5.RE:fuse
朝目が覚めると、すっかり変わった景色に僕はしばらく動けなかった。薄汚い天井、明らかに薄っぺらくなった布団、小汚いカーテン、散らかったゴミ屑。明らかに様子がおかしい、というかそもそも住んでいる場所が変わっている。しかも悪い方向にだ。
出来ればこのままもう一度夢の世界へ現実逃避したかったがそれはドアのノックで破られた。
「おいカエル、起きてんだろ。早く朝メシ買ってこい」
江口沙希の声にしては随分野太くガサツだなあ、などと思ってみるが流石に自分を騙すことは出来ず、その見知らぬ男の声に辟易してしまい布団から起き上がれずにいる僕。
しかしすぐにガチャリと開いたドアから出てきた人物に掛け布団を引き剥がされる。
「ほら起きてんじゃねーか。ったく手間かけさせんじゃねーよ。おらはやく買ってこいよ」
「……はい」
なんのためらいもなく蹴りを繰り出してくる謎の男に僕は言い返すこともなくそう言ってのそりと起き上がる。ここはとりあえず言うことを聞いておくのがよさそうだ。そう判断して僕は立ち上がってドアへと向かうまではよかった。そう、そこまではまだ良かったんだ。謎の男が家にいることや僕の生活レベルが以前より更に下がっていることなんて目の前に広がる光景に比べれば些細なことだったのである。
「おはよう、ごめんね健斗も悪気はないんだけど」
江口沙希がソファに座っていた。その髪の毛は金色に染まっており、格好も露出が多く目のやり場に困っている自分を情けなく感じながらも僕は挨拶を返す。
「お、おはよう」
呆然と立ちすくむ僕の横を通り過ぎる健斗と呼ばれた男はそのまま江口沙希の横に座ってイチャつき始めた。
「おいカエル、はやく行ってこいよ。いつものな」
「もう健斗…」
ダメだ、僕はこれ以上この現実を直視出来そうもない。目眩すらしてくる始末。
この健斗とかいう男、最悪だ。何が最悪って僕より全然カッコいいし腕も丸太かってくらいに太い、背丈も高く肌の色も趣味はサーフィンですと言わんばかりの日焼けぶりだ。
つまり、僕は全てにおいて勝てるところがないということである。というか江口はこの男に悪気はないとか言ってたけどどう考えてもあるだろ。朝ご飯買ってこいって僕完全にこいつの奴隷みたいな存在になってるよ。なんなんだよ、これ。
「みてんじゃねーよ」
こっちから願い下げである。見たくもない、こんな、こんな光景。
僕は気を落ち着かせる為に一度深呼吸をして(しかし空気が悪い気がしたので可能な限り浅めに)そのまま玄関と思しきドアへと向かう。一番汚らしいスニーカーが自分のだろうと推測しそのままそれを履いて外へと出た。何も言われないあたり正解だったのだろう、悲しい。
「どうしたもんかな…」
一人呟くがそれに返してくれる者は誰もいない。昨日の今日でいくらなんでも落ちぶれすぎではないだろうか。大体なんなんだあの健斗とかいう男は。それに江口沙希だってどうしてあんな男に…いや落ち着け、落ち着くんだ僕。まずは状況を整理しよう。とりあえずどこか喫茶店にでも入ろうと思い、見知らぬ町を練り歩く。
手頃なファミレスに入り漸く腰を落ち着けることができた僕は、冷たい水を体に流し込んで深いため息をつく。
昨日の夢の中で僕がしたことにより現実が変わっているのはこれでもう疑いようがない。なんでこんな力が僕に突然宿ったかはわからないが、このままでは絶対にダメだ。
まずこうなった原因を考えなければ。
とりあえずドリンクバーでも注文をしようと店員さんを呼んだところで僕は店員さんを二度見、いや五度見した。
「…仁藤先輩?」
「…内間」
さっぱりと凛々しい表情はそのままに、格好がキャリアウーマンからファミレス店員に変わった仁藤香織がそこにいた。
「な、なんでこんなところに。というか何してんですか」
「うわ、結構ひどいこと言うんだね内間は。注文受け付けてやんないぞ」
「いやいやいや」
僕が落ちぶれるのはまだしも、何故仁藤さんがファミレスで働いているというのか。彼女はバリバリ働き社内からの評価も高かった人材のはずで、こんなところにいるはずがない女性のはずで。
「あと一時間すれば休憩だからちょっと待ってて」と言うと、彼女はそのまま僕から注文をとってスタスタと去ってしまった。
きっかり一時間後、メロンソーダを飲んでいる僕の前に仁藤さんはストンと座り「久しぶり」と言った。久々のご対面らしい。
「すみません、ちょっと僕諸事情で記憶喪失になってまして…最近の出来事とか全然覚えてないんです」
