桜湯(前編)
「ぜっっっっったいにダメです! 星見風呂だなんて! そんなの! 屋根を取り外してしまったら、外から覗き放題じゃないですか!」
メイドのアンは主人であるエレンに対してそれはもうものすごい形相で詰め寄った。
「覗き放題と言っても、自分の屋敷の敷地内だし、壁だってあるし、覗こうとするやつらなんて……」
「います! 男という名の野獣どもがうろうろしているんですよ! 慎み! 慎みをお持ちください」
アンに強くそう言われてエレンはシュンと肩を落とした。
先日のドラゴン退治の報酬を王様から頂けるらしく、その報奨金の使い道について、アンに露天風呂を作りたいのだと話したところだったのだが、ものすごい剣幕で反対された。
風呂好きな勇者エレンとしては、今回の褒賞のお金で、星見風呂に興じたかったのだが……。
「どうしても、だめだろうか……?」
「まあ! そんな可愛らしい顔をしてもこのアンは許しませんよ! 露天風呂だなんて! エレン様の清いお身体が汚れます」
「風呂に入るだけなのだから、汚れはしないと思うが……」
とつぶやいたエレンは、途中でアンに鋭く睨まれて口を閉じた。
(これは諦めたほうがいいかもしれないな。もともと最初の風呂場の設置に関しても露店風呂は反対されたのでいまの屋根付きの風呂になったのだ)
そう考えて、エレンは唸る。
アンはエレンのメイドではあるが、エレンはアンに強く言うのが苦手だった。
貴族の作法や礼儀など、なにも知らないエレンに一から丁寧に親身になって教えてくれたのは、アンだった。
それにアンはエレンがやらなければならないもろもろの雑事も代わりにやってくれており、この屋敷を実質切り盛りしているのは、アンである。
なんとなくアンには逆らえない。まるで嫁の尻にしかれた旦那みたいな雰囲気があった。
「星見風呂が、まさかそこまで反対されるとは。まいったな。今回のドラゴン退治の報奨金の使い道はどうしようか」
「今後に備えて、普通に貯金をすればよろしいではないですか」
「貯金は……苦手だ」
とエレンは渋い顔をした。
エレンは貯金、というか貨幣というものが苦手だった。
もともとは狩人暮らしのエレンにとって、貨幣の価値というのがイマイチ理解できていない。
ただのなんの役にも立たない石の塊がエレンにとって魅力的に思える大きな肉の塊と交換できることは知っている。知っているが、イマイチ馴染まない。
そんなよくわからないものだからこそ、お金というのは、使わなければすぐに消えていくような感覚がする。それならば形の残るものに、早々に交換してしまいたいという思いが強かった。
「だが大金の使い道が全く思い浮かばないな。うーん、考えるのも面倒だ。お金のことはアンに任せる」
「エレン様、またそうやって、まったく……」
とあきれたようにアンは答えるが、それもまた信頼されているからこそだと思うと嬉しく思えた。
「とりあえず、今日はそろそろもう行かないと。王にその報奨の件で呼ばれている。謁見の時間までもうすぐだ」
「そうですね。今外に馬車を運ばせておりますので、到着しましたらすぐにでも出発できますよ。今回の報奨金はお金だけではなく、確か先日エレン様が倒されたドラゴンの一部をいただけるのでしたよね?」
「ああ、そう聞いている。でも何を頂くのかは、私の方で決めていいらしいのだが……迷っているんだ。牙か、爪か、皮か、目玉も確か加工すれば魔力を帯びた防具ができると聞いているし。あとドラゴンの肉も食べてみたいような……」
と口にして先日倒したドラゴンの姿を思い浮かべるが、山みたいなドラゴンはなんだか土臭そうで、おいしそうには思えなかった。
「エレン様、馬車がまいりました」
アンにそう言われて、エレンはドラゴン肉の妄想を中断し、馬車に乗った。
(まあ、その場で決めよう)
とエレンは決断を後に伸ばした。
ーーーーー
エレンは、馬車にゆられることしばらくして、王城に到着した。
「相変わらず、でかいな。マウントアースドラゴンよりもはるかに大きい」
そう言ってエレンは眩しそうに石造りの城を見上げてから、正門に向かう。
見張りの門番はもちろん、非番のものも、平民も、誰もが、かの有名な鳥弓の勇者が城に来ると聞いて、一目顔を見ようと門のそばに集まって来ていた。
当時、若干15歳の勇者の誕生に国中の人々が湧いた。しかもその勇者が美しい少女だというのだからなおさらだ。
それにエレンは、普通の女性よりも背が高く、顔の作りも可愛らしいというよりは中性的で、服装も男性が履くような身軽な恰好を好むので、知らない人が見れば少年のように見えなくもない。
そんなエレンに、ファンは多いが、特に女性のファンが多かった。
今もご婦人方が、黄色い声ではしゃぎながら、エレンを見て手を振っている。
「それにいつものことながら、城の近くは人が多いな」
とあるご婦人に手を振り返しながら、誰にいうでもなくエレンはつぶやいた。
当の本人は、城に入る時はいつものこうなので、『さすがに王城ともなると人が多いのだな』だけで完結してしまっていた。まさか自分を見たいがために集まってきているとは思ってもいなかった。
いつものことながら騒々しくエレンが入城すると、城の案内係の少年が出てきてくれたので、その後ろについて先へ進む。
