この婚約、無かったことにしませんか?
「次の休日はバラ園に行くことになった」
「お前がバラ園!? 笑えるんだけど!」
夜もふけた騎士団寮。一階の談話室がドッとわいた。
同僚の騎士達から笑われているのは、バルドリック・クロウ子爵令息、二十歳。黒い短髪に赤い目をした、無愛想な騎士である。
休日の予定を聞かれたのだが、言ったところで笑われるとは思っていた。
花の名前も知らないバルドリックが、わざわざバラを見に庭園へ行こうというのだ。彼自身も性に合わないと自覚している。でもこれは仕方がなかった。
「婚約者から誘われたんだ。断るわけにはいかないだろ」
「そうか。何度も言うが、まさかバルドリックが婚約するとはな」
「お前『結婚などしない』とか言ってたのに」
「俺だって婚約者をあてがわれるなど予想外だったんだ……」
バルドリックに婚約者ができたのはつい先日の話だった。
クロウ子爵家の次男であるバルドリックは、幼い頃から見習として騎士団に身を置いていた。
騎士として身を立てるため、屈強な男達に揉まれ、念願の騎士となり、男社会にどっぷりと浸かったまま二十歳になったある日。
バルドリックは父から命ぜられたのである。「フェルモント伯爵家に婿入りせよ」と。
そうして婚約者となったのがエレオノーラ・フェルモント伯爵令嬢――フェルモント伯爵の一人娘であり、バルドリックより二つ下の十八歳。
ふわふわとした淡い金髪に潤んだ碧眼を持つ、儚げな女性だった。
たくましい女騎士であった亡き母とは違う。寮の食堂を切り盛りする女将とも違う。エレオノーラは彼にとって初めて対面する、正真正銘の“ご令嬢”であった。
『はじめまして、バルドリック様。末永くよろしくお願いいたします』
『あ、はい……』
彼女を前にしたバルドリックは、そう返事するだけで精一杯だった。毎日、無骨な騎士達とばかり関わってきたバルドリックにとって、エレオノーラとは言わば未知との遭遇だったのだ。
彼女からバラ園へ誘われても、バルドリックには当日のことが何も想像できない。
(バラ園……彼女と何すればいい? 見て帰るだけでいいのか?)
次の休日。バルドリックはとりあえずバラ園へ向かった。
隣に並ぶ彼女の頭は片手で掴めるほど小さく、腰も折れそうに細い。息をするだけで壊れそうなその身体は、同じ人間とは思えないくらいに弱々しかった。
そして華奢な靴を器用に履きこなし、優雅にゆっくりと隣を歩く。まるで、亀の方が速いのではないかと思わせるほどに。
一方のバルドリックは歩幅も大きく、気を抜けば彼女を置き去りにしてしまいそうになった。
時々立ち止まりながら歩いているため、ほんの少しの距離にずいぶんと時間がかかっている。しかもあんな靴ではいつか転けてしまうのではないかと、見ているだけでもハラハラした。バルドリックとしてはバラどころではなかった。
「……エレオノーラ嬢、足は大丈夫なのですか」
「は、はい!」
「なら良いのですが」
「あっ……バルドリック様ご覧になって。あちらに素敵なカフェがありますよ」
さらにエレオノーラは、あちこちに寄り道をした。庭園にはバラを目的として来たはずなのに、カフェや雑貨屋、目に付いたところで立ち止まってしまうのだ。これではいつバラ園へたどり着くか分からない。
「……そろそろ行きませんか」
「ええ、可愛らしいカフェでしたね。わたくし、今朝の夢にも可愛いカフェが出てきまして――」
「はあ……」
カフェを出たエレオノーラは、歩きながらペラペラと喋り始めた。すぐ終わるかと思ったが、夢の話は意外にも長い。そのうえ、話にオチはないらしい。
これが同僚の騎士なら「それがどうした」と一蹴できるが、彼女にそれをやってはならないことだけは分かる。
バルドリックは仕方がないので相槌を打ち続けた。何が楽しいのか分からないが、ずっとクスクスと笑っているエレオノーラの隣を歩きながら。
「おい、今日はどうだったんだ?」
