イン・ザ・クローゼット 2
「ほら、ほんのひとっ跳びだったろう、お嬢さん」
あれだけびゅんびゅん飛び跳ねておきながらけろりとした顔でお茶を飲んでいるウサギ耳を、アレットはうんざりしながら見上げた(というのも、アレットは汽車のシートに寝転がっていたからだ。アレットはウサギ耳のように飛び跳ねることには慣れていなかったので、ほんのちょっと気分が悪くなってしまっていた)。
「そうですね――でもどうせひとっ跳びなら、もうちょっとゆっくり、歩いてきてもよかったんじゃないかしら!」
「僕たちが歩いてくるのを待ってたんじゃ、特急列車にならないじゃないか、お嬢さん」
アレットはもうウサギ耳と話をするのはあきらめて、特別に注文したアイスティーを一口すすった。それで少し気分が良くなってきたので、妹たちの様子をたしかめてみることにした。本を開くと、なにも言わなかったのにウサギ耳がさっきのガラスびんを出してくれた。
二人は相変わらず、どちらが王子様のお嫁さんになるかということでけんかをするのに忙しいらしい。アレットはその時になって、そういえばあの二人はお城にいるのに本にちっとも王子様が出てこないのは不思議だわ、と思った。
「ねぇ、お嬢さん」
ウサギ耳がおずおずと――その様子は実に彼らしくなかった!――声をかけてきたので、アレットは本を閉じた。なぁに、と聞いてやると、ウサギ耳は頭にのせていたクローバーの冠を一度外して、かりかりと頭のてっぺんを指で掻いた。照れているような、緊張しているような、不思議なしぐさだった。
「あのねぇ、もしも――もしもなんだけど」
「はい、なんですか」
「お城に行って、王子様が君と結婚したいって言ったら、君はどうするかな」
アレットはおどろいて、ちょっとすぐに答えることができなかった。王子様がアレットに結婚を申し込んだら? 考えたこともなかったけど、たしかにわたしだってお城に行くんだし、そういう可能性もあるわけよね。
けれどもアレットはそもそも妹たちを連れて帰るためにここに来たのであって、王子様と結婚するために来たのではない。そうなっちゃったら、そういうのってどう言うんだったかしら、とアレットは学校で習ったことを思い出そうとしてみた(そしてすぐに、「ミイラ取りがミイラになる」という言葉を思い出した。アレットは妹たちとはちがって、学校の勉強がきらいではなかったのでそれほどむずかしくはなかった)。
アレットはうーんと考え込んで、注意深く言った。
「それって、すごくむずかしい質問ですね。だってわたしは王子様と結婚するためにここに来たんじゃないもの! ……でも、そうなったらちょっとすてきだなとは思いますけど」
その時、ウサギ耳が飲んでいたお茶のお代わりを客室係が持ってきた。どういうわけかその客室係は日曜日に行く教会のシスターのような格好をして、首から金色のロザリオを下げていた。客室係はていねいな手つきでウサギ耳にお茶を入れてあげながら、アレットにほほえみかけた。
「それじゃああなたは王子様と結婚して、妹たちも連れて帰ろうと言うのかしら」
少し欲張りすぎじゃない、とでも言いたそうな調子だったけれども、客室係はきちんとアレットにもお茶をくれた。ただ、カップを置く時に、ウサギ耳にそうした時はちっとも聞こえなかったがちゃんという音がしたのを、ちゃんとアレットは聞いていた。
「ひとつのことをつかむのはいいけれど、他のことからも手を放してはいけないと言いますよ」
格好がシスターみたいなら、言うこともシスターみたい。アレットは正直なところさっぱり意味のわからない言葉に、肩をすくめた。
「二兎を追うものは一兎をも得ず、って意味だね、つまり」
自分もウサギのような見た目のウサギ耳がそんなことを言ったものだから、アレットは思わず小さく吹き出してしまった。
お茶の道具をかたづけると、シスターはつつしみぶかくおじぎをして、金色のロザリオをちらちら光らせながら次のコンパートメントに向かった。それを見送って、ウサギ耳はさっきのは忘れてくれてもいいよ、お嬢さんとちょっとさみしそうに肩を落とした。アレットはすぐに、王子様が結婚したいと言ったら、という話のことを言っているのだと気づいた(そう、アレットはウサギ耳が話をむしかえすまで、そんな話をしたこともほとんど忘れていた!)。
けれどもウサギ耳は、忘れていいと言ったくせに切なげにため息をついたり、わざとらしく自分の本をめくってみたりして、うっとおしいことこの上ない。アレットは、無視するのはちょっとかわいそうかしらとも思ったけれど、相手をするのもなんだか気が重くて、寝たふりをして窓の外をながめた。
