2.RE:member
少し傷のついた机、ガタガタ動く硬い木の椅子、騒がしい子供達の声。キーンコーンカーンコーンと、何度聴いたかわからない鐘の音がすると一斉に周りはその動きを止め席につき始める。
「…学校?」
そこには懐かしい風景が広がっていた。いや、風景だけじゃない、と微かにする鉛筆の芯の匂いに鼻をひくつかせながら僕は目の前の机から教科書を取り出す。チラリと黒板の横にある予定表をみると、これまた懐かしい文字がズラリとならんでいた。
「内間君、次は国語じゃないよ?」
そう言って女の子が僕の隣に座る。そうか、隣の席とはくっついて座るんだった。この感覚は、なんというか恥ずかしいような嬉しいような。隣に若い女の子が座ってくれただけで涙が出そうになるなんて、僕ももうダメなのかもしれないな。電車で隣に女子高生が座ってくれたサラリーマンが、生きていてもいいのかと思うそれと同じである。
「内間君?」と彼女が訝しげにこちらを見ながら、次は社会だよと言って薄っぺらな教科書をゆらゆらと僕にみせる。
「あ、うん」と僕はおざなりに答え名前のわからない彼女から視線を外すと、机の中に社会の教科書がないか漁った。
この感じ、覚えている。中学校だ。何年生かまではわからないがこの風景ははっきりと覚えていた。とするとーー
「夢か」とぼやくと隣の彼女がさらに怪訝な顔で僕をみてくる。
「今日宿題やってきてないの?写させてあげようか?」
「いやいいよ、もう授業始まってるし」
「ならいいけど」
それきり彼女はもう授業モードと言わんばかりに黒板の方を向いたかと思うと僕を見ることはなかった。
夢。やけにはっきりとした夢だ。夢を夢だと認識出来たら、ええと、どうなるんだっけ。
そんなことを考えながらようやく見つけた社会の教科書を取り出し適当なページを開く。大化の改新、か。懐かしくて涙が出そうである。
「起立、礼、着席」
学生時代は当然だったその号令も今の僕には寝耳に水なわけで、慌てて立ち上がり皆に合わせて動いた。隣の彼女がまたこちらを見た気がしたけれど、そのまま何事もなく授業が始まる。
退屈な学校の授業。夢くらい楽しませて欲しいものだが、きっちり60分早送りされることもなく授業は進んでいった。こんな夢があるか。
そして再び鐘の音がなる。
「じゃあ今日はここまで。明日は一人一回は挙手するんだぞー」
今や現実の自分よりも若い教師をぼんやりと眺めながら僕は教科書をパタンと閉じた。久々の授業は当時と比べれば聞いていられたが決して面白いわけでもなく、僕はようやく終わった授業から解放され一度伸びをする。
というかこれが夢なら授業を真面目に受けずに抜け出してもよかったのか。損した。
「今からでも遅くないか」と一人つぶやき、教室を出ようとしたところで「ちょっと待って」と同級生に呼び止められた。
「内間君、どこに行くの」と言った女の子は前髪が長く俯き加減で、見るからに大人しそうな子だった。そういえばさっき号令していたのはこの子だったっけ。
「別に」
一時間真面目に授業を受けたのだから自由にさせてくれと思いつつそのまま教室を出る。後ろから刺さる彼女の視線は痛かったが、それよりも僕はやりたいことがあったのだ。
これが夢なら、自分の思うままに出来る世界なら、やっておきたいことがある。案外十年以上経っても校内は覚えているもので、特に苦労することなく僕は目的地にたどり着いた。
二年三組
それが僕の憧れの場所、後悔の跡地。僕がドアを開けるのを躊躇っていると後ろから「邪魔」と声をかけられ慌ててドアに手をかけた。
ガラガラ、と音を立てて僕の視界がドアの灰色から鮮やかな緑色に変わる。緑色。そう、それは僕の幼馴染である彼女の色。
