1941~チキンレース~2
「補給はまだ出来ないのか?」
本土から急派され、臨時集成第二装甲集団の指揮官を任されている牟田口廉也中将は、重い口調で幕僚に問いかけた。
答える者はいなかった。
狭苦しい退避所を占拠して行っている作戦会議の場は、重苦しい空気に包まれていた。
全員が、自分達が完全にミスしたと感じていた。
作戦開始当初は、自らの指揮下にある日本軍始まって以来の一大機甲戦力に目を奪われ、ハバロフスクの攻略も夢ではないと感じたのだ。
だが、延々続く凍土を駆け続けているうちに、自分達がとんでもない思い違いをしている事に気がついた。
氷点下二十度を下回る極寒の気象は、金属の疲労を速め戦車には履帯が千切れるものが続出。
満州東部から手当たり次第に徴発したタンクローリーは、道なき道を進むうちに次々にタイヤがパンク。整備部隊は大わらわ。
そこにソ連軍のスキー襲撃の嵐。道を外れて追撃すれば、腰まで埋まる雪で身動きが取れず、歩兵はその場で射殺され、車両は相手に拿捕される始末。タンクローリーは貴重な燃料ごと爆破された。
そして、引き返そうにもその先には、こちらと同じく補給を断たれながらも、いまだ十分な戦力を有して牡丹江の攻略に邁進しているソ連軍東部方面軍の影。
たとえここで東部方面軍を殲滅しても、それで装甲集団が全滅しては採算が合わない。どう考えても赤字だった。
それも、戦争という経済が破綻するレベルの。
このにっちもさっち行かない状況に、誰もが頭を抱えていた。
「…現状では、前進あるのみと考えます」
重苦しい空気を断ち切って、作戦参謀が発言する。
「連中のスキー襲撃は確かに脅威ですが、完全機械化部隊であるこちらの進撃速度についてこられるとは思えません。このまま突き進んで連中の補給線を断てば、取り残された連中は自然と立ち枯れします」
そう、ここは真冬のシベリアなのだ。一晩野営すれば、一発で冷凍人間が完成する土地なのだ。
「こちらの補給はどうする?」
牟田口の質問に、兵站幕僚が答える。
「現在の手持ちで、理論上はハバロフスクまで到達出来ます」
だが、と続ける。
「激しい戦闘機動や、補給部隊への大規模襲撃が行われた場合、引き返すことはもちろん、ハバロフスクへの到達すら厳しいと思われます」
うめき声すら上がらない会議の席。
状況は、厳しいどころではなかった。
その時、
「気象班より報告!ブリザードです!」
「なんだと!?」
「このタイミングで…!」
参謀の一人が、閉じられていた退避所の扉を細く開ける。
そこから見える外の景色は、一メートル先も見えないような猛吹雪だった。
「…進撃停止だ」
牟田口の口から、苦しげな命令が出た。
この状況下での進軍は自殺行為に過ぎない。
そして彼らは、貴重な物資を吹雪からの退避で浪費する事になった。
晴れ間は、当分出そうになかった。
牡丹江東方 ソ連極東軍東部方面軍
「連中は馬鹿か?」
自らの戦線の下腹部を突破した日本軍の装甲集団が、そのまま一目散にハバロフスクを目指しているとの報告を受けた司令部の反応は、相手の正気を疑うものだった。
ここが広大な穀倉地帯や、延々広がる平原地帯ならその戦闘機動もありだろう。兵站を含む完全機械化部隊なら一日に三百キロ以上の進軍が可能だ。手持ちの補給物資が三日分だと想定しても、まともな迎撃戦力が存在しない状況を鑑みれば十分ハバロフスクを直撃できる。最低でもその周囲で補給物資の輸送行動は不可能になるだろう。
だが、ここは真冬のシベリアなのだ。
繰り返す、シベリアなのだ。
敵部隊以上に、過酷な自然現象が目の前に立ちふさがり、僅かにでも部隊からはぐれたら翌日には凍死体となる。そんな土地だ。
そこを十分な補給線もつながずに、側面防御の部隊もなく突進する。
無謀を通り越して、逆に何か策があるのではと疑いたくなるほどだった。
