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1941~溶けた凍土 血の泥濘(でいねい)~1

牡丹江は、両軍の血を吸って凍土すら溶ける。

春になれば、そこには紅い泥濘が広がるだろう。

「いいか、我々は無敵だ!なぜならこの俺が率いているからだ!銃弾恐れるな、手榴弾なら投げ返せ、白兵突撃どんとこいだ!」

「いい加減にしてください!そこらじゅうに狙撃兵が…わっ!」


 街路を完全にふさいでいるガラクタのバリケードの上で、変なテンションになって演説をこいている古金を高橋が引きずり降ろそうとしている。そしてなぜか狙撃兵の銃弾は古金を器用に避けて高橋を掠める。そんな漫才をやっている上官をスルーして、兵達は手元の小銃とスコップを確認する。肉薄戦でスコップは立派な主力兵装だ。

 そんな感じで錯乱気味の彼らの所在地は牡丹江市街地東部。

 家から出ても、こんにちはのあいさつのかわりに銃弾が雨のように飛んでくる激戦地であった。






 ソ連軍の進撃は、市街地にさしかかった途端一気に牛歩になった。

 前日の進撃ペースの報告を受けたジューコフはその表情を微かに歪めた。


「やはり市街地では砲兵は役に立たんな」


 それはEEU(東ヨーロッパ連合)との初期の戦闘ですでに明らかになっている戦訓だった。市街地に対する無差別砲撃は敵に与える被害よりも、がれきを防御陣地として利用することが出来る籠城側に有利だという事が判明している。砲撃は敵砲兵への砲迫射撃と、明らかに狙撃拠点として運用されそうな高層建築を破壊する時だけにとどめるべきなのだ。

 だが、それでもなお、ジューコフが砲撃を決断したのは中国の諸都市の構造にあった。

 近代化の遅れている中国の諸都市はいまだに上下水道が整備されておらず、欧州の都市と違い地下を利用したゲリラ戦術が利用できない特徴があった。つまり、平面の制圧で終わるのだ。

 今は手持ちの物資と、敵の攻撃を逃れた物資集積拠点の残存資材で糊口をしのいでいるが、ソ連軍東部方面軍には可能な限り早く牡丹江を攻略し日本側の追撃を阻止。その上で東部の包囲下の敵を叩きながら後退する事が望まれていた。そうすれば後方に無謀な突撃を敢行している日本軍の装甲集団を殲滅し、その時点で戦争は終わらせられるからだ。

 ジューコフは、それを為すための冒険的方法として、砲兵に半日かけての無差別砲撃を実施させていた。もしこれで敵が大きな被害を受けてくれればそこで牡丹江攻防戦は決する。

 だが、そう上手くは行かなかった。

 逃げ込んだ日本軍は中国での戦争で、都市に籠った敵のめんどくささを嫌というほど味わっていた。自分達がされたら嫌な事をすればいいのである。

 採用したのは、徹底的な死守戦術だった。

 歩兵が砲撃などで最も大きな被害を受けるのは大抵が移動中である。塹壕を掘り遮蔽物に身を隠した兵士は、ちょっとやそっとの砲爆撃では殲滅出来ない。

 そればらば、陣地に籠ったままでなければいいではないか。

 そして中国での戦争でもっとも性質が悪かったのは、完全に後退をあきらめて死兵と化した連中だった。具体的には、後ろに督戦隊が控えていたり、トーチカや塹壕の中に足を鎖で縛られて放置された連中である。

 日本軍はこの悪しき戦法をとりいれた。

 具体的には前線各隊に現地の徹底的な死守を命令(ここにはさきの命令のように、後退許可をほのめかす内容は一切ない)。そして一部が完成している地下の下水道を用いて後方への奇襲作戦を展開するという徹底的な擾乱戦法だった。

 司令部は、今ここで牡丹江の五万が全滅しても、そのさらに東で包囲されている十五万を救出するにはここを維持するほかないと判断していた。たとえるならば、今の牡丹江は水道の蛇口であり、これが閉まればここから東の全軍が干上がるという状況だった。

 そして、ソ連軍が無いと判断した地下構造物は、満州においては百パーセントではないが、それなり以上の規模で日本が整備していたのだ。

 市街地に入ったソ連軍は激烈な抵抗に遭遇しており、一歩進めば狙撃兵、二歩進めばブービートラップ、十字路では機銃陣地の十字砲火といった具合の抵抗を受け、進撃速度は時速二メートルという絶望的状況だった。


「やはり市街地の攻略は時間がかかりそうな気配です」


 参謀の一人が苦しげに言う。


「天候の影響で敵の航空支援が停止しているのが唯一の救いですが、気象班の報告では数日中の今の悪天候は終わり、快晴が広がるとのことです」


 なお、ソ連側の東部の航空戦力はすでに壊滅状態にある。日本軍航空隊との死闘もあるが、なによりも補給が滞り稼働率を維持できなくなったのが大きかった。

 原因は、日本軍の戦略爆撃部隊によるシベリア鉄道への爆撃、特に鉄橋への攻撃でヨーロッパ方面からの補給が途絶え、さらに東部への物資集散拠点であるハバロフスクから伸びる鉄道線上に日本軍の装甲集団が現れたことで運行は完全に停止していた。

