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1941~溶けた凍土 血の泥濘~3

 その日、牡丹江の戦況は日本側の予想を遥かに上回る速度で急速に悪化していた。


「北部外周陣地線突破!敵狙撃兵師団が突撃続行!」

「東部の陣地との連絡途絶!連絡線を制圧された模様!」

「外周第二陣地突破!止められません!」


 司令部はもたらされる報告に半ば恐慌状態に陥っていた。

 だが、それはただ単に戦況の悪化によるものだけではなかった。


「敵河川砲艦第二陣、間もなく外周第二線を突破!第一陣はそのまま支援砲撃を続行!」

「敵部隊はどこまで来ている!?」


 血走った眼の参謀が、砲爆撃の衝撃で荒れ果てた地下室に設けられた戦況図を見る。その間も至近距離に着弾が相次ぎ、地下壕の壁がばらばらと剥がれ落ちる。


「すでに一キロありません!」


 ソ連軍は、予想外の手段で牡丹江を落とそうとしていた。

 すでに陸上の連絡線が絶たれたウラジオストックから河川砲艦を沿岸沿いに回航。日本側の索敵を逃れるために夜間に絞って行われた移動により牡丹江まで一気に遡上。防衛線を無視して、市街地中心部に曳航したはしけに乗せた歩兵部隊共々急襲をかけたのだ。

 予想外のこの攻撃に司令部は大混乱に陥っていた。司令部直属の部隊の多くは前線での遊撃任務に当たっており、予備隊は前線を突破された時の備え(火消)として前線のすぐ後ろに後置されている。即座に支援に当たれる状態にはない。

 すでに司令部要員にも小銃が配られ、腰には万年筆の代わりに手榴弾がぶら下げられている。

 そんな中、司令部を守るべく、最後の部隊が決死の抵抗を続けていた。


「どこの部隊だ!?」

「臨時編成、独立歩兵中隊です!」

「指揮官は!?」

「小金の奴です!」


 それを聞いた瞬間の司令部の反応はきれいに二つに分かれた。なんでそんな場所にいる!と怒りをあらわにするものと、やつならそのくらいやりそうだ、という諦念ともつかない何かを浮かべる者だ。

 だが、彼らにそのことをのんびり考える余裕はなかった。

 再び響き渡る着弾音。頭上からは建物が崩落する轟音と、決死の抵抗を図り水平射撃を敢行している重榴弾砲の砲声が木霊している。


「総員、これより司令部を放棄する。重要書類はこの場所ごと始末する」


 その言葉に、全員がうなずく。彼らの仕事はここを死守するのではなく、最後まで指揮下の部隊の指揮を執り続け、最後に責任を取ることだ。普段は身の回りの世話をしている従兵も、今は野戦無線機を背中に背負っている。


「これより、司令部転進を開始する」


 言葉とともに、一斉に壕の出口から走り出す一同。背後ではいまだに激しい銃声と砲声が鳴り響いているが、振り返ることはしなかった。

 戦況は、一気に危急の度合いを増しつつあった。






「おい見ろ。鼻毛にも白髪があったぞ」

「いいからさっさと指示出してください!」


 馬鹿なやり取りを繰り広げているのは、やっぱり小金と高橋のコンビだった。

 しかし、戦況は間違ってもそんなやり取りを許すものではない。

 小金の判断で、唐突に前線を放棄して司令部の方に後退していった臨時中隊。そのほとんどが適当な理由をつけて逃げ出しているんだと思っていたが、高橋だけは嫌な予感がしていた。その指示を出した時の小金の表情がどうにも気になったのだ。

 そう、あれは完全に、子供がとんでもないいたずらを思いついた時の物だった。

 嫌な予感は当たった。撤退していたはずの中隊は、大隊規模の敵攻勢の真正面に布陣する羽目になり、がれきを盾に猛烈な銃弾の雨を浴びせられていた。


「隊長、こうなる事がわかってましたね!?」


 がれきの隙間から銃身を突き出した小銃をぶっ放しながら叫ぶ高橋。べつに怒りのあまり叫んでいるわけではない、砲撃と銃撃の轟音のせいでそうでないと聞こえないのだ。


「まあ、否定はしない」


 そんな中、悠然とがれきに腰掛け鼻くそをほじっているのが、悲しいことに中隊の命運を預かる小金である。抜いた鼻毛を吹き飛ばしながら答える。


「俺としても確証があったわけではない。だが、連中が一発逆転を狙うには、頭を叩く一撃しかないと思っていたのは事実だ」


 俺としては空挺降下でも来ると思っていたんだがな、と呟く小金。ついでに左手に握っていた機関短銃で浮き上がりかけていた近くのマンホールを撃つ。その下から梯子を踏み外し転落する音がし、近くにいた兵が慌てて手榴弾をマンホールの中に投げ込む。直後、爆風で一瞬浮き上がるマンホール。そのまま内部は沈黙する。