しかし、いくら考えても相手の行動は理解できない。あえてあげるなら東部方面軍が装甲集団の捕捉撃滅のために牡丹江を放棄して引き返し、そこを牡丹江に籠城中の部隊と挟撃する事を狙ったのかと思ったが、もはやこちらから捕捉する事は不可能な距離を稼がれてしまっており、相手がその選択肢を潰してしまっている。
事ここに至って、後部方面軍は腹をくくった。
牡丹江の攻略を強行したのだ。
「第九十八自動車化狙撃師団、日本軍第二線陣地を突破!現在戦果拡大中!」
「後詰めの第二十八狙撃兵師団、戦線突破点を確保。なお後退中の日本軍に対し、直轄砲兵が所定の縦深一斉射撃を敢行中。敵被害甚大の模様!」
「第四十八戦車旅団、通信途絶!」
「各師団砲兵、砲弾残量十基数を切りました!予備砲弾の移送開始します!」
東部方面軍司令部は、吉報と凶報が入り混じっていた。
日本軍は明らかに電撃戦に対処できていない。
その事を、連絡線を断たれて孤立しつつあるウラジオストクから脱出し、今東部方面軍司令部にいるジューコフは感じていた。
日本軍の第一線は引き際を誤りそのまま孤立。状況打破のために送り込まれた予備隊は、こちらの梯団攻撃の第二第三陣が叩きつけられ壊滅した。
そして今、今度は早めの後退を決断したようだが、真昼間に歩兵を塹壕線から出して後退させようとする神経が理解できない。砲兵のいい的ではないか。
だが、それが決定的な戦果に結びついていない事に、ジューコフは気がついていた。
こちらは牡丹江という都市を制圧する必要がある。そして都市攻略は、機械化部隊が最もその本領を発揮できない戦いだ。
それに対し、日本側は都市を盾に時間稼ぎする事が可能だ。市街戦は歩兵の数が全てを決める、時間と損害ばかりが積み重なる最も非効率的な戦争の形だ。日満両軍十万は下らないであろう戦力が立てこもる牡丹江は、その最悪の舞台になるであろうことが容易に予測された。
今はまだ、市街地外殻の防御陣地を相手にした戦いだからましだが、今後は徐々に市街地に進入していく事になる。そうすれば、進撃速度は極端に低下する事が予想された。
(時間は我らの敵なのだ。それも致命的な…)
今は前もってデポに備蓄しておいた資材で間を持たせているが、後方からの補給線が途絶している事は変わりない。
そして、三十万を超える兵数こそが、東部方面軍の最大の負担となって圧し掛かってきていた。
(持って二週間。それまでにケリをつける…!)
彼は信じていた。たとえここで十万の兵力を失おうとも、それで牡丹江を落とせるなら十分吊りあいが取れると。
そしてそれは、間違いなく正しい判断だった。
「総員降車!」
ヴォロシロフ大尉の号令に従い、トラックに乗っていた兵員が一斉に降車する。
彼らは自動車化狙撃師団に所属する機械化歩兵部隊だ。部隊の輸送などに使うためのトラックを、小隊で五両所有する事になっている。もっとも、これまでの戦いですでに二両が撃破され、補給は一両しか届かず、四両になっている。
「敵はこの前面に、三重の塹壕線を敷き防衛線を展開している。我々は総攻撃の第二梯団として攻撃に参加する!」
いまも頭上を味方の百二十二ミリ砲の砲弾の飛翔音が響き渡り、遥か前方の敵陣地に破壊と死を振りまいている。
ヴォロシロフは作戦の説明を続ける。
梯団の前衛は戦車旅団が務める。我々はその後方から突撃。一気に敵防御線を貫く事になる。
そこで、部下から質問が飛び出す。
「あの…、我々の後方にいる敵装甲軍はどうなったのでしょうか?」
それに対し、ヴォロシロフは簡潔に答える。
「知らん!だが、私が知らないという事は、敵が我々の作戦に関わりのない所で行動しているという事だ。よて、なんら心配する必要はない!」
つまり何も知らないと言っているのだが、これまでの戦闘でこの指揮官への信頼を醸造している彼らは、それで納得した。彼がそう言うのならそうなのだろうと。
