焼き石風呂(後編)
「エレン様、おかえりなさいませ。お早いお戻りですね。ドラゴンはいかがでしたか?」
エレンが屋敷に戻ると、メイドのアンが出迎えてくれた。
「ドラゴンは山みたいに大きかったが、何とかなった。あと息が生臭い。ところで、アン、お風呂、私のお風呂どうなった!?」
ドラゴンの話はそこそこに、エレンはアンにお風呂の塩梅を伺った。
アンは、穏やかに微笑み頷いた。
「ご安心ください。石を焼き直しております。すぐにでも湯を沸かせますよ」
「ああ! アン! 君はなんて素晴らしいんだ! ありがとう! 本当に!」
エレンは、嬉しそうにアンの手を取って両手で握りしめた。
その目は感動のため涙さえ見える。
女主人の熱い目を受けたアンは、顔を赤くさせ、「い、行けませんわ。エレン様、こんなところで……」と何事か乗り気な様子でつぶやいた。
なんだか盛り上がっているアンではあったが、エレンの心はすでに風呂に向かっている。
握っていたアンの両手を離して、周りにいる他の使用人に「では、早速用意を! 風呂に入る!」といって、そのまま進んでゆく。
唐突に手から離れた女主人のぬくもりに、残念そうな表情を見せたアンだったが、すぐにメイドの顔に戻って風呂の準備に向かった。
脱衣所に着くと、使用人に手伝われながらブーツを脱ぐ。そして魔獣の皮で作った簡易な鎧を脱ぎ捨て、シャツのボタンをほどき、下の履き物の紐も緩める。
アンをはじめとする使用人の手によって、エレンは生まれたままの姿にされていた。
日ごろから鍛えている身体は、程よく引き締まりながらも、女性ならではの柔らかさが垣間見れる。
きゅっとしまったお尻に、すらりと伸びた長い脚、そして出るところはきちんと出ている彼女の均整の取れた美しさにアンは改めてため息をこぼした。
一糸まとわぬ姿になったところで、アンが薄手の羽織物をエレンの肩にかける。
「毎回思うが、この羽織はいるのか? どうせ風呂に入るとき脱ぐのに」
「湯につかるまで、あまりにも無防備でございます。エレン様のお体は至宝。そうやすやすと見せてはなりません!」
「とはいっても、どうせ見るのはここにいる使用人達だけだろう」
「そうだとしてもです!」
鼻息荒くアンがそう言うので、エレンはそれ以上何かを言うのはあきらめた。
(それよりも、風呂にはいりたい!)
エレンは、はやる心を抑えて石畳の床を踏みしめて浴槽へと向かう。
以前、西方で暴れていた三つの頭をもつ魔獣を倒した褒美に国王に作ってもらった立派な石風呂だ。
人五人は余裕で入れるほどの広さのお風呂。
本当は、開放的に露天風呂と行きたかったが、アンを始めたとした屋敷の者に反対されて、石壁で囲まれている。
エレンが浴室に入るといい感じに湯気が充満していた。
そして、風呂が沸いている時に感じる独特の香りを吸い込んでエレンは満足そうに微笑む。浴室は、揺れるろうそくの明かりが湯気に溶けて幻想的ですらあった。
「エレン様、こちらに。すでに温めております」
アンは、いつも主人の体を洗うための石床に寝転ぶように催促した。
この石床の下にはお風呂の湯を通しており、お風呂が温かいうちは、ちょうどよい温かさを保っている。
「あ、ああ」
と気乗りしない様子でエレンは石床に寝転がったが、「しかし、その、毎回思うんだが、体ぐらい自分で洗えるんだが」と訴えた。
アンは、エレンにかけていた羽織を取り外して、主人の体を布と石鹸を用いて洗いながら、力強く首を振った。
「なりません! エレン様はすでに貴族となられました。貴族の方はご自分で体を洗わないのですよ!」
「うーん。とはいっても、私はもともとただの狩人だったし、やはりこういうのは気恥ずかしい」
そう言って、エレンは、少しばかり顔を赤くさせた。
エレンは、もともと平民、山に住む狩人だった。
魔獣を狩ることで生計を立てる狩人の一族の一人で、エレンはそこで他の兄弟と同じように弓矢の修行に森を駆け回りながら育った。
ある時、町一つを滅ぼした魔獣とばったり遭遇してしまったエレンは、死にもの狂いでその魔獣を倒し、その功績で王都に呼ばれた。