 下にも気をつけろと指示をだす小金。その姿をあっけにとられて見つめる高橋。もはや人間離れしている。


「それに、下手に前線近くに張り付いていると、やけになった連中が全滅覚悟の無理攻めをしてくる可能性があった。それは勘弁だ」

「その確率は?」

「四分六分で首狩りの方だな」


 そして、つまらなそうに呟く。


「それに、どっちにしろ今日あたりが時間的にも終わりだしな」

「は?」


 その言葉に疑問符を浮かべる高橋。何を言っているのかまったく理解できない。

 そんな高橋を無視して、小金が叫ぶ。


「全員、アカどもに寸土たりともくれてやるな!ここで目いっぱい司令部の奴らに恩を売って、今度は慰安所の管理員だ!」

「「「応!」」」


 俄然やる気を出す兵士たち。完全に野盗のノリだ。

 その時、小金の前で銃を構えていた兵士―――伝令の新藤二等兵―――が、いきなりその銃口を小金に向ける。


「な…!」


 咄嗟に飛び出そうとする高橋。こんなところで反逆だと?冗談じゃない!俺は無事に本土に帰りたいんだ!そのためにはどんなに嫌でもこの人が―――!

 だが、次の瞬間小金は素早く銃口の先から逃れ、新藤の放った銃弾はその背後で小金の後頭部に照準を合わせようとしていたソ連軍の狙撃兵を一撃で仕留めていた。


「お前、なかなか見込みがあるな。俺の部隊に誘ってやるぞ」

「光栄であります!ぜひ、お願いします!」


 何事もなかったかのように話し、そしてにやりと笑う二人に、もうすべてを投げ出してしまいたくなる高橋。この部隊の連中はどんどんこの人に毒されていく、常識人はいないのか!

 だが、戦況は全般にこちらの方が有利だ。陣地にこもりながら撃つこちらに対し、障害物を利用できるとはいえ前進する必要のあるソ連軍は犠牲を積み重ねるだけでまったく前進できていない。放たれる銃弾は生き残っている住居の土壁をハチの巣にするだけだ。

 やれる、この調子なら生きて帰れる―――!

 そういう希望を全員が持ち出したとき、唐突に絶望が現れた。


「小金隊長!」


 唐突に凄まじい轟音が頭上を一瞬で通過する。衝撃波で射撃姿勢を崩す兵たち。

 その一人ががれきの向こうを指さす。

 そこには、これまで家屋で隠れていた牡丹江の水面に浮かぶ複数の舟艇の姿があった。そして、その砲の照準ははっきりとこちらを直接照準している。多少は味方を巻き込むのも覚悟の上の砲撃だ。

 顔を真っ青にした高橋が、小金の方を見る。この指揮官なら、こんな状況でもひっくり返す秘策があるはず…!


「…あと少しだったんだがな…」


 その時、高橋は小金の初めて見る表情を目撃した。

 それは、悔しさだった。あと一歩で、自らの力及ばず斃れる悔しさ。自らの力の及ばないところで生死を決められる屈辱。そういったものがないまぜになった表情だった。

 それを見て、自分でもわけのわからないまま声をかけようとした瞬間、水面が爆発した。

 あまりに唐突な事態に唖然とする両軍の兵達。そんな中、小金だけは冷静に呟いた。


「連中、やっときやがったか」


 はっとして小金の視線を追う高橋。その先は、空を向いていた。

 いつの間にか降りやんだ雪。その雲の切れ間に無数の黒点が飛んでいた。その黒点は編隊単位で急激に高度を落とし、地上のソ連軍に腹に抱えている爆弾を叩き込み、翼下のロケット弾を撃ち込み、機関砲弾をばらまいている。

 その機体の隅には、いずれも錨のマークが記されていた。

 大湊と舞鶴で補給を終えた、第一機動部隊の来援だった。

満州東部、小金さん編一度完了です。

次はまたタイムスリップ前後なので、更新が表示されないかもしれないのです。

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