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グランツを捨てる決断をしたとき、グランツとの思い出が溢れる。
はじめは、あんな人じゃなかった。
むしろ、優しくて気配りのできる、ひどく真面目でいい人だった。
いつからだろう。
グランツが私に暴力を振るうようになったのは。
だんだんと辛い思い出のほうが増えていく。
はじめて殴られた頬。
へまをして蹴られた腹部。
頭が痛いと訴え、じゃあこうしようと絞められた首。
おまえが悪いと言いながら水に突っ込まれた顔。
こんなのから、全て解放されるんだ。
嬉しくて、涙がこぼれ、化粧を落とす。
ごまかしを入れ、入っていいと言われている、
店の裏のに建っているピエロの部屋へノックをした。
どうぞ、と声がし、シェリアはそっと部屋へ入った。
ベッドで横になっていたピエロの頭に、包帯が巻かれていた。
仮面はきれいになり、ピエロの顔面を笑顔にしている。
「こんなときぐらい、仮面外したら?」
「シェリアがいるからだよ」
「何?何か顔に問題があるの?」
「ないけど…。ちょっと恥ずかしいんだ」
「何を今さら…。わかった、背向けてるから外しなさい」
「ありがとう、シェリア。後ろ向かないでね」
シェリアがピエロに背を向け、ピエロのベッドに座り
寄りかかったのを確認してから、背後からごそごそ音がした。
「シェリア!こっち向いて!」
「え?」
「いいから、ほら!」
嫌な予感がしながらも、シェリアは後ろ────ピエロのほうを向く。
レスラー顔負けのタイガーマスクが、こちらを向いていた。
「ぶっ!!」
「ははは、シェリア笑った!」
「もう、ケガ人は寝てなさい!」
「ははっ、でさ、その頬のあざどうしたの?また彼?」
彼の顔には少し大きいターガーマスクが、横に傾く。
彼のやわらかくあたたかい手が、シェリアのほほを包んだ。
「…そう。だからね、あいつを捨ててやったわ」
「うわあ、度胸あるなあ」
「…もううんざりなの。だから、逃げる」
「そっか。俺にも何かできることあったら言ってね」
「ありがとう、ピエロ」
ピエロとの時はすぐに過ぎる。
あっという間にピエロがリハーサルをする時間が来た。
「今日はやめておいたほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。もう血は出てないし、本当に痛くないんだ。
触ったら痛いけどね」
「そう…。無理はしちゃだめよ」
「ありがとう、シェリア。行ってきます」
仮面をし、ピエロは店へ行く。
シェリアは、ピエロの化粧道具を勝手に借りて
頬のあざを隠し、家へ戻った。
荷物を取りにいくためだ。
決して、グランツへの情なんかじゃないから。
そう言い聞かせ、家へ戻ると家は開いていた。
グランツが優雅にコーヒーを飲んできいた。
「ただいま」
「おかえり、シェリア。あの店の開店時間はいつだ」
「え?」
「今日、一緒に行くって言ってただろ。開店時間は?」
すっかり忘れていた。
今日だけ我慢し、明日に家を出よう。
決心し、グランツと話を続ける。
「確か7時よ。7時半には確実に開いてるわ」
「そうか。じゃあ7時半に行こうか」
いつもこうだ。
ひとしきり暴れた後、何事もなかったようにシェリアに
優しく話しかける。
バレッタを隠しながら、シェリアは準備を進める。
グランツはシェリアを気にも留めず、夕刊を読んでいた。
その間、シェリアはこっそりと家出の準備を見なおした。
わずかなグランツの給料で貯金したお金。
下着や服、歯ブラシなどの洗面用具。
トランクから出し、しまい終えたあと、グランツの声がした。
「タバコが切れた。買ってくる。待っていろ」
「はい、わかったわ」
シェリアには都合がよかった。
ついでに、キッチンから隠しておいたヘソクリを出す。
今グランツと住んでいるこのアパート5ヶ月分の金額。