「何のことだ」
「婚約者とバラ園へ行ったんだろ」
その日の夕方、寮へ帰ったバルドリックを騎士仲間達が取り囲んだ。
これまで浮いた話が無かった彼の、初めてのデートだ。興味津々な騎士達にとっては格好のネタであった。
「そうだな。バラは美しかった」
「そんなことを聞いているんじゃ無い! 分かるだろ? エレオノーラ嬢とはどうだったんだ?」
「……俺は正直、疲れただけだったな」
「お、お前、酷いな……将来の伴侶だろう」
「そうかもしれないが、話は合わない、歩調も合わない。何をするにも気を遣う。俺はお前らと馬鹿な話をしているほうがよっぽど楽だ」
バルドリックはきっぱりと言い切った。それくらい、今日一日で疲弊していた。
これが俗に言うデートというものなら、やはり自分は女など必要ない。男社会の中で生きていきたい。
彼女といると、どうしても気疲れした。バラを美しいと思う心はあるが、わざわざ見に行きたいわけでは無かった。誘われたからしかたなく彼女に付き合っただけで、もしまたこうして誘われたなら……今日みたいに無益な時間を過ごすことになる。それを考えただけで辟易してしまった。
しかし、そんなバルドリックを同僚達は叱責する。
「贅沢者。最初のデートなら気を遣って当然だ。バラ園みたいな場所が嫌なら、今度はお前が考えて誘えばいいだろう」
「デート……また、しなければならないものなのか?」
「婚約者なんだから当然じゃないか。次はバルドリックが疲れないようなデートにすればいい」
「俺が疲れないデート? そんなものは無いと思うが」
「お前の行きつけの店なんかで、普段の姿を見てもらうんだ。そうすれば、エレオノーラ嬢もお前に過度な期待をしなくなるだろ」
「普段の俺――」
騎士として、雑に生活する自分の姿を見てもらう。
それはいいなと、バルドリックは思った。
なんなら、騎士団の練習場などに招待してみてはどうか。あそこはつねに砂埃が舞い、剣の交わる音が響き、男達の怒号が飛び交う場所だ。その様子には男でも萎縮する奴がいるくらいなのだから、楚々としたエレオノーラにはさぞかし野蛮に映ることだろう。
普段の姿――自分の荒々しいところを見せれば、エレオノーラのほうから自然と離れていくかもしれない。
もし彼女から嫌われれば、フェルモント伯爵家への婿入り話も無くなるのではないか。自分勝手な思惑がバルドリックの頭に渦巻く。
(女心が分からない俺と婚約など、エレオノーラ嬢にとっても不幸だ。きっとそうだ)
バルドリックは、そう強く思い込んだ。
そして周りに流されるまま、エレオノーラへ招待の手紙をしたためたのだった。
「ご招待いただきありがとうございます。バルドリック様」
しばらくして、手紙を受け取ったエレオノーラは本当に騎士団へとやってきた。
彼女はこの場に似つかわしくない薄い桃色のワンピースを着て、今日も窮屈そうな靴を履いている。
男だらけの練習場でただ一人、可憐に佇むその姿は否応なく目立った。
言いようの無い眩さに、騎士達は不躾なくらいじろじろと彼女を見ている。その視線を知ってか知らずか、エレオノーラはバルドリックを見上げて花のように微笑んだ。
「わたくし……今日をとても楽しみにしていたのです」
「そうですか。そちらの壁ぎわで、どうか椅子も使ってください。練習風景などあまり面白いものではないかもしれませんが――」
「いいえ! こうして剣を振るうお姿を見学できるなんて、夢のようです。わたくしは邪魔になりませんよう大人しくしておりますので、どうかお気になさらず練習なさってください」
バルドリックの思惑とは裏腹に、エレオノーラは意外にも楽しそうだった。
言われたとおり素直に壁際へ座り、きょろきょろと練習風景を見渡している。そして剣を振るうバルドリックの姿を見つけるたびに、ひらひらと小さく手を振った。
(なんだ……見当違いだったか)
