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第4話〈ソロコン 前編〉

「*」のついた専門用語には、後書きに解説があります

「杉崎、なにその曲?めちゃ難しそうだけど。しかもアルト吹いてるし」

「今度、ソロコン受けるから、それの曲を練習してる」

「え、ソロコン⁈」

「うん。今レッスン受けてる先生が、試しに受けてみたらって」


 ソロコン。

 ソロ・コンテストまたはソロ・コンクールの略だ。普段、吹奏楽という大人数での演奏に取り組んでいる学生たちが、一人で演奏し、個人の実力が試される特別な場。

 9月に入り新学期も始まった水曜日、杉崎は一人、難解な曲に取り組んでいた。


「ソロコンか~。受けたことないな~。やっぱりソロって難しい?」

「難しい。ずっと一人で吹かなきゃならないから、集中力も体力もいるし。曲もムズイ」

「うわ!何この楽譜!*真っ黒じゃん。よくこんなの吹けるね」

「サックスのソロ曲って、だいたいこんな感じだから」

「そうなんだ~。トロンボーンのソロの曲とか、全然知らないな~」

「知らないよね、普通。私もサックスの先生に相談していろんな曲を教えてもらったし」

 乃恵琉は杉崎の楽譜を覗き込む。トロンボーンの譜面では見たことも無い*連符や*三十二分音符が並ぶ。曲のタイトル、作曲者もよくわからない言語で書かれていて、読むこともできない。


「これって、何語?英語じゃないよね」

「フランス語。サックスはフランスの曲、けっこうやるらしいよ」

「うわー、ぜんぜん読めない。ソロコンってこんな曲吹くんだ。こういうの、音大に行くにも必要ってことなの?」

「そうみたい。この曲も、音大生が試験で吹いたりするんだって。他にもこんな感じの曲を先生から借りてきた」

 そう言って杉崎は何冊かかの楽譜を見せてくれる。どれも見慣れないカラフルな色彩の装丁で、発音もわからないアルファベットのタイトルが書かれている。開いてみると、複雑に入り組んだ音符の羅列でみっしりと埋まっていて、乃恵琉は軽いめまいを覚える。


 部活の吹奏楽でやっている曲とは全く違う、別世界の音楽。誰の作曲で、どんな曲なのか杉崎が説明してくれたが、乃恵琉が知っている作曲家の名前は一つもなかった。

 ただ、自分の知らない音楽の世界が、まだまだ果てしなく存在しているのだろうな、という感慨に鼓動が高鳴るのを感じた。


「いいな。私もソロコン、受けてみたい」

 つい、ポロっと言ってしまった乃恵琉に、杉崎はいつも通り冷静な言葉を返す。

「ソロ吹くんだったら、先に先生を探してレッスン受けた方が良いよ。私も自分じゃわからなかったし。お父さんがいろんな楽器の先生に詳しいから、聞いてみよっか?」

 杉崎の提案に、乃恵琉は一瞬、思考が停止する。レッスン?先生?

 トロンボーンのプロの先生から、個人レッスンを受けるってこと?


 この防音室に誘われた時もそうだったが、杉崎は無自覚に人の気持ちに刺さる提案をしてくる。相変わらず杉崎の表情からは意図は見えない。乃恵琉が自分と同じように、ソロを吹くことに興味を持ったのが嬉しいのだろうか。

「え、それじゃトロンボーンの先生とかも、紹介してくれるの?」

 驚いて反射的に聞き返す乃恵琉。「じゃあ、お父さんに聞いてみるよ」と何事も無いように言う杉崎に、ドキドキと脈打ち始める心音を悟られぬよう、「よろしく」とだけ短く返した。


 県内にトロンボーンを本格的に教えられる先生は多くなかった。紹介された先生は、この地方の中核都市にある楽器店でレッスンをしている。移動には車で1時間以上かかり、レッスン料も乃恵琉の小遣いでは払えそうにない額だった。乃恵琉は、何とか親に頼み込んでレッスンを受けられることとなった。


 翌日曜日、乃恵琉は部活を早退し、母親の送迎で楽器店に着く。4月にマイ楽器を購入したのもこの店で、それ以来の来店だ。相変わらずいろいろな楽器が並ぶキラキラとしたショーケース。入店して惑っている乃恵琉に店員が声をかける。

「古山先生のレッスンですか?トロンボーンの。1番のレッスン室です。先生、もういらしてますよ」

 言われて乃恵琉は店の奥へと進む。薄暗い突き当りにあるレッスン室の扉の前で立ち止まり、息を整える。先生が吹いているのだろうトロンボーンの音が小さく聞こえる。優しい響きだ。ドキドキは治まらないが意を決して扉を押し開ける。