「天候はいまだ回復の兆しを見せていない。これは航空支援が弱体化しつつある我々にとって最大の幸運だ!この間に、一気に市街戦に持ち込んで、敵の航空攻撃を阻止するのだ!」
「「「応!」」」
「総員前進開始!」
そして、ヴォロシロフ大尉の指揮の元、小隊は前進を開始する。
もちろんそれは徒歩だ。車両は戦場までの移動に使うものであり、戦車や装甲車出ない限り、最前線で突撃する事はあり得ない。
もっとも、彼らはそれを小隊の軽迫撃砲部隊として運用している。軽快さが取り柄の迫撃砲にとって、最高のアイテムだった。
「第一梯団、敵陣地への攻撃開始!」
通信兵が、報告を上げる。
歩きながら双眼鏡を取り出したヴォロシロフは、それで前線の様子を覗き見る。
見ると、すでに歩兵の一隊が戦車と共に突撃に移っており、間もなく敵陣に到達しようとしていた。あっ、全滅した。
後方に双眼鏡を向けると、敵陣後方から激しい砲煙が湧きだしていた。前線への攻撃が榴弾によることから考えて、五インチ級の榴弾砲だろう。
「連中、もう少し待てばよかった物を…」
その日本軍の浅はかさに、思わず憐れみの感情を覚えるヴォロシロフ。
次の瞬間、砲煙を目標に砲撃を開始したソ連軍砲兵が、日本軍砲兵を容赦なく叩きつぶした。日本軍の榴弾砲は射程が短い。こちらの百二十二ミリには太刀打ちできないのだ。せめて別に展開しているであろうカノン砲部隊と共同して、砲迫射撃と並行してやれば、まだましだったかもしれない。
もっとも、日本の砲兵戦力は、ソ連とは比べ物にならないほどお粗末なのだが。
改めて前線に目を向けると、榴弾砲の砲撃を浴びながらも、部隊は敵陣地に到達して、そこで激しい戦闘を繰り広げている。だが、このままでは敵の予備隊の投入で撃退されるだろう。衝力が失われかけている。
「総員、急ぐぞ!」
だからこその梯団攻撃。たとえ一陣が阻止されても、後続の部隊が敵の予備隊を粉砕し戦線を押し潰す。圧倒的数の暴力。
その時、敵の塹壕に接近した彼らに、日本側の機銃が浴びせられる。
「前進継続!」
だが、即座に彼らは凍りついた大地の上に寝そべり、あたりを掠めて行く跳弾にも動じずに匍匐前進で突き進む。
そこに浴びせかけられる側防射撃。塹壕から突出した場所に設け、突撃する部隊の側面から射撃を浴びせる最も有効な機関銃の運用法。
その文字通り銃弾の雨を浴びて、次々と兵士は倒れて行く。
だが、そこに突如として違う飛翔音が響き渡る。
次の瞬間、銃弾を叩きこんできていた日本軍の機銃座は、頭上から飛び込んできた軽迫撃砲弾の直撃を受け、跡形もなく消滅した。
「よくやった!」
兵と共に匍匐前進するヴォロシロフの歓声。後方のトラックに積んでおいた軽迫撃砲部隊が、砲撃を開始したのだ。
機銃座の破壊に続いて、次々と発煙弾が叩き込まれる。
急速に悪化する視界。
「総員突撃!」
そこに、ヴォロシロフの指示が響き渡る。
歩兵の群れは一斉に立ち上がり、これまでの匍匐前進で詰めた距離を、発煙弾の煙幕の支援の元一気に駆け抜ける。
日本側も、後方の中隊で運用されている迫撃砲を撃ちまくり、数少ない対戦車火器である三十七ミリ級の速射砲を、後方で頻繁に移動を繰り返しながら迫撃砲射撃を続ける車両に直接射撃で叩き込む。対戦車火器としては威力不足のこれも、装甲が皆無のトラック程度は一撃で粉砕する。機銃座は煙幕を通してすら銃身が赤く加熱している事が見てとれるほどの連続射撃を継続している。
その射撃は、確かに多数のソ連兵を射殺する事に成功した。だが、圧倒的数をもって行われる突撃を阻止するには至らなかった。
即座に前線の塹壕は激しい白兵戦の舞台と化し、ライフルよりもスコップによる殴打が戦場の主役になり変わった。
その中で、ヴォロシロフも自らの直轄分隊を率いて塹壕を駆けまわる。
