琥珀の中のコハク
ガジュマルの群生大樹の中はかなり不思議な空間だった。
枝や幹が好き勝手にからみついて、滅茶苦茶になっている。
気根が垂れ下がっているのも手伝って、さながら天然の迷路である。
(気根・・・・・・)
空気に混じる湿気を吸うための根っこだ。祖父が面白がって話してくれた事がある。
時々自分も手入れをしていたが、放っておくとこうなるのかと少し驚いた。数メートル先もよく見えなくなるような、天然のカーテンが尽きる様子もなく続く。
ピニオンが入る隙間くらいは十分にあるので、出られなくなるほど複雑でもないだろうが、内部の全体を把握しにくい。
外からの見た限りでは、少し大きめの家がすっぽり入る程度の広さがあったし、高さは… 見当がつかない。
しばらく道なりに進むうちに、あることに気付く。
真ん中に、大黒柱のように、支えとなるガジュマルがある。
これもいくつものガジュマルが寄り集まって一本の柱を形成している。
((・))
また、『波紋』が来る。上から感じた。
柱にそって見上げると、少し上のほうで、先っぽが広がるようになっていた。花を茎にそって下から見上げる感じに似ている。気のせいか、てっぺんが明るい気がする。今までと同じように、慎重に上に向かう。せめて代えの下着だけでも持ってこれば良かった。全裸で木登りというのも大概だが、内部に入っていくとなるとさらに心許無い。
ピニオンは、その柱の先に登り上げ、
「!! ……あ」
文字通り二の句が告げなかった。
そこにあったのは、あめ色の岩。
さっき、この柱を茎と例えたが、ならばこの岩はつぼみだろうか。
茎の大きさからすると小さく見えるが、その存在感は尋常ではない。
これは、琥珀だ。
気泡の全く入っていない、卵を立てたような形の琥珀。
しかも。
その中には、少女の姿があった。
( )
琥珀の中に虫などが入る事はありえる。琥珀は樹液が化石になった物だ。その過程で入ってしまうのだ。垂れた樹液に虫が入った後、そのまま固まるわけだ。
しかしこれはありえない。ここまで巨大な… 人一人入って化石となるなど。
ピニオンで二抱えの大きさ。
価値は、計り知れない。
琥珀の中の少女は、少女と評したとおり、ピニオンとあまりかわらない年頃に見える。
衣服は着ていないが、ガジュマルが入り込んでいて、その枝や葉が少女の肌を覆い隠し、まるで守っているようだ。
見えているのは胸元から上と足の一部… 腿のあたり。そして腹部。
肌の色は、琥珀のあめ色のせいで分かりにくいが、色素が薄いのは見てわかる。腰まである髪も同様、黒や赤ではないだろうが、金か銀か… 白でもおかしくない。
瞳は閉じられ、微動だにしない。当たり前だが。
少女に絡みつくガジュマルは柱に繋がっている様だった。
これはまさに極めつけの宝物だった。
交渉の仕方や相手さえ間違えなければ、死ぬまで遊んで暮らせるだろう。
が…
ピニオンは、その考えは全くなかった。それどころか、その形での価値を思いつきもしていない。
ピニオンの頭の中は、この少女のことだけになっていた。
(…なんて、きれいなんだろう)
閉じた瞳とはいえ、整った顔立ちや、華奢な身体。波打って輝く髪。大樹の内部だというのに、それがはっきりわかる。
今さらだがピニオンは気付いた。この琥珀自体が、発光しているのだ。
淡い光をかもしだしながら、あめ色の宝石の中で眠る少女。
琥珀の出来方になぞらえて考えれば、この少女は生きているはずがない。
しかし、ピニオンは、この少女が死んでいるとは思えなかった。むしろ生きているのは確実なのだけど、どうやって生きていられるのかが不思議という形の感想だった。
だって、生きてる。
ピニオンは猟師という生き方で糊口を凌いでいるからか、死というものはかなり身近だ。獲物は絞めてから村に持っていく。自分で殺すのだ。
血が通わなくなった生き物は、餌を必要としないかわりに、時間に応じて質が落ちていく。それは死んだ瞬間から始まり、どんどん進む。命とは、保たせている間をいうのだ。生き返るなどという事がありえない以上、保たれなくなった物は、醜く崩れ、腐り落ちて、やがて土に帰る。
老いでさえそうだとピニオンは考えていた。
保つことを諦めたり、止めたりしたときに、身体そのものの機能が、ゆっくりと停止に向かう。その細胞の連続した死や機能低下が刻まれてゆき、その生命力の枯渇の様子が死滅と重なり醜く映る。
これは思想ではない。猟師として生きてきた中での実感のような物。ピニオン自身脳内で言語化がなされているわけではない。
これになぞらえると目の前の少女は、絶対に生きている。琥珀に包まれ微動だにしないにもかかわらず、生命力に満ち溢れていた。
淡く発光する琥珀そのものと、それに応えるようにきらめく髪。人形のようなと形容しそうな整った顔立ちだが、それをそのまま使ったのなら、その批評家は、語彙の無さか美的感覚の浅さをさらけ出すことになる。その肌のなめらかさときめ細かさの中にある、目に見えるやわらかさ、質感を見抜けていないことになるのだから。
(きれいだ。本当にきれいだ。僕が今まで見てきたどんな物より)
森の中で生きていれば、美しい物はいくつもある。琥珀も他の石を見てきた。青く光る燐粉を振りまく蝶。輝かんばかりの扇のような羽を持つ鳥。夏の夜に淡く光る虫たちの群れ。雷鳴や鬼火。赤く染まる葉、凍る滝、広さはかなわないにしても、鏡のような澄んだ湖や泉。
その中の何一つ、彼女の足元にも及ばない。
(こんなにきれいな女の子が、生き物が、存在が… …!!)