と僕は一時間かけて考えたにしては酷くお粗末な嘘をつく。
それを知ってか知らずか、仁藤さんはひとしきり驚き僕を心配したあとこうなった経緯をつらつらと話し始めた。
「私と内間が働いてた会社が潰れてさ。人生何があるかわかんないよね。んでとりあえず職を探しつつここでバイトしてるの」
そう言った彼女は力なく微笑んだ。初めて見るその表情に面食らいつつ、「仁藤先輩ならすぐに仕事みつかりそうなのに」と僕は心からの言葉を投げかける。「ありがとう」とこれまた力なく言った彼女は、「内間は今何してるの?」と聞いてきた。
こっちが聞きたい。と言いたくなるのを我慢して僕は「仁藤先輩と同じですよ。バイトしながら職探しです」と適当に答えておいた。
今頃江口と健斗とかいう男は僕を探していたりするのだろうか。と考えた矢先、「おい」と声をかけられる。
ふっと顔を上げると怒りに満ちた視線が僕に注がれていた。
「戻ってこねえからここで朝メシ食おうかと思えば…何やってんだよ、カエル」
「あ、いや…」
まずい。まずいまずいまずい。これはどう考えても殴られて気絶パターンだ。というかなんでここにくるんだよ。江口に作ってもらえよ朝メシくらい。
「まあまあ落ち着きなよ健斗」
江口は健斗を諌めているものの、彼は完全にキレているらしく僕から視線を一ミリも動かさず睨み続けている。
「あの、あなた誰ですか?」
完全にビビっている僕を見兼ねたのか、仁藤さんが参戦してきた。こういう男勝りな所も今の状況では大歓迎である。
「なんだあんた」
「内間の元上司です。で、あなたは?」
「じゃあ関係ねぇな。すっこんでろ。おいカエル、聞いてんだろ。何やってんだよ、朝メシ買ってこいって言ったよなあ?」
しかし怒りの矛先は不動のようで、ドスのきいた声が僕に突き刺さる。
「関係あります。何なのあんた偉そうに」
「あ?」
数秒で一触即発の状況を作り出すあたりこの二人の相性は最悪を通り越してもはや天災か何かと言っていいだろう。会ってはいけない二人が会ってしまったのだ。このままでは死人が出ると感じた僕はどもりながらも口を開く。
「ごめん、あの、ちょっとそこでこの人に会ってさ。ついつい長話しちゃったんだ」
「そうかよ。じゃあ一発で許してやる」
は?と言うより前に左ほほに衝撃が走り気付くと僕は地面に横たわっていた。あがった悲鳴は江口か仁藤さんか。もしかしたら二人ともかもしれない。
「内間!」と仁藤さんの声が聞こえた。しかし僕はそれに応えることも出来ずに、あとから襲ってきた痛みに声も出せずにいた。くらくらする。よく漫画で殴られて星が出たりしていたけれどあれは本当らしい。目がチカチカして何もみえない。
「大丈夫、内間!?」
「ちょっと健斗!」
「うるせえよ、こんなくらいじゃ死なねーっつーの。ああすいませんね、気にしないでください、暴れませんから」
僕はうう、と弱々しい声を出しながらゆらゆらと立ち上がる。勿論仁藤さんに支えられて、この上なく無様にだ。
「ったく手間かけさせやがって。もう次はねーからな」
何も答えられない僕。こんなに自分は情けなかったのかと泣きそうになるが痛みでそれどころでもない。鼻血出てるし。死にそうである。
「おい、他の店行くぞ沙希」
「う、うん…」
そう言って僕を殴った筋骨隆々の男は昨日まで僕の元妻だった女性を連れてファミレスを出て行った。
「内間、大丈夫?」と泣きそうな仁藤さんを見てこの光景が拝めたならまあいいかなどと思いつつ、僕は椅子にガタンと腰を下ろす。止まらない血を抑えるべく紙ナプキンを大量に仁藤さんから受け取り鼻を押さえた。
最悪だ。なんとしても早く寝て現実を変えなければならない。とはいってもすぐには寝られそうにないけれど。
「ねえ、なんなのあの男」
「さあ、わかりません。いつのまにかいっしょだったんです」
やっとの思いで喋りながら僕は仁藤さんを安心させるべくニッと笑った。
仕事早上がりさせてもらうから、と仁藤さんは言って「うちにおいでよ。救急セットあるから」と僕に優しく微笑んだ。仁藤香織のことを今まで金剛力士像か何かだと思っていたけれど、この時ばかりはこの人が女神に見えた僕なのだった。
そしてファミレスを出るとき僕はふと彼女の事を思い出した。
江口沙希はガラの悪い男と結ばれ。
仁藤香織はファミレスの店員になり。
そして僕は職を失って奴隷扱いを受けている。
それなら。
それなら柏尾梓は。
僕が声をかけたあの不登校になるはずの女の子はどうなっているのだろう、と。