1941~北の凍土~2
十二月十日 満州西部 ハルピン・白城市防衛線から北西に百五十キロ 第四十八戦車中隊
「全車、ギリギリまで敵を引きつけろ!」
橘は、戦車の車長席で声をからして無線に怒鳴っていた。
周囲には、工兵が掘った穴に車体を隠し砲塔だけ外に出した百式と九七式戦車が二十両ほど展開し、その前面には撃破された敵戦車が百両以上もその骸を雪原に晒している。
前面からは味方の損害に構う事なく、敵戦車が襲いかかってくる。
臨時集成装甲団の撤退は、遅々として進んでいなかった。
現在、集団の先頭は第四戦車師団が務め、これを第六十七機械化歩兵旅団が支援する形をとっている。
だが、敵の包囲は想像以上に分厚く、雪の合間を縫って行われる熾烈な航空攻撃も部隊の足を引っ張っていた。
そして、橘率いる第四十八戦車中隊は、周辺で壊滅した部隊を統合して一個中隊欠員の大隊規模まで膨れ上がり、殿を押し付けられていた。
延々単調な突撃を繰り返すソ連軍機甲部隊に、橘率いる部隊はひたすらに待ち伏せに専念し、徹底した偽装もあり、その姿は雪の中の小さなでこぼこの一つにしか見えない。
その一つ一つから五十七ミリか七十五ミリの被帽付徹甲弾が放たれ、敵戦車の車体や履帯を打ち砕く。
「隊長、もうこれ以上は無理です!」
砲手の都築が悲鳴を上げる。撃破された敵戦車が邪魔で射線を確保できないという異常事態だ。
工兵と整備班が掘った陣地に立てこもり、迅速な陣地転換で敵の砲撃や航空攻撃を回避しつつ必死の防衛戦を継続する橘達のキルレシオではすでに五十対一を超えているが、敵の攻勢は衰える兆しを見せない。
「クソッ!全車後退!二キロ後ろの二線陣地に後退する!砲兵に投射型地雷の散布を要請!」
『こちら第五戦車師団司令部。投射型地雷は弾切れだ。代わりにお前達の前面に噴進弾の制圧射撃を仕掛ける。巻き込まれないように気をつけろ』
「ふざけんな!どこからどこまでが前面なんだよ!」
撤退中で、常に戦線が動き続ける状況でどこが前面のなのかすら判然としなかった。
少なくとも、今ソ連軍がいる場所はきのう俺達が夕食を食った場所だ!
『…今の暴言は聞かなかった事にしてやる。いいからさっさと後退しろ!』
「…了解!」
その時すでに、部隊は陣地から抜け出して一斉に後退を開始している。
同時に、その前面に後方の砲兵陣地から放たれた多連装ロケット弾が爆竹のような破裂音を響かせながら、雨あられと着弾している。どうやら司令部は荷物になるロケット弾をここで一気に撃ちつくしてしまうつもりのようだ。
報復として放たれるソ連軍の百二十二ミリ砲が敵味方の区別なく戦場全域に降り注ぐ悪夢の状況で、彼らには死ぬ自由すら与えられていなかった。
同日夜
敵の夜間空襲などを警戒して、厳重な灯火管制が敷かれている部隊は、雪の中に半ば埋もれるようにして休息を取っていた。
橘達も硝煙の臭いに満ちた車両から降り、簡単なテントを張って十六時間ぶりの食事を取っている。
「ねえ隊長、これって勲章物じゃないですか?」
操縦手の佐々木が、エンジンの余熱で温めた缶飯を食いながら今日の戦果一覧を見て橘に問いかける。
今日一日で、彼らの操る百式はT―34を二十八両、BT―7を十六両の計四十二両を撃破していた。はっきり言って頭のおかしい戦果である。部隊全体ではおそらく三百両以上を撃破している。
代償も払った。
この一日で、部隊の稼働戦力は十六両まで激減した。撃破された多くの車両は九七式で、装甲の差が顕著に表れていた。故障して回収できなかった車両も多い。今も外では暗い雪の中、整備兵達が徹夜で稼働車両の整備を続けている。
「だったらお前は勲章と砲弾、どっちが欲しいか?」
「そりゃもちろん砲弾ですよ」
