった。
ずっと、普通に湯を沸かしてそのぬくもりに満足していた。
エレンにとって、風呂というのは身を清めるイメージが強く、そこに水以外の不純物を入れるという発想はてんでなかったのだ。
思い返せば、何かを風呂に入れるというのは先日いれた焼き石が初めてだったように思う。
(湯に花びらを……。湯から花の芳香が立ち上る……?)
それはエレンにとって想像しがたいものだったが、十分に彼女の心を惹きつけた。
「ま、まだ、アースドラゴンに生えていた桜は残っているだろうか!」
「さあ、どうだろう。とりあえず私は丸々一本いただいた。マウントアースドラゴンの上に別の桜の木が生えていたらあるいは……」
ニヤリといった顔でユーグルはそう言うと、エレンは「そ、そうか……!」と興奮冷めやらぬ様子で頷いた。
「ユーグル王子、すみませんが、これから王との謁見を控えてますので、ここで失礼させていただきます!」
「そうだな。引き止めて悪かった」
エレンは再度軽く礼をして、その場を離れた。案内係りの少年を急かして謁見の間に進む。
その顔は、すがすがしいほどの笑顔だったという。
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謁見の広間にいた者達は、勇者の言葉に思わず目を点にさせた。
「ふむ、ということは、そちの褒美の品は、マウントアースドラゴンの上に生えた桜の木で良いのか?」
「はい。それをお頂戴したく」
恭しく膝を折って、謁見したエレンは、そう言って首を垂れた。
その声はどこかウキウキしており、エレンが本気でそれを欲しがったいることは明白だったが、一応王は再度口を開いた。
「マウントアースドラゴンは、数百年に一度出るか出ないかの災厄であると同時に、大変希少な魔獣である。その皮も、牙も爪も、それはそれは希少であるし、これから手に入れることも難しかろう。一番高価な目玉はまだ左目が残っておるし、最も硬い背中の皮も半分ほど残しておる。それなのに、その、その上に生えた桜の木で良いのか? 普通の木だぞ」
「は。それを所望したく存知ます」
「まあ、どうしてもそなたがそれでいいというなら、止めんが……」
といって、王は自らの息子である第一王子のアドルフと第二王子のリュクセンにちらりと視線を向ける。
二人の王子は明らかに落胆した様子だった。
勇者エレンに対するマウントアースドラゴンの褒賞には実は別の意味合いもあった。
王位継承権問題である。
数年前から、王継承権争いが、王も、そして中心であるはずの二人の王子でも止められないほどに泥沼化している。
第一継承権を持つのはもちろん第一王子であるし、文官達も第一王子を支持しているが、武官達は自らも屈強な騎士として働く第二王子を支持していた。
二人の王位継承権争いは、国の文官と武官の派閥争いのような様相になってきていたのだ。
どちらかに決まれば、武官、文官それぞれが不満を募らせる。
それは王としても王子本人達としても良くない事態だった。
そんな時に、勇者エレンが現れたのだ。
彗星のように現れた美しい森の狩人は、民の心をがっしりとつかんでいるし、その強さたるや一軍以上にも匹敵する。稀有な魔獣をやすやすと倒す彼女がもたらす経済高価は抜群で、その強さや見目の麗しさや話題性から文官や武官両方から慕われていた。
彼女が支持した王子ならば、次の王として大方の武官も文官も納得する。
彼女にはそれとなく王子達の継承権問題のことを話しているが、彼女はそう言うものには全く興味がないらしく『はあ。私としては国のためならば本望です。善処します』というよくわからない返答を返すのみ。
今回のマウントアースドラゴンの褒賞に関しても、勇者が選ぶ褒賞が、第一王子、もしくは第二王子と一緒だったならば、この拮抗した王位継承をめぐる勢力争いに変化が訪れるのではという思いがあった。
背中の皮を所望すれば、第二王子と同じだということで、勇者が第二王子側に着いたと思って、第二王子の派閥が勢いづくし、文官達の中にもなびくものがいるかもしれない。
そしてその逆もまた然り。
しかし結果を見れば、エレンが求めたものは桜の樹であった。
最悪なことになんやかんやと王位継承権争いからまんまと逃れた末の王子と一緒である。
これでは何も意味がない。
そういえばと王は上の王子が、勇者を王位継承権争いに絡めようとした時、難色を示してきたことを思い出した。
「彼女は勇者といえども、まだ幼い少女だ。そのような争いに巻き込むのはいかがなものか」
珍しく真面目な顔でユーグルが言ってきたので、王もその時のことはよく覚えている。
確かに、継承権争いに巻き込めば危険はある。どんな集団にも必ず一部は過激な者がいる。
もし、勇者が、どちらかの派閥を押すような素振りを示したとき、片方の派閥の一部が、彼女に危害を加える可能性は十分に考えられることであった。
(だが、アースドラゴンを一人で鎮圧する勇者だぞ。危険なことなどあるものか)
そう心の中に王はごちりながら、深くため息を吐く。
「わかった。そこまで言うのならば桜の木を与えよう」
王はどうにかその言葉を口にすると、勇者は嬉しそうに大きく返事を返したのだった
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(こ、これは、確かに極楽!)
桜の花を隙間なくちりばめた湯の中にエレンは、体を沈めた。
王から頂いたアースドラゴンの褒賞は、桜の樹木3本だった。
頂いた桜の樹木のうちの二本は、残念ながら、アースドラゴンが動いた衝撃で花びらを散らしてしまい丸裸の樹木であったが、それは来年のためとエレンの屋敷の庭に埋め直ししてもらった。
うまく根付くかどうかは運次第だ。
そしてなんとも幸運なことに、一本は、花ごと綺麗に凍り付けにしてあったおかげで、満開咲き誇る桜の花を湯船に浮かべることができた。
そして、その桜の樹皮や枝を煮出して、赤茶色い煮汁を風呂に入れて混ぜた。
風呂中に桜の優しい香りが漂っている。
(なんて、贅沢な花見だろうか!)
心なしか、いつもの湯と違い、桜の樹木の煮汁を入れた湯は、エレンの体をより暖かくしていく気がする。
そしてなんとも言えないこの香り。
まろやかな桜独特の香りがエレンの鼻腔をくすぐる度に身体だけでなく心まであったまるようだった。まるで春の木漏れ日のような温もり。
「春の息吹咲き誇る山の中にいるようだ。桜の控えめでいて甘い香りに包まれて、息をするごとになんとも言えない心持ちになる」
そう思わず口に出して、視線を湯に向けた。
小さく薄紅色の桜の花が湯面に咲き誇っている。
(香りだけでなく、見た目もなんと美しいことか)
しばらく花見を楽しんでから、エレンは目をつむり。さらに身を湯船の中に沈ませる。
贅沢に花見風呂を満喫するエレンは、満足そうに「はあああああ」といつもお風呂に入る時に言ってしまう満足げ息を吐き出した。
エレンが動けば湯と一緒に動く桜の花を浮かべたピンク色の水面が動く。
手で湯を掻いて、花びらをどけると、赤茶色に染まった湯が見える。樹皮を煮出して出てきた煮汁の色だ。
(いつもの透明な湯と違って色が違うだけでなんだか、それもそそられる。湯に何かを入れるという発想は無かったが……コレは素晴らしい。他にも何かあるんじゃないだろうか。何か……)
そんなことを考えながらエレンは今夜も最高の気分でお風呂を嗜んだのだった。
桜湯は最高であるけれども、絶対に公園とか学校とかに生えている桜の枝を折ったりして採取しちゃだめだよ!季節になれば花屋さんでたまに売ってるので、それで楽しもう!
良い子のお約束だ!