1941~北の凍土~1
1941年十二月十日 満州西部
『全車傾聴!』
無線から響いた声に、この戦車の車長、橘孝俊は途切れそうな意識を必死にを手繰り寄せる。この二日間、彼はまともな睡眠を取っていない。
もっとも、それは満州に存在する全ての日本人に共通する事だろうが。
『後退中の友軍部隊の最後部は本部隊から二十キロ後方まで下がった!師団直轄の機動砲兵の後退まで後四時間だ。それまで持ちこたえるぞ!』
久しぶりの良い報告に沸き立つ車内。
「ようやく後退か!」
「生きて国に帰れますね!」
彼ら第四十二戦車中隊の所属する第五戦車師団は、三日間味方部隊の殿を務め続けていた。国境線の最前線に配備されているだけに車両は最新の百式中戦車だが、激しい交戦で戦力はすでに半減していた。車両整備にあたる整備班は決死の覚悟で部隊と行動を共にしてくれて、整備不良で立ち往生するような車両は一両もなかったが、一刻も早い後退が望まれていた。
その時、最悪の報告が届いた。
『こちら早期警戒隊!ソ連軍機甲部隊捕捉!数二百両以上、全て『鏡餅』です!戦車跨乗兵多数!後方に歩兵のトラッ…』
報告は途中で途切れた。同時に彼方から爆音が響く。無線のスケルチ回路がノイズを自動でカットし沈黙が舞い降りた。『鏡餅』とはソ連軍の主力戦車T―34の事を指す。その菱型の姿からそう呼ばれている。
同時に司令部から命令が届く。
『第四十二戦車中隊に命ずる。突撃態勢にある敵機甲集団を殲滅せよ。なお、砲兵支援は陣地転換作業中につき行われない。支援として後退の遅れている第二十二機動歩兵中隊が向かう。到着は二時間後を予定。それまで自力で持ちこたえろ!』
『…全車、聞いての通りだ。これより我が中隊は敵機甲部隊の突撃阻止戦闘に突入する!前面には味方工兵の対戦車壕が掘られてる。間違って落ちるなよ!以上!』
「…了解!」
ヤケクソ気味な返事を返す橘。九日の昼に最後の補給を受け取ってから、彼らは三回の対戦車戦をこなしている。すでに徹甲弾の残弾は三分の一を切り、榴弾は弾切。機銃は銃身が凍りついて整備から五割の確率で暴発するとお墨付きをもらっている。
「…なんとも絶望的な状況ですね?」
操縦手の特年兵、佐々木武がその幼い顔に苦笑するような表情を浮かべる。もはやなにかふっきれてしまっている。
「仕方ないか。俺達の後ろには後退中の西部方面軍三十万がいるんだからな。そのためなら、最新の百式装備の部隊でもここで使い潰してもいいって考えなんだろ、司令部はな」
なんとも豪勢な生贄だと、橘は思った。
詳しい情報はさすがに入らないが、少なくともこの殿集団には俺達第五戦車師団と第二機動歩兵師団が含まれている。どっちも最新の装備を優先して配備されている陸軍最精鋭部隊だ。噂では独立重戦車大隊まで見かけたという。もしそうなら、ここには西部方面の機甲戦力の三分の二…いや、開戦当初の交戦で全滅した第三戦車師団を除けば四分の三以上になる。
…一体、司令部は何を考えてる…?
橘の思索はそこで途切れた。
「敵戦車発見!二時の方向、距離三千!」
「射撃準備、弾種徹甲!敵が地雷原を超えたところで砲撃開始。取り付いてる戦車跨乗兵は無視しろ、整備班の連中がやってくれるはずだ!