部隊の補給状況は最悪の状況だった。砲弾はさっきの戦闘でほとんど使い果たした。包囲された彼らにはまともな補給も難しく、整備兵達は残り僅かな交換部品のストックで、必死に整備を続けていた。
その時、司令部から無線が来た。
『第四十八戦車中隊、聞こえるか』
「こちら第四十八戦車中隊です。どうそ」
『間もなく補給物資をそちらに投下する。目印になる物を準備しておけ。以上』
「おいちょっと待て!詳細を…」
『ザ―――……』
「切りやがった…」
その時、外から突然ローター音が響いてきた。
慌てて、目印になるように焚火の上の覆いを剥ぎ取る。
次の瞬間、部隊の真上に垂直離着陸機の群れが現れた。
工藤重工製『林檎』乗員を減らせば三百キロまでの重量物を輸送できる、緊急輸送の頼もしい足。海軍でも採用されている。
ここまでローター音が聞こえなかった事から考えると、連中は敵に発見されないように超低空を匍匐飛行(NOE)してきたのだと思われた。
彼らは、燃え盛る焚火を見つけると、そこめがけて胴体下にぶら下げていた専用輸送コンテナを一斉に投下した。
「うおおっ!」
慌ててそこから逃れる橘達。
コンテナはテントを押し潰し(全員から悲鳴が上がった)温かいみそ汁の入った鍋をなぎ倒し(絶句)焚火を揉みつぶしながら(もはや悲鳴も上がらない)全部で四個投下された。
ダウンウォッシュで雪を派手に巻き上げながら、編隊は離脱していった。
「…これで中身がくだらないもんだったら、次の砲撃目標は司令部に決まりだな…」
コンテナのすぐわき、慌てて飛びのいて雪まみれになった橘が、怨嗟の声を漏らした。
部隊の全員が、賛成のうなずきを返した。
テントを失った橘達は、堅い戦車の座席で燃料節約のためエンジン一つつける事が出来ず凍えながら眠る事になった。
同時刻 集成装甲団司令部
「彼らへの補給は成功したか…」
狭い装甲車の座席で、司令を務める栗林忠道中将は久しぶりの良い報告に息をついた。
司令部は、多数の無線を積んだ大型装甲車数両で構成されている。本来なら、どこかの町に腰を据えて落ち着いて指揮を取りたいが、孤立した集成装甲団の戦線がアメーバのように移動している現状ではそれは不可能だった。
戦局は、綱渡りが続いていた。
脱出の先陣を切る第四戦車師団は、敵の圧倒的数を前に苦戦を強いられている。支援に当たる機械化歩兵旅団は敵の砲爆撃で保有車両のほとんどを喪失し、ただの歩兵旅団になり下がっている。
攻撃するソ連軍は、機甲部隊を前面に押し出し、その後方からこちらの機動砲の射程外に配置された百二十二ミリ砲や多連装ロケット弾で防衛線に猛攻を加えている。明らかな同士撃ちも散見された。連中の作戦能力は欧州での激戦を経ても、いまだに低いままだ。
だが、その数は脅威だった。前線部隊は自軍の十倍以上の敵戦車を相手に奮闘を続けているが、相手が二十倍の戦車を投入してくれば、その優位も消滅する。
「彼らには苦労をかける」
栗林が脳裏に思い浮かべているのは、この集団の中でも最後尾に位置している第四十八戦車中隊だ。凄まじい数で攻めよせるソ連軍相手に、損害を強いられながらも致命的な戦線の穴を作らずにいられるのは、彼らが後方の敵機甲戦力を一手に引き受けてくれているからだ。実質的な集成装甲軍の命綱とも言える。
「残り百二十キロか…」
この二日間で、部隊は六十キロ近く後退する事に成功していた。味方防衛線まで後百二十キロ強。今後三日が、今後の戦争すら左右する死闘になるだろう。
「勝って見せるさ…」
若き中将の瞳に、諦観は一切なかった。
満州防衛戦、その序盤戦は佳境を迎えつつあった。
ウラジオストック ソ連軍司令部
大地は雪に閉ざされていた。
厳冬期を迎えた沿海州は、雪原に動くもの一つなく、海は流氷に閉ざされている。
ここウラジオストックも、夏の間に備蓄した暖房用の薪と食料を食いつぶしながら冬ごもりに入っている。