てっきり、もう少しくらい怖がるかと思っていたのに。思わぬ反応に困惑するバルドリックへ、騎士仲間がこそこそと耳打ちした。
「エレオノーラ嬢、いいな。可愛らしいじゃないか」
「……おい。変な目で見るなよ」
「バルドリックは彼女のどこが不満なんだ? 婚約者の職場を見学できてあんなに喜ぶなんて、俺はいじらしい人だと思うが」
そう言われ、バルドリックは思わずエレオノーラを振り返った。しかし彼女は騎士達に話しかけられているところで、あいにくこちらを見ていない。
「いいのか? 彼女、囲まれてるけど」
「別に……あいつらと話しているだけだろう」
「そうか? 困ってないか?」
「困ってる?」
一見、エレオノーラは笑顔で対応している。しかし言われてみれば、その姿はわずかに腰が引けているようにも見えた。微笑みながらも視線を泳がせている気もする。
そうなってしまっても仕方がないかもしれない。体格のいい騎士達に囲まれるなど、普通の令嬢なら威圧感で戸惑っても当たり前だろう。
見かねたバルドリックは鍛錬の手を止め、エレオノーラのもとへと向かった。
「エレオノーラ嬢」
「あ、バルドリック様……」
声をかけると、彼女はホッとしたように顔を緩ませた。同時に、彼女に話しかけていた騎士達は二人の邪魔をしないよう、「じゃあね」と律儀に去っていく。
二人きりで残されて、バルドリックは困惑した。
こちらから声をかけた手前、話を続けないわけにはいかない。
「……あいつらと、何の話をしていたのですか」
「ええと……バルドリック様とはいつ婚約したのかと、馴れ初めを聞かれまして」
「そうでしたか」
「『良い奴だからよろしく』と言われてしまいました。ふふ」
クスクスとやわらかく笑うエレオノーラは、自分の前だとリラックスしているように見えた。
そんな彼女に、バルドリックは妙なムズ痒さを覚える。
婚約者といえど、エレオノーラとは数える程しか会っていないはずだ。しかも会話という会話もほぼほぼ無く、ほとんどが彼女の一方的な話に相槌を打っていただけだった。
言わば、バルドリックだって赤の他人のようなもの。なのに自分だけが特別扱いされることで、慣れない胸はそわそわと浮ついた。
その日から度々、エレオノーラは騎士団の練習場に現れた。
柵の外で一般の見物客と一緒に立ったまま、こちらの練習風景をじっと眺めているのだ。
(こんなもの、見ていて面白いか……?)
「エレオノーラ嬢、今日も来ているみたいだが」
「そうだな」
「中に入って、座ってもらえばいいのに」
「いや、本人はあそこがいいと言っているんだ」
一度、彼女に『中に入りませんか』と声をかけたことはある。
しかしエレオノーラからは『ご迷惑をかけてはいけませんから』『ここからでも見えますので』とやんわり遠慮されてしまった。
それ以上は無理強いすることも躊躇われて、そのまま放置しているのだが……
バルドリックはエレオノーラの足元を見た。
やはり今日も、あの踵の細い靴を履いている。靴だけではない、彼女の足自体が嘘のように小さかった。あんな足でずっと立っていて問題ないものかと、バルドリックは見るたび心配になってくる。
「……やはり椅子を持っていく」
「そうだな、それがいい」
練習場には古い木の椅子しかないが、立ったままよりはマシだろう。バルドリックは椅子を運ぶと、エレオノーラのそばへコトリと置いた。
「よろしければ椅子に座ってください」
「バルドリック様……! ありがとうございます」
「こんな練習、見ていて楽しいですか? 度々来ているようですが」
椅子を持ってきただけなのに、バルドリックの口からはつい失言が漏れてしまった。
余計なことを言ったと気付いた時にはもう遅かった。バツが悪く、思わず顔を逸らしたが、エレオノーラからはクスクスと笑い声が聞こえる。
「ふふ、楽しいですよ」
「しかし、眺めているだけではつまらないのでは」