 杉崎家の防音室よりも少し狭いくらいの室内。奥の壁際に背の高い壮年の男性がトロンボーンを持ってにこやかに迎えてくれた。

「初めまして。山田さんでよかったかな?トロンボーン講師の古山です」

 案外と高く柔らかい声。事前に検索したホームページに載っていた写真より、少し太っているように見える。笑顔から発される親しみやすい空気感。とはいえ狭いレッスン室での距離に、乃恵琉は緊張する。

「山田乃恵琉です!よろしくお願いします!」

「山田さんは高校2年生でしたか。今日は、基礎的なことと、ソロコンに出たいのでその曲目を相談したいということですね」

「はい!」


 そして、トロンボーンの基礎的な奏法について吹きながら教わり、先生が持ってきてくれたいくつかのソロ曲の中から、乃恵琉の実力に合った曲を選んで、約1時間のレッスンを終えた。

 終始、緊張していた乃恵琉には、まるで夢の中の出来事のようにフワフワとした時間だった。あまりにたくさんのアドバイスがあって、頭の中の整理がつかない。先生に言われるまま、ただただ一生懸命に楽器を吹いた。

 初めてのレッスンに乃恵琉の現実は追いついていないが、何はともあれ、ソロコンのための曲は決めることができた。


 帰りの車の中、ぼぉっとシートに座る乃恵琉。レッスンで先生に言われたたくさんの言葉が頭の中をめぐる。やがて、その中のただ一言がリフレインする。

 〈すごく良い音してるね!音大受験するの?〉

 言われて、あいまいな返事をしただけだった。

 音大受験。私なんかが受かるんだろうか。杉崎みたいに子供のころから楽器をやっていて、上手かったらいいんだろうけど。でも、先生が聞いてきたってことは、もしかして受かる可能性はあるのかな?でも、もう高2だし。無理だよね。

 乃恵琉の中に、今まで存在しなかった言葉が浮かんでは消える。

「レッスン、どうだった?乃恵琉」

「うん…」

「うん、じゃなくて。どうだったの?もう、聞いてるの?」

 母の問いかけに生返事をしながら、乃恵琉は窓の外を眺め続けた。


「レッスン、行ってきたんだ、乃恵琉」

「行ってきたよ!いやー、緊張したー。マンツーマンの個人レッスンなんて初めてだったから、本当にドキドキしたよ」

「だよね。私、今でも超緊張するよ」

「杉崎でも緊張するんだ⁈」

「するよ。先生、けっこう厳しいし」

「そうなの?トロンボーンの先生はすっごく優しかったけど」

「最初だけじゃない?」

「あー、そうなのかな。確かに、生徒に逃げられても困るんだろうから」

 ソロコンに出ると決めた二人は、ノー部活デーの練習にもより一層熱が入る。


「そういえばピアノの先生、トロンボーンの伴奏も大丈夫だって」

「ありがとうー!ピアノ伴奏が必要だなんて知らなかったから、紹介してくれて良かったー」

「宮本先生っていう、私が子供のころからピアノ習ってた先生で、すっごく上手な人だから。でもちゃんと練習していかないと怒られるから、乃恵琉も頑張って」

「あ、そうなんだ。やばい。難しいんだよね~この曲。ピアノと合わせるのっていつ頃になるのかな?」

「私は再来週の予定だから、乃恵琉がよければその時に一緒にやるって」

「OK!頑張って練習しよ!」

 管楽器のソロで演奏する曲には、ピアノ伴奏が必要なことが通常だ。伴奏の無い曲もあるが、数は少ないし、演奏も難しいということで、乃恵琉はピアノ伴奏の付いた曲を選んだ。ソロコンでは、ピアノの伴奏者もとても重要になるとレッスンで言われ、杉崎に相談してピアノの先生を紹介してもらったのだ。


 ピアノ講師の宮本由希子は、杉崎家の近隣にピアノ教室を構えている。音楽大学を卒業後、東京で演奏活動をしていたが、結婚を機にこの地に越してきた。自宅でピアノ教室を始めてからすでに数十年。教室で教えるだけでなく、各種管楽器や、声楽の伴奏を引き受けることもしばしばだ。学生が出場するソロコンの伴奏をしたことも何度もあり、経験豊富な由希子は若い学生にとって頼れる伴奏者として知られていた。


 ソロコン予選まで約1ヶ月と迫った水曜日、乃恵琉は杉崎に連れられてピアノ教室を訪ねる。住宅地の中のヨーロッパ風のお洒落な一軒家。門をくぐると、玄関前の小さな庭にバラが咲いている。ピアノの弾けない乃恵琉には、ピアノ教室というだけで上品な別世界を想像してしまう。