ピニオンは唐突に理解した。
ここは、この大樹は、この湖は、この森は、あの熱帯の森も死の森も自分のいた狩場の森も、すべて彼女が中心なのだ。
そんなことに気付くと、今度は彼女自身に心を奪われて止まっていた思考から、当然の疑問が浮かび上がってくる。
どうしてここにいるのか、いったい誰なのか、これは彼女自身が望んだ事なのか、それともここに閉じ込められているのか?
どのみち彼女に関することばかりなのだが、今はどうにも出来ない。
彼女は琥珀の中なのだ。答えは貰えまい。
…どれくらいそのまま、彼女のことを考えていたのだろう。
僅かに差し込む外の光が、ここと同じあめ色になっていた。
日が暮れかけて、角度が変わったせいで、差し込むようになったのだろう。
((・))
『波紋』が来る。
そういえばこの波動は、法則性が無いようだ。彼女か、もしくはこの琥珀が出しているのはほぼ確実なのだけど、弱かったり強かったり、小刻みに出るかと思えば、しばらく静かだったり。
ただ、とても心地いい。彼女だと知ってからは特に、だ。
まるで、彼女自身が広がってゆくような、存在感の膨張。
誰しも、気になる異性は、存在そのものが祝福だ。
姿、香り、声。それを感じるのに近い、六つ目の感覚での邂逅。
(・)
ふと、思った。
名は、何というのだろう?
もちろんあるだろうが、それを知る手段も無い。
だが…
呼びかけてみたいと思った。
名前というのは呼ばれるほうにも勿論あるが、呼んでいる方にもある。自分がこの先改名しようと、ピニオンという孫といた祖父にとってはピニオンなままだろう。
村にいる知り合い達だって、ピニオン自身が改名したことを知っていても、相手が知らねば意味が無い。そのことを知るまでは、あの森の猟師の少年はピニオンなのだ。
ならば。
いつになるか判らないが、本当の名前を知る時まで、仮の名で呼んでもいいだろう。
応えてくれるわけでもないのだが、なぜかそのことをむなしいとは感じなかった。
((・))
…さて、どんな名で呼ぼう。勝手に呼ぶわけだから、考えるのはピニオン自身だ。
ガジュマル関連の言葉、湖関係の言葉、森関係の言葉… いくつも出ては来るが、名に相応しい響きのものから難しい。ピニオン自身、学があるわけではないので、語彙も少ない。森の妖精や豊穣の女神は、逆に良すぎて使われすぎている。彼女に十把ひとからげな名は似合わない。
琥珀関連で思い出し始めると、多少はマシなのがあった。
が、アンバー、コープル、ベルンと、どちらかというと勇ましかったり、音が濁っていたり、イメージに合わない。もっと柔らかい響きで、しっとりとした、それでいて彼女だけの… そういう名前は無いだろうか。
とはいえ思いつかないものは思いつかない。そのまま暫らく苦悶していた。
…そういえば祖父も琥珀を持っていた。遺跡の話でもそうだったがなかなかに業の深い… といっても悪事を働くような人間ではなかったが、欲まみれの人だったのは確かである。
そして、自分が背筋を伸ばせねえなら、どんな楽しいこともつまんねえもんだと、健康に気を使う老人だった。琥珀は東の方では『コハク』といい、薬として使うこともあるとか言って、酒に少し漬けておいていた。
(!)
そうだ。『コハク』はどうだろう。響きも濁りが無くて、しっとりとしている。東方の呼び名だというから、音も珍しい。
うん。とても似合う。コハク。これはいいんじゃないだろうか。
『コハク』
( ((・)) )
ひと際大きな『波紋』が来た。
こころなしか、琥珀の輝きが増しているような気がする。
…そういえば、すでに日は暮れかけているのだ。早く戻らないと、今日中に小屋に着けない。
「そろそろ行くよ。『コハク』」
答えが返るわけでもないのに、と思いつつも、呼びかけたい誘惑に勝てずに、そう言った。
・ ・
弱い『波紋』だった。間隔も小さい。
「また明日、来るね。『コハク』」
( ( ( ・ ) ) )
「!?」
今までの物と比べてもかなり強い波動が来た。
少し足をもつれさせるくらいに。
「とと…」
もう一度だけ『コハク』に振り返る。彼女は、文字通り輝いていた。
彼女をギリギリまで視界に入れつつ、ガジュマルの迷宮を降っていった。
…半日ここにいて、改めて気付く。
自分が生まれたままの姿だった事。
思わず赤面する。
どうせ見られるわけでもないが…
なんとなく。