「私はバルドリック様のことを知ることができて嬉しいのです。どうかお気になさらず」
エレオノーラがそんなことを言うので、バルドリックはまた胸のあたりがざわついた。
なぜか、すぐそばにいる彼女を直視できない。光に反射するイヤリングが眩しいせいか、それとも――
「バルドリック、いい雰囲気だったな」
「どういう雰囲気だ、それは」
「笑い合って、まるで恋人同士みたいだったぞ」
「俺は笑っていない」
「しかしエレオノーラ嬢はずっと笑っていたじゃないか。一時はどうなるかと思ったが順調そうで良かったよ」
鍛錬が終わり、いつものように同僚達からいじられる。こうしてからかわれることにはもう慣れてきたものの、今日は一段と絡まれた。
バルドリックとエレオノーラの関係は、同僚達から見れば順調であるように映るらしい。
しかしこれが順調だと言うならば、世の中の恋人達はこの関係に疲れないのだろうか。
今日だってバルドリックは疲弊している。彼女に見られながらの鍛錬は何となく集中できなかったし、婚約者を前にして気の利いたことひとつも言えない自分に自己嫌悪したりもした。
(順調なのか……これが?)
首を傾げつつ、エレオノーラに貸した椅子を思い出したバルドリックは、片付けの最後に柵の外へ出た。
椅子を回収し、戻ろうとしたところ――視界の端がキラリと光る。
よく見てみると、地面に何かが落ちていた。
「これは……」
眩く輝くそれには見覚えがあった。今日、彼女が耳につけていた白銀のイヤリングだ。
小花を模したデザインで、中央に白い石が埋め込まれている。エレオノーラらしい愛らしさだと、バルドリックはそのイヤリングを手に取った。
アクセサリーのことなどはよく分からないが、イヤリングとはふたつ揃わなければ困るのではないだろうか。そのくらいのことは分かる。
そう思うといても立ってもいられず、バルドリックは馬を走らせ、フェルモント伯爵家へ向かったのだった。
夕暮れのフェルモント伯爵家の屋敷には、あのバラ園に負けないくらいのバラが咲き誇っていた。
よく手入れされた庭園に、むせ返るほどのバラの香りが漂う。それに引き換え、鍛錬後のバルドリックは汗と砂埃にまみれていた。
洗練された空間に圧倒され、土臭い自分は場違いな気がして、バルドリックは急に怖気付いてしまった。
勢いのまま馬を走らせたが、こんなところまで渡しに来なくてもよかったのではないか。また練習場で、彼女に返せばいいだけのことだった。もうすぐ日が暮れるこの時間に連絡もせず来てしまったことも、バルドリックを迷わせた。いくら婚約者といえど非常識なのではないか――
(慣れないことをするものでは無いな……)
エレオノーラと婚約してから、どうも調子が狂う。我に返ったバルドリックは、手に握ったままのイヤリングを改めて胸元のポケットへしまい込んだ。
また出直したほうがいい。そう思い、踵を返したその時、庭園から声が聞こえた。エレオノーラの声だ。
振り向くと、偶然にもバラのアーチのそばをエレオノーラが歩いていた。そばにはメイドが二人おり、三人とも楽しそうに声を上げて笑っている。
バルドリックは、とっさに生垣の影へと隠れた。
幸い、彼女達もこちらには気付いていない。
「うちのバラは本当に見事ね」
「エレオノーラ様、先日もバラ園に行かれましたでしょう?」
「ええ。あの庭園もすばらしかったわ」
「バルドリック様とはどのようなお話をされたのです?」
「楽しかったですか?」
「そうね……」
そこでエレオノーラは不自然にも黙り込んでしまった。
長い沈黙。
バルドリックは影に隠れ、それに続く言葉を待った。盗み聞きなどいけないことだと分かりつつも、あの日のことを彼女がどう思っていたのか知りたかった。楽しかったか、などと聞かれたら、彼女は――
「……正直、こうしてあなた達と話していた方が楽しいわ。とっても楽だもの」