汽車は特急というだけ速くて、もう七本目の鉄橋を越えてしまっていた。線路はゆるやかなカーブを描いていて、後ろの方に赤い鉄橋と月にきらきら輝く川の水面が見えていた。妹たちもこの風景を見たのだろうか。けれども彼女らは汽車のチケットを持っていなかったから、ひょっとしたら歩いてお城まで行ったのかもしれない。汽車に乗ってからもうずいぶん時間が経っている。こんなに長い距離を歩くのは、まだそれほど大きくはない二人にとっては、ずいぶん大変だっただろうにとアレットは小さくため息をついた。
そういえば、わたしがここに来てからもうずいぶん経つのに、まだ朝にならないのね。アレットはふと、ウサギ耳が持っているガラスびんの光が朝焼けのようだったことを思い出した。あの中に入っているのは、ひょっとしたら本当に朝なのかもしれない。一生懸命ビンの中に朝焼けを集めようと飛び跳ねるウサギ耳を想像して、アレットはくすりと笑った。
その笑い声を聞きつけて、ウサギ耳は本から顔を上げた。どうかしたのかい、とでも言いたげに首をかしげた姿に、アレットは、今度は彼とおしゃべりを楽しみたいと素直に思った。
「ちょっと聞いてもいいですか」
ウサギ耳はとたん、うれしそうにぱっと笑った。
「なんでもどうぞ、お嬢さん」
ありがとう、と返しながら、さてなにをたずねようかしらとアレットは考えをめぐらせた。ウサギ耳が読んでいる本の中身? それともお城について? どちらもおもしろそうではあるのだけれど、いまひとつ気乗りがしない。悩んだあげくに、じゃあ、とアレットはこう聞いた。
「あなたはどうしてあんなところを、こんな時間に歩いてたんですか? わたしならママンやパパに怒られちゃうわ」
もちろんウサギ耳はアレットよりもずっと年が上のようだから怒られはしないだろうけれど、でも外を――しかも本を読みながら――歩くには、ちょっとどころかかなり遅い時間だ。そう考えると、ちょっとあやしいのよね、この人。アレットはじぃっとウサギ耳の赤い目をのぞきこんだ。
「それはちょっとむずかしい質問だね、お嬢さん! でも、まぁ、なんでもどうぞと言ったのは僕だからね、ちゃんと答えるよ」
ウサギ耳は、さっき「王子様がアレットと結婚したいと言ったらどうするか」という質問をした時のように、クローバーの冠を外してかりかりと頭を掻いた。どうやらこれは言葉につまった時に彼がやるクセらしい。
「そう、つまりね、僕は僕の花嫁さんをさがしてたんだ、お嬢さん」
「それで本を見てたのね!」
アレットがぱちんと手を打ち鳴らすと、そのとおり、とウサギ耳は拍手をした。
「あの辺りにいるって本に書いてあったから、汽車に乗ってね――帰りのチケットまで買って」
アレットは身を乗り出してウサギ耳の話を聞いた。こういう話は好きだった――学校で仲のいい友達と、だれとだれがキスしたらしい、といううわさ話をするよりも、もっと興味をそそられる。
「でも見つけられなかったんですよね? だって、チケットはわたしが使っちゃったから――」
「いいや、見つけたよ、ちゃんとね」
ウサギ耳はにっこり、実に人がよさそうなふうに笑って、アレットの手をぎゅっとにぎった。ウサギ耳の手はとてもあたたかくて、アレットはそのあたたかさよりも、むしろ自分の手が冷たかったことにびっくりした。一瞬心臓がどきんと跳ねたのを、アレットはその温度差のせいだと思いたかった。
「本にも書いてあった。僕の花嫁さんは、アレット、君だ」
アレット、と名前を呼んでくれた時、ウサギ耳はとても真剣な顔をしていた。やっぱりこの人、けっこうかっこいいんだわ。場違いにそんなことを思いながらも、アレットの心臓は勝手にとくとくと早い鼓動をきざんでいた。
これって――恋なのかしら、とアレットは思った。いきなり手の中に降ってきたウサギ耳からの告白と自分の感情に、アレットはまだ慣れていなくてとまどった。恋だとしたら、ウサギ耳は悪い人ではないようだし、彼の花嫁になるのもすてきなことかもしれない。
でも、とも思う。でも、アレットは妹たちを連れて家に帰るためにここに来たのであって、王子様とはもちろん、ウサギ耳と結婚するために来たのではない。妹たちだけを家に帰しても、ママンとパパは哀しむだろうし。
その時がたんと大きく汽車がゆれて、車掌がどこかで「お城ー、お城!」と乗客に伝える声がした。ウサギ耳ははっと我に返ったようにアレットの手をはなして、着いたみたいだね、と窓の外に目をやった。そのしぐさは、なんだかアレットから目をそらしているように見えた。
「行こうか、お嬢さん。妹さんが待ってるよ、きっと」
あまりにウサギ耳の態度が先ほどまでとはちがってひどくうろたえてしまったアレットの手を、今度は片手で彼はそっと取った。少し力をこめてアレットを立ち上がらせながら、ウサギ耳は苦笑いを浮かべて言った。
「さっきのは忘れてくれてかまわないよ、お嬢さん。それに――その方が、きっと君にとってもいいだろうからね」
「え、それはどういう」
意味なんですか、とアレットがたずねるよりも早く、二人は汽車を降りていた。