1941~チキンレース~3
近いうちに章を立て直す予定です(未来と過去がごっちゃで見にくいとの意見があったので)。
これからも応援よろしくなのです!
牡丹江の日満連合軍は追い詰められつつあった。
日本軍の防衛計画の基本は、市街地外殻での徹底した遅滞防御だった。前線部隊は可能な限りの抵抗を継続。その後、しかるべきタイミングで後退。後方での再編成を行うと同時に、進軍する敵は第二線陣地に展開した部隊が立ちふさがり進撃を阻止。そしてまた耐えきれなくなった所で後退。
はっきり言って後退がそのまま壊走に繋がる恐れもある危険な戦法だが、日本軍はこれをやってのける自信があった。これまで中国の数多の戦場で実戦に鍛え上げられた歩兵部隊ならそれを遂行できると確信していたのだ。
しかも、敵の後方から味方の集成装甲軍が進軍中であり、敵の補給を断てば容易に防衛できると考えていたのだ。
だが、戦況は予想を上回って逼迫していた。
ソ連軍は強力な装甲集団で味方の防衛線を予備戦力を投入する間もなく突破。一気に後方の補給部隊を粉砕して前線への補給を寸断した。
さらに、これに呼応する歩兵部隊が前線を数の力で蹂躙。補給を断たれた前線部隊は次々と後退する間もなく玉砕した。
しかも、司令部の予想では敵重砲は早期に砲弾を撃ち尽くし戦力外になると考えていたのが、いつまでたっても敵重砲はこちらを圧倒する火力で戦線を圧迫し続けている。悪天候の中偵察に成功した偵察機は、敵重砲部隊が予備砲身まで含んだ十二分な量の補給物資を備蓄している事を確認している。
この状況から、軍はすでに市街地外殻での防衛線を断念しつつあり、現在は殿部隊を残しながら外殻線の部隊を市街地に収容しつつある。
軍は、凄惨を極めるであろう市街戦に、最後の希望を託しつつあった。
十二月二十二日 牡丹江東方七キロ 日本軍段列地帯
「まったく、無能を上に仰ぐと碌な事がないな」
そこを一群の黒い影が動いていた。
顔に墨を塗りたくり、月明かりの一筋すら反射しないように注意した影達。その半数は手に持った小銃を油断なく周囲に指向し、残る半数は自分の体重を超える重量の荷物を背負い黙々と歩き続けている。
そんな中、一人だけ墨こそ顔に塗っているが、全身をまだ新しい第一種軍装につつんだ士官が傍らの影に話しかけた。その声は皮肉に満ち溢れていた。
その姿には一人だけ偽装を放棄した第一種軍装である以外にも妙な点が多い。本来将校の必須装備である拳銃を携帯しておらず、代わりに無骨な鹵獲品のサブマシンガンを無造作に肩掛けしている。腰の拳銃ホルスターのあるべきところには予備の弾倉がずらりと並べられている。
「お願いですから、お堅い憲兵に見つかって不敬罪で銃殺にされるのだけは勘弁して下さいね」
その傍らで話しかけられた男が真面目そうな口調で注意する。こちらは他の兵士達と同じように光を一切反射しないように注意深く全身に偽装を施している。手にした小銃の銃剣すら草が巻かれている。
「あなたが銃殺されるときは、自分も巻き添えを食う気がするので」
しかし、真面目な口調の割に、言っている事はかなり辛辣だ。
「当り前だ。主君に殉ずるのは臣下の勤めだぞ。まあ、百年以上前の務めだが」
それに、アカの捕虜になるよりはましだと保障してやる。
夜間の隠密行動中に無駄口を叩く。本来なら周囲を黙々と歩く歩兵か疎ましく思われるような行為だが、周囲の兵の二人を見る目には畏敬の念がありありと籠っている。彼ら歩兵の大半は国境の要塞群から必死の思いで脱出してきた者たちであり、その彼らがここまで無事に行動できたのがこの二人のおかげだと知っていたからだ。しかも、この上官二人は兵達の知る限り、この三日間僅かな仮眠以外ほとんど休まず部隊の指揮と戦闘行動をとり続けている。もはや人間ではなく、伝奇小説にでてくるからくり人形なのではないかと疑うほどだった。
皮肉な口調が板に着いている方が古金正敏少佐。その女房役が高橋忍大尉である。
この二人は、開戦時前線防備状況を視察するべく関東軍司令部から送られた要員だったが、ソ連の電撃的侵攻を受ける状況で新京の司令部に帰還する事は不可能であり、結果として後退の遅れて取り残された国境線の部隊を勝手に掌握(この時点でこの部隊の本来の指揮官は戦死していた)し、臨時の中隊として東部方面軍の指揮の元戦っていた。