そんな静かな街で、司令部だけは忙しく動いていた。
「西部の敵殿部隊はまだ殲滅出来んのか?」
会議の席で、東部戦線全軍の指揮を任されているジューコフ元帥は、静かに問いかけた。
「はっ!敵の抵抗は凄まじい物があり、すでに正面攻撃に投じられた三個機甲旅団が全滅したとの報告です。退路を断っている第百八自動車化狙撃師団も激しい突破攻撃を受けかなりの損害を被っています」
「ですが、戦果も大きなものを上げております」
隣の参謀が引き継ぐ。
「後方に回り込んだ部隊は、初期の一撃で後退中の日本軍三個師団相当を壊滅に追い込んでいます。航空偵察では殿部隊の機甲戦力も三分の一程度まで減少しております。後数日で殲滅出来るものと考えます」
「フム…」
頭の中で、後の発言を行った参謀の首を飛ばす事を確定するジューコフ。その数日で敵が味方の戦線に合流する事は目に見えているのに、後数日で殲滅出来るなど馬鹿以外の何物でもない。それは手遅れと言うのだ。
「他の戦線はどうかね?」
「北東部はあまり芳しくありません…」
北部方面軍からやってきた参謀が、居心地悪そうに答える。
「日本軍もサルトの重要性は理解しているようで、極めて激しい抵抗を継続しています。北部の部隊は国境での抵抗の後、大興安令山脈に一部を残して後退したようですが、その戦力も含めて日本軍第三軍は全てをサルトに集中させています。こちらもハルビンとチチハルを射程に収めていますが、そこから先の進軍は停滞しています。航空攻撃も激しい要撃と嵐にさらされ効果を上げていません。司令部としては両翼からの迂回行動で、日本軍の後方を断つほかないと考えております」
「やむを得ないか…。北部方面軍は、当初の計画通り敵戦力の拘束を続けろ。無論、隙があれば単独での攻略も構わない」
「はっ!」
「東部は?」
「正面での攻撃が停滞していますが、側面を突破した沿岸方面の部隊が牡丹江を目指して進軍中です。現在満州軍と思しき部隊の抵抗を受けていますが牡丹江まで段階的な撤退を行っているようで、一週間以内に牡丹江近郊で決戦になると考えております」
「沿岸部は、やはり駄目かね?」
「はい…。敵海軍の対地攻撃が熾烈を極め、砲兵では太刀打ちできません。やはり海軍にせめて沿岸部の制海権だけでも奪取してもらわないと…」
報告の内容は、西部の敵殿集団に手間取っている以外はおおむね順調か予定通りという事だった。東部での決戦がおそらく満州戦のターニングポイントになるだろう。
「この一戦で全て終わらせてくれる…」
ジューコフは致命的勘違いをしていた。
日本軍の本命は牡丹江に集結している兵力ではない。
そのさらに西、吉林に西部戦線からピストン輸送される部隊だった。
第二集成装甲集団。本土から緊急輸送され、大連から自走してきた第八、第十一戦車師団と第三、第四機動歩兵師団。それに東部から引き抜かれた第六百十二独立重戦車大隊『玄武』を中心とする完全機械化装甲集団。総数十八万。
すでに先陣は延吉まで前進している。
攻勢開始は牡丹江決戦の開始と同時。第一目標はウラジオストックの玄関口ヴォロシロフ。そこからシベリア鉄道沿いに北上し、最終目標はハバロフスクに置く。
東部のソ連軍を全て包囲する一大反攻作戦。
関東軍参謀長を務める、鬼才石原莞爾が絵を描いた巧緻をきわめる作戦。
唯一のアキレス腱は、北西部防衛線。
もし白城市・ハルビン間の防衛線を抜かれたら、日本の生命線であるサルト油田を失う事になる。
あえて吉林に部隊を集結させるのも、最悪の場合増援として繰り出すため。
第一臨時集成装甲団。これが味方防衛線に吸収されれば、その西部の防衛は盤石になる。
「牡丹江の決戦前に連中が味方と合流すれば、こちらの勝ちだ」
新京の司令部で、石原は口元を歪めた。
満州戦の趨勢は、彼らにかかっていた。