その瞬間、バルドリックは雷に打たれたような衝撃に襲われた。初めて知った彼女の本音に、思いがけずバルドリックの胸は抉られる。
楽しくなかった。メイドといた方が楽しい。
いたたまれなくなったバルドリックは、足早にフェルモント伯爵家を後にしたのだった。
寮に戻ってから、バルドリックは部屋で塞ぎ込んだ。
しかし、その姿に同僚達が一喝する。
「お前だって同じようなことを言ってたじゃないか。つまらなかった、男といるほうがマシだって」
その通りだった。バルドリックにも身に覚えがあった。だからエレオノーラの言っていることはよく分かるのだ。
バルドリックだって、話の合わない相手より、気を遣わない仲間といたほうが楽しいし気も楽だった。その気持ちは今だって変わらない。
しかし彼女は会う度にいつもニコニコと笑っていたから、そんなふうに感じていたなんて微塵も思わなかった。
わざわざ練習場まで会いに来てくれていたから、数回会っただけの自分を特別扱いしてくれていたから、バルドリックはいつの間にか思い上がってしまっていた。
彼女の本心に、まさかこんなにもショックを受けてしまうとは――
次の日の鍛錬には、いつも以上に力が入った。
余計な負の感情を振り払うかのごとく、バルドリックはただひたすら剣を振るった。
あんなことで動揺するなど、ガラじゃない。もともと女なんて要らないと、そう言っていたのは自分じゃないか。バルドリックには騎士の道がある。こうして鍛錬に明け暮れていれば、エレオノーラのことなどどうでもよくなる。
そう思っていたのに、バルドリックの剣はいとも簡単に振り落とされ、脇腹に重い一撃を打ち込まれてしまった。
倒れ込むバルドリックに、同僚は深いため息をつく。
「お前、今日はもう帰れ」
「え?」
「まったく、散漫過ぎて話にならない。もし招集がかかっても、今のお前ではまったく役に立たないよ」
「そ……そんなことはない。少し考え事をしていただけだ」
「じゃあその考え事とやらをどうにかしろ。私情を持ち込むなよ」
失われたプライドへ追い打ちをかけるように、同僚からは突き放されてしまった。
彼の言うことはもっともだ。婚約者の言葉に動揺し、我を失ってしまっている自覚はある。惨めだ。しかし今日は気持ちをコントロールできそうにない。
仕方なく寮へ向かって歩いていると、不意にバルドリックを呼び止める声がした。
まさかと思い、失意のなか振り返ると――
「バルドリック様!」
そこにいたのはエレオノーラだった。どうやら今日も練習場に来ていたらしい。
薄い水色のワンピースに、いつも通りの細い靴。そんな出で立ちで、彼女は懸命にバルドリックを追いかけてきていた。
「エレオノーラ嬢……」
「あの、どうされたのですか? もしかして体調が優れませんか。でしたら医師に――」
「あなたには関係ないでしょう。来ないでもらえますか」
心配してくれるエレオノーラ相手に、自分でも驚くほど冷たい言葉が飛び出した。
思わず口を抑えるが、もう取り返しがつかない。どうしようもない大馬鹿者だ。
気まずさのあまり束の間の沈黙が流れた後、エレオノーラが口を開いた。
「……もしかして、昨日うちへいらっしゃいましたか」
思わずピクリと反応してしまったが、バルドリックは答えられなかった。
それでも彼女は話を続ける。
「庭園で、誰かの足音が聞こえたのです。後ろ姿がバルドリック様のように見えたのですが、まさか……とも思って……でも確信いたしました。声もかけずに帰られましたし、今日のご様子。あの話を聞いてしまわれたのでしょう?」
悲しげな顔をしたエレオノーラが、ぎゅっとワンピースを握りしめる。
そして黙り込んだままのバルドリックに、「ごめんなさい」と小さな声で頭を下げた。
「バルドリック様……この婚約は、無かったことにしませんか」
「え?」
「わたくし、あのようなことを聞かせてしまって……もうバルドリック様に弁解のしようもありません」
(婚約を、無かったことに?)