 杉崎がインターホンを鳴らす。乃恵琉はドレスを纏った令嬢の様な女性が出てくるのではと身構える。しかし、実際に出てきた由希子は、母親ほどの年代の気さくなおばさんと言った感じだった。

「いらっしゃ~い。よく来たわね~。あなたが乃恵琉ちゃんね?」

「はい!山田乃恵琉です!」

「緊張しなくてもいいのよ。お茶入れるから。紅茶でいいかしら?」

「ありがとうございます!いただきます!」

 明るく喋りかけてくれる由希子に、乃恵琉の緊張はすぐに解ける。


「ピアノのレッスンの時だともっと厳しいのに」

 ぼそっとつぶやく杉崎。

「いや~ね。そんなに厳しくないでしょう。でも、彩香ちゃんのサックスの伴奏、とても楽しみだから」

 杉崎は子供のころからピアノを習っていたが、サックスで由希子と二人で演奏するのは初めてとあって、由希子もテンションが高い。

「どっちから合わせる?彩香ちゃんから行こうか」

「はい」

 杉崎は楽器を取り出し、折りたたみの譜面台を立てる。

 ピアノに向かった由希子は別人のように鋭い目つきに変わり、流麗な音の粒を紡ぎ出す。

 瞬時に空気がピリッと引き締まり、ピアノ合わせが始まった。


 杉崎家の防音室よりもさらに広い室内に据えられたグランドピアノ。そこから奏でられる音の一つ一つがキラキラと宝石のように輝く。杉崎の吹くアルトサックスの旋律は、滑らかにそれに乗って、部屋の中を駆けていく。二人で紡ぐ音の波が、押し寄せては引いていき、それが繰り返されるたびに、音楽の熱が高まっていく。


 乃恵琉は、演奏する杉崎と由希子の姿に目を奪われる。自分もこんな演奏ができるのだろうかと不安がよぎる。トロンボーンを握る手に汗が滲む。何度も見続けた楽譜をもう一度開いて確認する。そうしているうちに杉崎の演奏が終わり、「次は乃恵琉ちゃんね」と由希子から声がかかる。


「乃恵琉ちゃん、最初はあなたの思うように好きに吹いてみて。私が合わせるから大丈夫。それじゃあ、行ってみようか」

「はい!よろしくお願いします!」

 乃恵琉は緊張したまま楽器を構えて吹き始める。最初は身体が硬くなってミスが多い。今まで間違えたことのない部分でもつっかえてしまう。

「すいません!」

「謝らなくていいから。そのまま吹き続けて」

 由希子の言葉に、乃恵琉は再び楽器を構える。

 大丈夫。十分練習してきたはずだ。杉崎との練習のように、もっと相手の音を聴いて。

 ピアノの響きに耳を澄ます。そうすると、由希子が自分の演奏に寄り添ってくれていることが分かる。ピアノに支えられて、トロンボーンのメロディが推進力を増していく。

 吹奏楽で演奏する時とも、杉崎と二人で演奏する時とも違う感覚。ピアノとトロンボーンの二人だけで、こんなに豊かな音楽が演奏できるなんて。乃恵琉の中に新しい感覚が芽生える。

 そもそも吹奏楽では、トロンボーンがメロディを吹くことは少ない。それが、ソロだとずっとメロディを吹いているようなものだ。指揮者もいないから音楽の流れを作っていくのも自分だ。演奏を自分一人がリードしていくという快感。

 〈楽しい!ソロを吹くって、こんなに楽しいんだ!〉

 乃恵琉は初めての演奏体験に、心が脈打つのを感じていた。


「乃恵琉ちゃんはピアノと合わせるの初めてって聞いてたけど、ちゃんとピアノの動きも聴けてるし、問題なさそうね」

「ありがとうございます!」

 一通りのピアノ合わせを終えて、由希子の言葉に乃恵琉は胸をなでおろす。

 スコアをしっかりと読み込んできたので、慣れるほどにピアノの音も落ち着いて聴くことが出来た。杉崎との練習の経験が役に立っていることを感じる。

「彩香ちゃんも、良く練習してるわね。この曲、難しいのに*暗譜も完璧みたいだし」

「はい」

 杉崎はうつむき加減で返事をする。表情はあまり変わっていないが、これは褒められてかなり嬉しいのだろうな、と乃恵琉は見て取った。


「由希子先生、それであの、*伴奏料なんですけど…」

「それなら大丈夫。乃恵琉ちゃんのお母さんとお話しした時にお伝えしたから」

「ちなみに、おいくらなんでしょうか…?」

 乃恵琉が聞いた金額は、想像していたよりもずっと多い額だった。

 楽器を真剣にやればやるほど、レッスン料、ピアノ伴奏料、ソロコンの参加費などなど、乃恵琉の思っていた以上にお金がかかる。何とか親にお願いしたけれど、急な予定外の出費にかなり渋い顔をされたのだった。