 日本側航空隊の相当数は、冀東きとう方面から侵攻している中国共産党の阻止に当たったいる。それでも、制空権を握られたら激しい爆撃で昼間の装甲集団の行動は不可能になる。


「…三日、といったところだな」


 参謀の報告から、牡丹江の攻略期限を割り出すジューコフ。


「装甲集団を東に集結させておけ」


 それを何に使うか言わず、ジューコフは指示を出す。

 さて、後は督戦隊でも増強しておくか。

 その眼は、極東の戦線だけでなく全世界に広がった戦場に向けられていた。






「…今回の指示は、また厳しいものですね」


 もたらされた命令を前に、高橋は唸りを上げていた。

 命令書には牡丹江市街地の一角の住所と、そこを死守するようにという簡潔な内容が記されていた。さきの命令のように、条件付きで撤退を許容するような余地はいっさい残されていない。


「なに、市街地に入った瞬間、たんまりと補給を受けたんだ。このぐらいあるとは思ってた」


 そう言って、補給物資に含まれていたツナ缶を食べているのは部隊長の古金。汚れた第一種軍装を脱ぎ棄てて、野戦服に着替えている。さすがに私物の機関短銃は弾切れで放棄され、腰には百式短機関銃が収まっている。


「とりあえず、道にバリケード作っとけ。戦車が来たら一発だが、歩兵には有効だ」


 服装が変わっても、兵士への指導力は変わらない。兵達は下士官の指示の元放棄された家屋に入り、引っ張り出した家財道具を次々と道に積み上げて行く。

 そこには、指揮官への絶対の信頼があった。

 兵達が離れたのを見計らって、高橋が古金に尋ねる。


「…今回の戦い、生き残れると思いますか?」

「まず無理だな」


 それにあっさり答える古金。


「外殻での戦いは、こっちが戦力を維持する必要があった。だから撤退も認められた。だが、今はここ―――牡丹江―――を死守する必要がある。東の馬鹿どもが撤退するまでは維持しなけりゃ、現存戦力で東部戦線を維持できなくなる。そうなれば必然的に南の冀東に配備予定の戦力を削られて、玉突き式に各地の戦線が苦しくなる。そうなると、東でソ連に勝っても、戦争に負ける」


 突っ込んだあげく立ち往生してる装甲集団があれば、こんな心配はいらんのだがな。

 そうぼやく古金を見て、高橋は微かな戦慄を感じていた。


(この人は、自分達が全滅するのを受け入れている…)


 それが勝利に必要な犠牲として。

 その戦略全体を見据えた視線は、とても野戦士官のものとは思えない。


(いや、そういえば自分はこの人の素姓も何も知らないんだ…)


 高橋が古金にあったのは、僅か二週間前!の新京関東軍司令部でだった。前線視察の随行員として補給部にいた高橋が引っ張られたのだ。

 それで司令部の作戦課の赴けば、すでに古金は出発したという。なんだか憐れみの視線を向けて来る作戦課の連中に見送られて、慌てて駅に向かいこの牡丹江で乗りかえる所をようやく捕まえたのだ。

 その後も、視察予定を完全に無視した行動をとる古金に振り回され続け、各地で電話を借りて予定の変更を調整したり、まるで個人秘書のような仕事を押し付けられたのだ。

 ただ、この自分と同じかそれ以上の体力がある事から、相当の訓練を積んでいる事だけが分かった。もっとも、司令部の作戦課にいるような人間がなんでそんな能力を持っているのかは疑問だったが。


「だが、むざむざ死ぬ気もない」

「はっ?」


 物思いにふけっていた高橋は、古金が何を言っているのか理解できなかった。


「俺達は『後退』は禁止されているが『前進』は禁止されていない」

「…!まさか…」

「ああ」


 そして、にやりと笑う古金。


「今すぐ俺達の前で生贄になった奴らに話をして来い。半日以内に攻勢が始まるだろう、それまでに帰って来い」






「まさか蹴られるとはな」

「ええ、まったくです」


 古金達は建物の地下室で次善策を話し合っていた。


「まあ、ああいう石頭がいるから、司令部もあんな命令を出さなきゃいかんのだが」

「?どういう事ですか?」

「ああいう奴らの思考は『怯え』が基本だ。命令から外れた事をするのが怖い、軍の教本通りの行動じゃないと怖い。そうやって脳味噌が固まって行くんだ。そんな奴らに遅滞防御なんぞやらせたらあっという間に後退するか、砲爆撃でひき肉になる」


 それになるほどとうなずく高橋。ついでにこれまでの会話は全て大声で怒鳴り合うようにして行っている。

 ソ連軍の攻勢準備砲撃は熾烈を極めていた。


「こうなったら、あの手を使うしかないか…」


 砲撃の轟音でかき消されてしまうほどの小声で呟く古金。それを聞いて猛烈に嫌な予感のする高橋。

 それは的中することになった。

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