エレオノーラからの言葉に、しばし思考が停止した。
それは当初、バルドリックが望んでいたことだった。女なんかいらない。あちらから、婿入りの話を解消して欲しい。ずっとそう思っていたはずだったのに。
実際にエレオノーラから話を切り出されたバルドリックは、カッと頭が熱くなった。冷静にならなければろくな事にならないと分かっているが、口が勝手に動いて止まらない。
「そうですね。俺達の相性は良くないらしい。それがいいかもしれません」
売り言葉に買い言葉で、バルドリックは応じてしまった。
悲しそうに瞳を閉じたエレオノーラは一度だけコクリと頷くと、こちらに背を向けて歩き出したのだった。
「婚約を解消した!?」
「ああ」
その数日後。以前の生活に戻ったバルドリックであったが、最近エレオノーラの姿を見かけないことに同僚達も気付き始めた。
「喧嘩でもしたのか」とやたら心配するので事情を話すと、同僚は口を開けたまま言葉をなくしてしまった。
「これで元通りだ。短い間だったが、皆には心配かけたな」
「いや……でもどうして」
「エレオノーラも、俺とは合わないと思っていたらしい。向こうから切り出された。無かったことにしましょうと」
そう言いながらも、バルドリックはあの日からずっとエレオノーラのことを引きずってしまっている。
元通りなど大嘘だ。
もっとエレオノーラを気遣えたなら、こんなことにはならなかっただろうか。自分に気の利いた会話ができたなら、彼女を楽しませられただろうか。
毎日のように深く後悔しても、今さら元には戻れなかった。バルドリックではエレオノーラの相手になれなかった。その事実が残っただけ。
ただし同僚達に心配させたいわけではない。なるべく元通りを装っているつもりだ。ボロが出ないうちに、この話題は終わらせたかった。過去のものとして、できるだけ早く――皆が忘れてくれるくらいに。
「だが意外だな。エレオノーラ嬢はお前に惚れていたと思っていたのに」
「は?」
「以前、彼女に馴れ初めを聞いたことがあっただろう。その時は『一世一代の我儘を言って、婿入りを申し込んだ』と言っていたが」
「俺との婚約が我儘……?」
バルドリックは耳を疑った。だって初耳だったのだ。そんなことは父からもエレオノーラからも聞いていない。
そういえば、この婿入りがどのように決まったのかもバルドリックには伝えられていなかった。まさか、エレオノーラが望んでくれていたなんて、そんなはずは――
しかし、信じられない気持ちより期待が勝る。
真実を知るために、バルドリックはフェルモント伯爵家へと馬を走らせた。
◇◇◇
エレオノーラがバルドリックと出会ったのは、一年前。街の収穫祭での出来事だった。
あの日は広場でワインが振る舞われ、酔っ払う者も多かった。
そのうち男同士が小競り合いになり、反応の遅いエレオノーラはその諍いに巻き込まれてしまったのだ。
『大丈夫ですか』
酔った男に突き飛ばされ、倒れ込んだエレオノーラ。そんな彼女に手を差し伸べたのが、たまたま居合わせた黒髪の騎士――バルドリックその人だった。
彼はエレオノーラを軽々と立ち上がらせたあと、一人きりで酔っ払い達の揉め事を収め、広場に祭りの活気を取り戻した。そして人々に恩を売ることもなく、涼しい顔をして去っていったのである。
その姿はまるでエレオノーラの理想を体現しているかのようだった。あの日から、バルドリックのことは一日も忘れたことがない。
親から『そろそろ婚約を』と言われた時も、エレオノーラは諦めきれなかった。どうしてもバルドリックに会いたいと、その一心で親に縁談を頼み込んだのだ。
あんな風に我儘を通したのは生まれて初めてのことで、これは一生に一度の恋だと、そう思っていたのに――
「私が馬鹿なせいで、終わってしまったわ」
「エレオノーラ様……」
あの日から、エレオノーラは泣き暮らしている。部屋にこもったまま、己の未来を嘆いている。