 音楽をやるのに、こんなにお金がかかるのだということも、乃恵琉の知らなかったことだ。音大の授業料も調べてみたが、私立だと乃恵琉には信じられない金額だった。

 うちはそれ程お金に困っているわけではないと思うが、それでもただのサラリーマン家庭。もし、音大に行きたいなんて言ったら、両親はどんな反応をするだろうか。そんなお金は無いって言われそうな気もする。


「由希子先生は東京の音楽大学を卒業されたんですよね?」

「そうよ。もう何十年も前だけれど」

「やっぱり、子供のころからプロのピアニストを目指されてたんですか?」

「うーん、音大に入るまでは、そこまで考えてはいなかったのよ。ただピアノが好きで弾いていて、何となく音大にはいっちゃったの」

「う…。何となくで音大に入れちゃうって、やっぱりすごい。それに、音大ってお金もかかるじゃないですか」

「そうねー。私は、音大の受験ではそんなに苦労した記憶はないの。5歳からピアノ始めて、当たり前に続けてたし。親も協力的で、グランドピアノも買ってくれたしね」

 由希子の話に、乃恵琉は住む世界の違いを感じずにはいられない。

 同じ「音楽」をやっているといっても、自分のように部活で楽器を吹いているのと、小さい頃からピアノを弾いていて普通に音大に入ってしまう由希子とでは全く違う。やっぱり音大って、才能とお金を持って生まれた人たちの世界なんだろうかと乃恵琉は思う。


「いいですよね。由希子先生は」

 杉崎も珍しく口をとがらせて言う。由希子に対しては、杉崎は少し子供っぽくなる。

「あはは。ごめんね~。でも私が大変だったのは、大学に入学してから。甘い気持ちで音大に行っちゃったから、私よりずっと上手くて、プロを本気で目指してる同級生にショック受けちゃったの。それから、自分なりにどう音楽に向き合っていくか、本当に悩んだのよ」

「そうなんですか」

「うん。だから彩香ちゃんも音大受験するとしても、その先のこともよく考えておいた方が良いわよ。音楽との付き合いは一生なんだから」

 杉崎は、由希子の言葉をうつむいて噛み締める。

 乃恵琉は、手にしたトロンボーンを改めて握りなおす。

 二人にとっては、自分たちが大人になる未来のことは、まだまだ遠い幻のようだ。今は目の前のソロコンで演奏することで精一杯。一生、だなんて想像することも難しい。


 それでも、自分で決めるんだ。そう思って乃恵琉は杉崎の顔を見る。

 杉崎も顔を上げて、真っ直ぐに乃恵琉を見つめ返す。

 二人の視線は強く重なる。


「さて、もう少し時間あるから、二人とももう1回ずつ合わせてみる?」

「「はい!」」

 由希子の提案に、二人は声を揃える。

 初めてのソロコンに向けて、着実に準備を積み重ねていく。


【吹奏楽 用語解説】

〈真っ黒〉

楽譜に十六分音符や連符など、複雑で速い動きが多いほど、書かれている音符の数も多くなり、楽譜の見た目が「黒く」なります。このため、とても音符が多く難しそうな楽譜は「真っ黒」と言ったりします。


〈連符〉

1拍に複数の音を嵌め込んだ音符。1拍に3つの音なら三連符、5つなら五連符など。

ここで乃恵琉が目にしたのは、七連符~十連符といった、非常にたくさんの音を瞬時に演奏する音符です。トロンボーンにはそのような演奏は不向きなので、トロンボーン譜面ではそういった連符はほぼでてきません。


〈三十二分音符〉

1拍に音が8つ入る速さの音符です。めちゃくちゃ速い動きです。


〈暗譜〉

楽譜を見ないで演奏することです。コンクールによって暗譜が必須の規定になっていることもあります。

覚えるのが苦手な人には、一つのハードルになります。


〈伴奏料〉

ピアノ伴奏をお願いした場合、伴奏料を個別にピアニストに払います。金額はピアニストよって様々です。今回のソロコンでの伴奏料は、学生ということもあり由希子にしては安めのサービス料金です。しかし、それでも高校生の乃恵琉の金銭感覚では高額でした。



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