「おっ、カエルじゃーん。どしたの」
「そのあだ名はやめろって言っただろ」
小学一年生の頃、嘔吐したからカエル。ゲロゲロ。
「なになに」と言いながら彼女は二、三歩下がってくるりと回り教壇の机に肘をおきもたれかかる様に立った。鮮やかな緑色のカーディガンを着た彼女、江口沙希は僕の家の斜め後ろに住んでいて幼馴染である。全然馴染みなどではないのだが。
そんな彼女に会いに来た理由。それはたった一言、伝えておきたい事があったから。例え夢だとしても、いや夢だからこそ、後悔はなくしておきたい。あの頃の僕は彼女に対して素直になれなかったから。
「江口」
「なーに?」
「好きです。付き合って下さい」
その一瞬で、江口の目が見開かれみるみる顔が赤くなっていく。周りが「ひゅー熱いねえー」などと囃し立てている。少し顔が熱い。世界が回ってしまいそうなほどの緊張が今更やってきた。僕は、伝えたんだ、夢の中だけど、確かに彼女に。
そしてしばらく下を見つめたかと思うと、江口はゆっくりと顔をあげその小さな口を開いた。
「ごめんなさい」
ーーあぁダメだ、世界が回り始めた。その言葉は予想通りだったけれど、僕はそこから始まる沈黙に耐え切れそうもなかった。そうなんだ、とすら言えそうもない。喉が焼けそうだ、いっそ燃えてなくなってしまいたい。
「おーい内間、お前今日日直だろー?黒板消し柏尾一人にやらせるなよー」
後ろから最悪のタイミングで男の声が聞こえてくる。今はそれどころじゃないんだ。日直なんて…日直?そうか、僕が教室から出るのを止めた女の子、僕と二人で日直だったのか。だから呼び止めたと。号令は日直の仕事だったっけか。黒板消し、申し訳ない事をしたな。
僕の思考が明後日の方向へと進み始めた時に、肩にポンと手が置かれる。
「おい聞いてんのかよ内間…ん?あれなんか俺タイミング悪かった?」
「いや、最高のタイミングだよ」
そう言って後ろを振り返った瞬間。
立っていたのは人間ではなかった。体こそ人間ではあるもものの、顔は真っ暗になっており赤く光る目の様なものが二つ存在していた。黒い靄の様な男。呆気にとられるよりも前に、僕はその眼差しに吸い込まれてーー
「ーーはっ」
ガバッと、体を反射的に起こす。あたりは夜の闇に包まれていた。手には柔らかい感触…布団、か。荒くなった息を整えようとしばらく目を閉じ再び布団へと倒れる。最悪な夢である。いや、真っ当な夢か。僕が江口沙希に告白したところで現実でもああなっていたことだろう。まあ、そんなありもしない現実を考えてもしょうがないのだけれど。
「夢、か」
「悪い夢でもみたの?」
突如隣から聞こえた女性の声に磁石が反発したかのごとく布団から跳ね起きる。声のした方向には、髪の長い女性。しかもこの顔は見覚えがある。大人びてはいるけれど、いや大人になってはいるけれどつい先ほど見て来たのだから見間違う筈がない。
「江口…?」
どうしてこんな時間に、いやそれよりもなんでここに、僕のところに、と凄まじい勢いでフル回転する頭とは裏腹に僕は情けない声でそう吐き出すのが精一杯だった。
突然慌てふためく僕に驚いたのか、彼女はしばらく目を見開いてぼぅっとしていたが次の言葉は僕のフル回転する頭を急停止させるには十分すぎる程だった。
「また懐かしい名前で呼ぶのね。今はあなたと同じ、内間でしょ」
そう言って彼女、江口沙希、いや内間沙希は僕の口にちゅっとキスをした。
「ほら、寝ようよ。まだこんな時間なんだから。よっぽど怖い夢だったんだね」とクスクス笑う彼女。
「次は良い夢見れるといいね」と言って僕と同じ布団へと潜り込む彼女。
「そうだね」と、僕はやっとの思いで口を動かした。そして。
今度こそ、本当に世界が回り始めたのを感じていた。