王都に呼ばれた時も何か褒美をもらって帰るだけだと思っていたが、城の宝物庫に眠っていた伝説の勇者の武器の一つである鳥弓がエレンを持ち主として選んでしまったために、王国お抱えの勇者として、王都近隣に住むように命じられたのだった。
勇者に選ばれたのは、つい1年ほど前、彼女が15の時。
美しい少女の勇者誕生に周りは沸いたものだったが、彼女としては森での気ままな狩り生活が恋しくてたまらなかった。
里に帰りたいけれど、王が許してくれないし、里にいる父や母に手紙をだしても、面倒だからそこにいなさいと言われて意気消沈する日々。
王都で、いじけていたエレンに第三王子のユーグルが『勇者になれば、貴族になれる。貴族になれば贅沢ができる。その贅沢の一つが、風呂だ』といって王宮の風呂場に連れていってもらったのだった。
そしてそれがお風呂との出会いだった。
もともと湯に体をうずめて身を清めるという習慣がないエレンにとって、お風呂と言う贅沢は衝撃的だった。
そしてそこからお風呂に魅了され、お風呂に入れるのなら、王都暮らしも悪くないと前向きに向き合うことができた。
「さあ、体も髪も綺麗にいたしました。どうぞ湯船におつかりください」
アンがそう言って、最後にエレンの長い髪を上にまとめあげると、恭しくエレンから離れる。
エレンはおもむろに起き上がると、湯船の縁に腰をかかがめて、手を差し入れお湯の温度を確かめた。
「良い温度だ!」
そう言って、エレンは、ゆっくりと、右足から湯船に入る。
右足が底に着けば、左足、そしてそのまま。
----ザブン
大きな音を鳴らして、浴槽の湯が勢いよく外に出た。
足も腕も無防備に投げ出し、肩まで湯に身を任せたエレンが、気持ちよさそうに「はあああ」と息を吐き出す。
(一番最初に湯に体を沈める時の脱力感が何とも言えない。骨身がしびれるような感覚がするほどに気持ちがいい)
そう考えて、エレンはしばらく頭を真っ白にして、湯に身を任せた。
心地よい温かさ、水圧、浮遊感を楽しみながら、揺蕩う湯をボーっと見つめる。
しばらく無心で風呂を楽しんでいたが、湯の温かさに慣れてくると、エレンは、手で湯を掬ってみた。
(焼き石で沸かした湯は確かにいつもと何かが違う。湯が滑らかだ。噂で聞いていたがこれほどに質感が変わるとは思わなかった。それにいつもよりも骨身に暖かさが染みてくるような気がする)
そう思いながら掬った湯で顔を拭う。
(気持ちいい。すべての疲れが湯に溶けだしていく)
そうして、湯を堪能したエレンはまた深く体を湯に沈めた。
(……それにしても今日倒したドラゴン、結構、でかかった。あの時は早く風呂に入りたくて、適当に済ませてしまったが、あれは結構すごいものを私は倒したような気がする。山みたいだったし。また褒美がもらえるかもしれない)
そしてエレンは、上を見上げる。
浴室内はお風呂の湯気が漂い、ろうそくの炎の明かりが、揺らめいている。
それはそれで幻想的な風景だ。だが。
(確かに、こういう感じも嫌いじゃないが、今日は快晴だった。屋根がなければ星を見ながら風呂に入れる。そんなことができたらなんて素晴らしいだろう……)
エレンはぼーっと風呂場の天井を見上げながらそんなことを考えた。
「よし! 決めた!」
そう言って、エレンは立ち上がった。
熱で赤く火照った体が露わになる。
アンが心得たとばかりに風呂場から上がる彼女に布をかける。
エレンの至福の時間の終了だ。
もっと長く入る日もあるが、その時の気分によって、そこまで長くない日もある。
少しばかりの至福の時間のためだけに、水を大量に使い、労力をかけて炎で湯を沸かす。
風呂に入れば、無防備な姿で、無防備な顔で、無防備にわが身をさらす。
この世にこれ以上の贅沢があるだろうか。
「エレン様、何をお決めになられたのですか?」
アンは、エレンの体をふきながら楽しそうな表情の主人にそう問いかける。
「ドラゴン討伐の報酬の使い道だ」
満足そうに答えるエレンに、アンは「さようでございますか」と頷いて微笑んだ。
風呂好き勇者の一日が、本日も穏やかに終わろうとしていた。