場の空気に耐えきれず『無かったことにしませんか』と言ってしまった自分のせいなのだけれど。
もっと彼に縋りつけばよかったのだろうか。しかしあんなにも迷惑そうな顔をされてまで、引き止めることは出来なかった。限界を感じたのだ。
実際に婚約者となったバルドリックは、エレオノーラの理想通りの男ではなかった。
愛想は悪いし、人の話は聞かないし、こちらに何の興味も無い。けれど度々『大丈夫ですか』と振り返ってくれる優しさが、エレオノーラの心を救っていった。
彼のことを少しずつでも知っていけたら……そう思い、練習場にも足繁く通った。仲間同士で屈託なく笑う姿も、汗を拭うことなく剣を振るう姿も、エレオノーラの想いを募らせた。
けれど――彼の気持ちを手に入れるためにはどうしたら良かったのか、それだけが最後まで分からなかった。
エレオノーラは、ずっと女性に囲まれて生きてきた。
普段はほとんど屋敷から出ることがなく、付き合いのある友人といえば令嬢ばかり。屋敷では優しいメイド達と楽しい時間を過ごし、唯一知る男性といったら優しく甘い父親だけ。
そんなだから、素っ気ないバルドリックを前にしてどうしていいのか分からなくなった。
彼が退屈そうにしていたのは知っているけれど、いくらペラペラと喋っても、話題を振っても、エレオノーラには彼を楽しませることが出来なかった。
エレオノーラだって、楽しむ余裕などなかった。心臓が飛び出てしまうくらいの緊張を悟られまいと、必死に押さえ込んでいたのだから。とてもじゃないけれど、メイド達相手と同じように話せるわけがない。
まさか、その本心を聞かれてしまうなんて思いもしなかったけれど。
「時間を巻き戻すことは出来ないかしら……」
「エレオノーラ様、今からでも遅くありませんわ。もう一度バルドリック様にお会いしましょう」
「無理よ。彼にも『相性が良くない』って言われてしまったもの」
「でも……」
悲しみに暮れていたその時、廊下の向こうからバタバタと走る音がした。
と思ったら、血相を変えたメイドがエレオノーラの部屋へ飛び込んできたではないか。
「ど……どうしたの? なにごと?」
「エレオノーラ様! た、大変です」
「何かあったの……?!」
「バルドリック様がいらっしゃいました!」
エレオノーラは思考が停止した。
と同時に、涙もピタリと止んだ。
あまりにも驚いてしまって。
「な、なぜ……!?」
「分かりません……でもあの方は確かにバルドリック様でございます。エレオノーラ様とお話がしたいと仰っていて」
「私と話? 何の……」
「とりあえずエレオノーラ様はお支度をいたしましょう! お待たせしてはいけませんので!」
バルドリックが、会いに来てくれている。
なぜ、どうして。
気持ちの整理がつかないまま、メイド達の手によって身ぐるみを剥がされ、化粧を施され、髪を結われ……完成に近づくにつれ、エレオノーラは逃げ出したくなってきた。
「みんな待って! だめよ……私どんな顔してお会いすればいいの」
「どんな顔って、そのままのエレオノーラ様でよろしいのですよ」
「そんなこと言われても」
「どうか悔いのないよう、言いたいことはご本人にお伝えくださいませ」
メイド達によって手早く整えられたエレオノーラは、まるで先程までとは別人のように美しく仕上げられた。
ここまでされては仕方が無いと、恐る恐る庭園を覗き込む。そこには、本当にバルドリックが佇んでいた。
「バルドリック様……」
こちらを振り返った彼は、髪は乱れ、服も騎士団の練習着のままだった。
バラの庭園では浮いてしまうようなその姿が、エレオノーラは恋しくてたまらなかった。顔を見るだけで胸がいっぱいになり、涙が出そうになってくる。
しかし、バルドリックはどこが思い詰めたような顔をしていて。これからなにを言われるのだろうと、エレオノーラは思わず身構えた。