至る所で繰り広げられる白兵戦を尻目に、ヴォロシロフは塹壕の構造を把握する事に専念する。どこかに必ずこの周辺の部隊の前線司令部があるはずだ。
ヴォロシロフは、自分達が置かれた戦略的に綱渡りな戦況を理解していた。ここで一兵でも多くの兵士を逃がして牡丹江に篭城されれば、それだけこちらの牡丹江制圧は遅れ、限りある物資は容赦なく消費されつくしてしまうだろう。
なれば、ここで敵の組織的後退を許す事なく、市街地に撤退される前に可能な限りの損害を与える必要がある。
「!」
その時、塹壕の中を自分たちと同じく戦う事なく走り回る一人の日本兵を見つける。
ヴォロシロフの手に握られた九ミリ拳銃が火を吹き、その兵士―――おそらくは伝令兵―――を打ち倒す。
まだ息のあるその兵士に駆け寄り、即座に尋問するヴォロシロフ。
「貴様、司令部の位置を吐け!」
だが、ロシア語を理解できない伝令兵は答える事が出来ず、それ以前に答える気もなかった。
「!」
そして、一瞬の隙をついて腰につるしていた銃剣に手を伸ばした所を、ヴォロシロフの部下に射殺された。
「ありがとう」
「いえいえ、隊長に死なれちゃこまりますからね」
そう言って笑う部下。
その時、死体をまさぐっていた部下がある物を見つける。
「でかしたぞ!」
それは、簡略化された塹壕の見取り図だった。日本語は読めないが、軍隊で使われる略号は大抵同じだ。大まかな内容は読み取れた。
そのままヴォロシロフ達は、遭遇する日本兵との交戦を続けながら、塹壕の中を駆け回る。
そして、
「ここか…」
そこにあったのは、これまでの塹壕とは明らかに違う、上部にも偽装の施された屋根を載せた一角だった。騒々しい発電機の音も聞こえてくる。
すでに前線での死闘が始まり、それへの対処に忙殺され通路の一つから迫る彼らに気がつく者はいない。
「いいか、手榴弾の起爆と同時に突入。明らかに上級者と思われるものを射殺して逃走。最悪でも弾倉を撃ち尽くしたら撤退だ」
その指示に、無言でうなずき腰に差した棒状の手榴弾を引き抜く。信管は先端部分を回すことで起動する。すでに全員が安全装置を解除している。
「3…2…1…今!」
同時に信管を起動し、手榴弾を投げ込む。
そして
「!!!!!!!!!!」
閃光、爆音、そして傷ついた人間の絶叫が周囲に響き渡る。
「突入!」
ヴォロシロフが号令するが、その時にはすでに部下は突入を開始している。
いまだに混乱から回復していない日本兵に自動拳銃から放たれる九ミリ弾が襲いかかり、反撃も許さずに次々と射殺する。
ヴォロシロフ自身も、拳銃を構え突入する。日本兵はいまだに態勢を立て直していない。
(いける!)
ヴォロシロフが確信したその瞬間、突如として反撃の銃火が放たれた。
「なっ!」
それは、この壕の奥から放たれている機関短銃―――サブマシンガン―――だった。
頑丈そうな木の机を倒して作った臨時の防壁を盾に、数丁のそれが容赦なく銃弾をばら撒いている。
頭部に銃弾を食らった一人が、脳漿を撒き散らしながら倒れる。
同時に、日本兵も急速に態勢を立て直し始めた。予想よりかなり早い。
(クソッ!ここまで来て…!)
あきらめきれないヴォロシロフ。
だが、状況はすでに絶望的になりつつあった。中国戦線で、数十万の兵力が機動する大会戦から、数人単位のゲリラ戦まで、ありとあらゆる戦場を経験してきた日本兵は精強だった。
結局、ヴォロシロフは撤退を選んだ。
即座に追いかけて来る追撃の敵兵を振り切りながら、彼らは味方が制圧したエリアまで死に物狂いで突破する事になった。
彼らが味方の戦線突破成功を知ったのは、その日の深夜になってからだった。
勝利を祝う部下の前、自らも喜びをあらわにするヴォロシロフだったが、内心は晴れなかった。
日本軍は、統制のとれたまま残存戦力の後退に成功していた。その殿には、彼らがあと一歩のところで仕留めそこなった前線司令部と、その直轄中隊の姿があった。