司令部としても、突然の侵攻で前線では下級士官が次々と戦死する状況で指揮系統うんぬんを言っている余裕はなく、なし崩しでこの部隊の指揮を任せていた。
そんな中、彼らは防備を命じられた前線を放棄し、一路牡丹江を目指して、敵の砲撃の下火になる夜間を利用して後退を実施していた。
「しかし、このまま後退して大丈夫ですか?命令不服従、もしくは敵前逃亡で射殺されませんか?」
この行動に、高橋が若干の不安を滲ませて古金に尋ねる。
彼らの中隊は第二線陣地の防衛を命じられていた。今日一日の戦闘は激烈だったが、まだ後一日程度は持久できると高橋は感じていた。司令部の命令も前線の死守を命じる物だった。
しかし古金は、敵の攻撃が一段落し陣地の補修に当たろうとする部隊に対し即時撤退準備を命じた。そして今、持てる限りの装備を持って、彼らは夜の闇の中、後退を実施している。
「確かに後一日程度の持久は出来ただろう」
高橋の意見にうなずく古金。二人とも会話をしながら暗闇の中足取りに迷いはない。
「だが、そうすれば後退するだけの余力は残っていなかっただろう。司令部が移動の足をよこしてくれれば話は別だが、そんな物はとっくの昔に敵の砲撃で全滅してる」
つまり古金は、撤退するなら今しかないと判断したのだ。
「ですが、もしこの行動で味方の戦略に影響が出たら…」
古金は直属の兵力こそ一個中隊だが、司令部が殿として第二線陣地に残した部隊の士官では最先任(年を食っているということ)だったのでそのまま大隊規模の部隊の指揮を任されていた。
その全てが、古金らの中隊と同時に、夜間の後退を実施している。
部隊の中には撤退に激しく反対する者もいたが、臨時とはいえ直属の上官になっている古金の命令に逆らう権限を持った人間はいなかった。
「いいか、そもそも俺達がここで一日敵を足止めしても、もはやそれは戦略的な意味を全く持たないのだ」
古金の声が僅かに大きくなる。部隊の全員の聞かせようとしているのだ。
「今の連中にとって、時間は敵だ。今は潤沢な火砲支援を受けられるが、補給線を寸断されては最終的にはじり貧だ。だから連中は可能な限り急いで牡丹江を陥とす必要がある」
「それは分かります。ですが、それなら防衛線を死守する必要があるのでは?」
古金の言葉に対し、疑問を示す高橋。それはすべての兵士に共通の思いだった。生きて国に帰れるのは嬉しいが、後ろ指を指されながら帰るのはごめんだった。
「残念だが、今の我々の戦力では、有意義な時間稼ぎは出来ない。敵は装甲部隊を先頭に、自動車化師団を突っ込ませてこちらの防衛線を突破してしまうだろう。そして突破点の部隊は全滅。それ以外の部隊は補給線を断たれ戦力を喪失する。そうなれば、連中は僅かな抑えの戦力を残して全力で牡丹江を攻略できる」
そして我々は完全な遊兵と化し、後は捕虜としてシベリアで木を数える仕事に就くわけだ。
そこで僅か皮肉が交じった。
「だったら市街戦で時間を稼いだ方がましだ。連中がこれほど急いで攻撃をしているのも、外殻の部隊が市街地に撤退する間を与えないためだ」
「しかし、命令では…」
「命令には『可能な限りの防衛』とある。これ以上は不可能だと判断したから後退しているのだ、文句を言われる筋合いはない」
それに、司令部の中にはキレ者がいるようだしな。
最後の言葉だけは、傍らの高橋だけに聞こえるように呟く。今の東部方面軍の司令官は典型的な後方エリート、しかも英雄願望にとりつかれているとしか思えない。いまだに軍主力と一緒に牡丹江の東で指揮を執っている。確かに兵士をないがしろにする指揮官はいただけないが、兵士と一緒に苦労するのは指揮官の仕事ではないのだ。そんな奴がこの文言を命令に入れるとは思えない。おそらく牡丹江に残った参謀が勝手に付け足したのだろう。
この話を聞いて、今の撤退行動に納得した部隊。彼らはそのまま二十三日未明までに市街地に進入、防衛司令部の傘下に組み込まれることになった。
そこで彼らは最悪の知らせを聞く事になる。
牡丹江東方鉄道連絡線途絶。
撤退中の東部方面軍残余十五万余名、敵包囲下に孤立。
これにより、牡丹江防衛戦力総数はわずか五万まで激減。
敵攻勢戦力は東部方面軍包囲戦力を除く総数二十万余。戦力差は四倍。火力に至ってはそれ以上。
悪夢の市街戦が幕を開けた。