謁見室に行くまでに、中庭が見える回廊を通るのだが、エレンはそこで見事な花を咲かせる樹木を前にして思わず目元を和ませた。
薄紅色の小さな花をあふれんばかりに咲かせる桜と言われる樹木が、中庭の一角に華々しく咲き誇っていた。
桜はこの国にとって、春を象徴するような有名な樹木ではあるが、ここまで立派なものはなかなかお目にかかれない。
「なんと美しい。そういえば、もう季節は春か。……王都に来てからというもの季節という感覚が少し遠くなってきたような気がするな」
誰に語るでもなくエレンが呟いた言葉に、城の案内係は「さ、さようでございますか!」と慌てて相槌を打った。
案内係の顔を見れば顔を真っ赤にさせて汗さえ吹き出ている始末。
どうしてこの人はこんなに緊張した顔をしているのだろうと思ったエレンだったが、自分がすでに勇者という身分であったことを思い出して、自分の意味のないつぶやきで相手を困らせてしまったのだと悟った。
何か声をかけてフォローをするべきか、しかしそれも逆に相手を困らせてしまうだろうかと悩み、そしてそんなことで悩んでいる自分に思わず苦笑いを浮かべる。
「エレン? 勇者エレンか? そういえば、今日来るときいていたな」
そう声をかけられて、声がした方を見れば、エレンもよく知っているこの国の有名な人物がいた。
白地に金糸の刺繍を上品に施した見るからに高級そうな服を優雅に着こなし、癖のあるブロンドの髪を肩の下まで無造作に伸ばしている。
長い睫毛に縁取られた目には、黄緑色の輝くような瞳が据えられていた。
「ユーグル王子、お久しぶりでございます」
そこでエレンは軍人のように右手を左胸に当てて、膝を折った。
勇者であるエレンが頭をさげる人物はそれほど多くない。
その数少ない人物の一人が目の前のユーグル王子。エレンにお風呂という贅沢を教えてくれたこの国の第3王子である。
「肩苦しい挨拶はよい。久しぶりではないか。よく顔を見せよ」
本当に嬉しそうにユーグル王子に言われて、「は」と短く返事をすると、エレンは立ち上がる。
「ふむ。元気そうでなにより。マウントアースドラゴンを倒したそうだな」
「はい」
「流石だ。エレンが倒したドラゴン、なかなかに良い土産を持ってきてくれた。商人ギルドの奴らがそれはもう嬉しそうにしていたし、我が国の財務大臣もニンマリしておったぞ」
先日エレンが倒したドラゴンは、凍らせて倒した。
一部損壊したところはあるとしても、氷を溶かせばその肉も皮も牙も爪も売り物になる綺麗な状態のものばかり。
上等な魔獣の素材はかなりの値段で取引される。
アースドラゴンなどという希少な魔獣ならば、そこから取れた素材の値段は計り知れない。
「それはよろしゅうございました。国のためになったのなら本望」
とエレンは恭しく返す。
何かいわれたら、返事をすること、何か話さなくていけないときは、『国のためなら本望』、『勇者の務め』、『善処します』的な言葉を使って返答すれば間違いないとアンに教わっているエレンは、だいたいのことはその教え通りに返事をしていた。
国のため本望でございますとか言っているが、全くそんなこと思っていない口調に苦笑いを浮かべたユーグルは「もう少し、感情を込めることができたら言うことはないのだが」と言って薄く笑う。
「はあ、さようでございますか。……善処します」
と言って小首をかしげるエレンにユーグルは、柔らかく微笑んだ。
「ところで、そのアースドラゴンで手に入れた部位をだな。父上の好意で私も一部頂戴したのだ。それは、それは、良いものを頂けたぞ」
その話もエレンは聞き及んでいた。
ドラゴンの素材の一部を三人いる王子にまず王は分け与えたという。
エレンがたまに顔を出す冒険者ギルドで噂になっていた。
噂によると、第一王子は、アースドラゴンの目玉を所望したらしい。
ドラゴンだけでなく魔獣の眼球には魔力が帯びており、魔獣の部位の中でも最も高価な箇所が眼球だ。二つしかないその目玉の一つを迷わず求めた第一王子に、ギルドの冒険者たちは合理主義で金好きな第一王子らしいと語っていた。
そして第二王子は、ドラゴンの背中の皮を求めた。
マウントアースドラゴンの背中の皮は、皮の中で最も硬く、加工すればどんな金属より硬くて柔軟性のある防具になる。軍事主義で戦い好きの第二王子はその皮で新しい自分の防具を作るのだろうと言われていた。
そして今エレンの目の前にいる第三王子は、アースドラゴンの背中に生えていた桜の樹木を求めた。アースドラゴンは、何十年も大地と一体となって眠っていたのだ。その背中には桜だけでなく他の植物も生えていた。ユーグルはたまたまアースドラゴンの上に生えていただけの桜の樹木を求めたのだ。
変わり者で酔狂な第三王子らしいと冒険者達はその話で大笑いをしていた。
冒険者達が話した内容を思い出したエレンは「冒険者達の噂に聞きました。桜の樹木を求めたとか。アースドラゴンに生えた桜の木は他の桜の木と何か違うのですか?」と普通に疑問に思ったことを口にした。
誰もが聞きたかったが誰もが聞けなかった疑問である。
その場にたまたま居合わせたエレンの案内係は、そわそわし始めた。