「……突然お邪魔してすみません」
「な、何の用ですか? 私、またなにかしましたか」
「違います。同僚から馴れ初めの話を聞いて……あなたの口から聞きたくて来たのです、なぜ俺を選んでくれたのか」
バルドリックは真剣な面持ちのまま、一歩一歩、エレオノーラへと距離を詰めた。
初めてだ。バルドリックが自分のことを知ろうとしてくれるのは。嘘みたいな展開に、否応にも胸が早鐘を打つ。
「……盗み聞きしてしまったことも謝りたかった。正直に言うと、俺はエレオノーラ嬢の本心にショックを受けていました。ずっと笑ってくれていたから、俺はあなたに甘えていたのだと思います」
「そんな、甘えていただなんて……」
「あなたにあんなことを言わせてしまうほど、俺の振る舞いは自分勝手だった。本当に申し訳ないことをした」
そう言って頭を下げるバルドリックに、エレオノーラは思わず駆け寄った。
「ち、違います!」
「エレオノーラ嬢……?」
「ドキドキしてしまって、緊張して、何を話していいのかも分からなくて……好きだから、とても楽しめる余裕はなかったのです」
「す、好き? 俺が?!」
「一目惚れだったのです……」
全部言ってしまった。
恐る恐るバルドリックを見上げると、彼は真っ赤な顔をして目を瞬かせている。
「……もし許されるなら、今からでもやり直せますか」
「えっ」
「少しずつ、あなたのことを分かっていけたら嬉しい」
不器用な彼が、エレオノーラの手に触れる。
夢のような時間に、息をすることも忘れてしまった。
まさか、この想いを受け入れてもらえるなんて思わなかった。彼の必死な顔を見ていると、こちらの顔まで赤くのぼせ上がっていく。今にも沸騰してしまいそうだ。
「……まだ俺でよければ、の話なのですが」
「あ、当たり前です! 私はバルドリック様がいいのです」
「そ、そうですか」
エレオノーラとバルドリックは、互いに頬を染めたまま目を合わせる。なんとなくバツが悪くて、どちらともなく笑みがこぼれた。
「バルドリック様、わたくしに引いていませんか」
「いえ、俺も嬉しいです……」
今朝までの重苦しい気持ちが、嘘のように晴れ渡っていく。
想いを伝え合い、二人はやっと婚約者同士になれた気がした。
◇◇◇
ひと月後。
「バルドリック、見たぞ」
「なんだよ」
「お前、エレオノーラ嬢と手を繋いでいただろう」
練習場で、バルドリックはいつものようにからかわれていた。街でエレオノーラと歩いていたところを、同僚に目撃されていたようなのだ。
街でも相変わらず華奢な靴を履いていたエレオノーラに、バルドリックは手を差し出した。すると彼女は嬉しそうに微笑んで、そんなエレオノーラがたまらなく愛らしかったからそのまま手を繋いで町を歩いたのだ。
バルドリックはひとつ学んだ。転けるのではないかとハラハラするくらいなら、自分が支えていれば良いのだと。
「婚約者なんだから、手ぐらい繋ぐだろう」
「あーあ、お前は変わっちまったよ」
「女なんて要らないとか言ってたお前が懐かしいよ」
以前はバルドリックの態度を非難していた同僚達が、今度は口を揃えて「変わってしまった」と口々にボヤく。
彼らの変わり様には呆れてものも言えない。しかしバルドリック自身、この変化には言葉に出来ないほどの充足感があった。
「俺は変われたのか」
「変わり過ぎだ。裏切り者め」
バルドリックは確かに変わった。
愛しい婚約者のことならば、どんな話でも聞きたいと思うようになった。二人で行くなら、どんな場所でも楽しいと思えた。
そんな彼の指には、エレオノーラと揃いの指輪が光る。
「婚約指輪なんてしてるんじゃ、もうこの婚約は無かったことに出来ねえな」
「もう無かったことになど、するつもりはないが」
きっぱりと言い切るバルドリックに、同僚達は肩をすくめて笑ったのだった。
【おわり】
最後までお読み下さりありがとうございました!