4年半、よく耐えてきた、私。
今日でこの地獄は終わりよ。
がんばれ、シェリア。
最後に、ばれるといけないと思い詰めていなかった
化粧道具をトランクに詰め、思いっきり蓋をした。
グランツを許す気はなかった。
ただ、哀れな男とだけ見ておこうと思った。
たばこを買うのに1時間も待ったシェリアに、グランツは
「はは、すまん」との文句だけで済ませた。
一緒に家を出、シェリアが鍵を閉めた。
なぜピエロに石を投げたのか、
なぜピエロをこんなにも敵視しているのか。
聞きたいことは山ほどあったが、今日はがまんの日だ。
店に入ると、お客はそれなりにいた。
シェリアの知っている顔の人も、何人かいた。
はじめて来たときと同じウェイターが、シェリアとグランツを見比べ。
事情を知らない彼はシェリアにこっそり、おめでとう、と言った。
シェリアはいつも食べているハンバーグを。
グランツは赤ワインとステーキを頼んだ。
少しして、ウェイターは赤ワインと二人分のつまみをくれた。
2人で食べ、食べ終えると同時、ピエロの前座が始まる。
いつもより大きめの仮面をして、顔を──顔の傷を隠していた。
今日は、はじめて会ったときと同じ、玉乗り。
路上ではわざと転んだ技も、ここではしっかりとやり遂げる。
いつもと変わらない舞台だった。
天井から、スポットライトが落ちてくるまでは。
間一髪でよけたピエロ。
観客は騒然とし、ざわつき始める。
ピエロ自身も驚いていたようで、観客の安全を考えて
そっとトラス舞台の幕を閉じようとしていた。
礼をした頭上、トラスの鉄の雨がピエロを襲った。
さすがによけきれず、ピエロの右足が下敷きになった。
どうしよう。
頭が真っ白になった。
そっとグランツを見ると、ピエロの仮面のような笑顔で
ピエロを堂々と見据えていた。
ぞっとした。
同時、どこかでカチ、という音がした。
響く爆発音。
キッチンのほうからだ。
観客が逃げ惑う中、シェリアだけは反対方向へ走っていた。
舞台で、ピエロがぐったりしていた。
「ピエロ!」
「…シェリア!!逃げろ、バカ!!」
初めて聞いた、彼の怒号。
「俺を置いて、早く外へ走れ!!」
「嫌、嫌よそんなの!!…待ってて」
鉄柱を、1つずつ奥へ奥へ投げていく。
火は、どんどん店を包んでいく。
いつの間にか、2人の額に汗が浮かんでいく。
「ほら、よっと!!」
鉄柱をどけて、ピエロを引っこ抜いた。
彼の右足があり得ない方向へ曲がり、うねっていた。
「さあ、逃げましょう」
「無駄だよ。ほら」
指さす方向。
入口は、すでに火の海だった。
もはや、燃えていないのはステージの上のみ。
「ごめん。俺のせいだね、シェリアが死んじゃうの」
「何言ってるの。自業自得よ」
「…俺ね。ずっとシェリアが好きだったんだよ」
「知ってたわ。私も、ピエロのことが好きだもの」
顔が火照っているのは、火のせいか、彼のせいか。
ピエロが、シェリアの腕の中でそっと仮面をとった。
端正な顔つきの彼が、中からそっと出てきた。
「おかしいな。この店の誰にも見せたことなかったのに。
…はじめまして。俺、ケビン・サエルです」
「はじめまして、ケビン。私はシェリア・グランツよ」
ピエロ──ケビンの頬に、シェリアの涙が落ちる。
ケビンが、涙をこらえているのが解る。
「ケビン。大丈夫、大丈夫」
そっと、ケビンを抱きしめた。
炎と、ケビンの熱がそっとシェリアを包む。
「シェリア、俺の名前を、顔を、思い出させてくれてありがとう。
俺、やっぱりシェリアのことが大好きだよ」
「ケビン。私も大好きよ」
ゴオ、と炎の悪魔がステージを包む。
「 」
「 」
炎に包まれ、2人の言葉は消えた。
やわらかい唇同士が、炎の熱に抱かれてそっと触れた。
数日後。
放火及び殺人罪で、ある男が逮捕された。
死亡者は、2名。
その墓は、今も仲良く寄り添っている。