主砲の照準器を覗いていた、砲手の朽木の報告を受け臨戦態勢に入る車内。
中隊の車両は、全て車体が地面に隠れるように掘られた壕に入り待ち伏せの態勢を取っている。空襲を警戒して大量の雪に覆われた戦車はただの小さな雪の塊にしか見えない。
その周りには、それぞれの戦車の壕をつなぐ細い塹壕が掘られ、中には小銃を抱えた兵士が予備の弾薬を抱えて駆けまわっている。中には明らかに銃に慣れていない兵の姿も見える。
すでに戦いに備えて、整備兵は自衛用に配備されている旧式の小銃を抱えて急造の陣地線に籠っている。おそらくこちらの砲撃で全滅するだろうが、生き残った敵歩兵が肉薄してきたら彼らに任せるしかない。暴発するかもしれない機銃は最後の手段だ。
その時、彼方から爆音が轟いた。
「…馬鹿め。性懲りもなく地雷原に突っ込んだか」
視線の先では、突っ込んできたT―34が雪の下の地雷を踏みつけ履帯を吹き飛ばされている。もちろん、車体に取り付いていた兵士も投げ出され一部はそのまま戦車に轢き殺されている。平均寿命二週間の呼び名は伊達ではない。
周囲の敵戦車も次々と地雷を踏みつける。
宙を舞う、戦車の履帯と兵士の肉片。
さらに数両が撃破され、ようやく前進が止まる。
代わりに乗っていた歩兵が下りて、車体に乗せていた機関銃を戦車の車載機銃とともに地面に向けて撃ちまくる。
次々と破壊される地雷。地雷処理の最も手っ取り早い方法。しかし、橘達はこの後の反攻戦で悪夢を目撃する事になる。
『全車。距離があるがここで撃ち方始め!弾を打ち切った車両から後方の第二陣地まで後退。歩兵中隊もそっちに向かわせる!整備班は今すぐ後退しろ!』
「撃ち方始め!」
隊長からの指示を受け、橘が砲撃を命じる。
即座に放たれる四十五口径七十五ミリ砲。
放たれた被帽付徹甲弾は音速の二倍以上の速度でT―34の正面装甲に斜めに直撃する。
しかし、距離と角度の関係で砲弾は巨大な火花とともに弾かれる。車体に大きな損傷を与えたとは思えない。
だが、周囲の生身の歩兵は違う。
砲弾の衝撃波だけで、手足を千切られ内臓を破裂させる。
悲劇は連続する。
こちらの存在を察知した敵戦車は、主砲を放つ。
この衝撃は歩兵にさらなる損害を与える。まだしがみついていた兵士は一瞬で弾き飛ばされ、やはり衝撃波でさっきと同じような被害が続出する。
しかし、敵戦車の砲撃は、こちらに損害を与える事はない。
砲塔以外外からは見えないのでは、目標が小さすぎた。
こちらの砲撃も敵戦車を撃破するには至らないが、決して無傷ではない。
連続した直撃弾は内部の戦車兵を痛めつけ、剥離した内部装甲が車内を跳ねまわる。
履帯を直撃した砲弾は、複数の転輪を履帯もろとも吹き飛ばし、一瞬で行動不能にする。
(イケる…!)
戦況を見て、橘はこの防衛戦の勝利を確信した。
だが、彼らには致命的な問題があった。
「車長!残弾三発です!」
「クソッ!もう少し弾があれば…!」
そう、すでに弾は各車二十発もなかったのだ。
撃ち切るのは、あっという間だった。
最後の一発を撃って、橘は命じる。
「後退する!」
「了解!」
そのまま車両はバックで壕から抜け出すと、正面を敵に向けながら後退する。本来なら後退するための塹壕も欲しかったが、そこまで掘る時間は彼らにはなかった。
車体全てを晒した中隊の車両に、ソ連軍戦車の砲撃が連続して直撃する。
だが、百式の正面装甲は、それらをなんとか耐え抜く。装甲の厚さは、T―34に決して劣っていない。
しかし、運の悪い者もいる。
一両が、履帯に直撃を受ける。
即座に停止しようと制動を掛けるが間に合わずに派手にドリフトして、脆弱な側面を敵に晒す。
それを見逃すほど敵は甘くなかった。
即座に集中打が浴びせられ、脱出を試みた戦車兵ごとまとめて粉砕する。
砲塔で弾かれた砲弾が車体の上部を直撃し、そのまま撃破される車両もある。砲塔の防楯の設計ミスに起因するものだ。
だが、損害はその二両だけだった。
味方の歩兵部隊がトラックの荷台から迫撃砲を撃ち放つ。
放たれた発煙弾は内部の黄リンを燃やし、透過性の悪い五酸化二リンを発生させ、敵戦車の視界をふさぐ。
その隙をついて、残り八両はそのまま後退、敵の射界から逃れるとそのまま方向転換。後方の陣地に、即席歩兵と化した整備兵を乗せたトラックと共に後退する。
煙幕の向こうでは新たな敵機甲部隊が出現し、先の部隊と同じように地雷原に突っ込んでいた。
圧倒的劣勢の戦況を、彼らはまだあきらめていなかった。
翌日、彼らに悪夢の報告が入った。
後衛部隊第二十八歩兵師団全滅。
同時に、師団の担当していた戦域約五キロを敵自動車化狙撃師団と機甲旅団が突破。後衛部隊主力の後方に回り込んだ。
包囲された部隊は戦車二個師団、機動歩兵一個師団、それに機械化歩兵二個旅団。
徒歩の部隊は先に後退していたが、敵突破部隊が側面から直撃。壊乱状態で撤退部隊本隊に収容されている。
本隊への突撃は第二航空軍の決死の攻撃で阻止したものの、孤立した部隊の救出は混乱した西部方面軍では不可能だった。
最寄りの味方はハルピン・白城市間の防衛線。直線距離で約二百キロ。
司令部は、包囲下の部隊を第一臨時集成装甲団と命名。独力での味方戦線への合流を命じた。
敵中突破二百キロ。三分の一の戦力を失った、第四十二戦車中隊の死闘が始まった。