恋愛禁止の聖女なんて絶対に嫌です!
百年に一度、天界から舞い降りてこられる、この大陸を作り上げた神、サミュエル様。
村娘から貴族の娘まで。身分差を関係なしに、国中から少女たちが集められた。
この日、この国の聖女が決まる。
神、サミュエル様は音も立てずに、ゆるやかに歩いていた。
長く流れる銀の髪は月光のように淡く輝き、まるで現世のものとは思えないほど美しい。
彼はひとりひとりの少女の前を通り過ぎるたび、じっとその姿を見下ろし、そして何も言わずに次へと進む。
目を伏せて、ただ震えながら祈る者。
期待に胸を躍らせている者。
誰もが息を呑み、聖女に選ばれることを願っていた。
——だが、私はちがった。
(お願いします。どうか……どうか選ばれないで……!)
目を強く閉じて、胸の内で必死に祈る。
私、フリル・ローディエンスは聖女になど、死んでもなりたくなかった。
聖なる神殿でこんな思いを抱くこと自体が、きっと罪なのだとわかっている。
選ばれることは名誉であり、奇跡であり、祝福なのだから。
それでも、どうしても嫌だった。
私には、心に決めた人がいるの。神の力なんていらない。ただ、あの人と共に生きていきたいだけ。だからお願いします。どうか、どうか……。
「……フッ」
空気を破るように、短く小さな笑い声が静寂の中に確かに響いた。
(今、笑ったの……?)
それまで石像のように沈黙していた神父が驚きの声をあげた。
「笑顔……? さ、サミュエル様が微笑まれた……!」
神父はまるで奇跡を目の当たりにしたかのように、震える手で記録帳を開き、慌てて何かを書きつけている。
そして、サミュエル様は私の目の前でピタリと足を止めた。
長くしなやかな指がそっと私の頬に触れた。ひやりとした感触に、背筋が凍るような感覚に襲われる。
そしてそのまま、私の額に静かに唇が落とされた。
――チュッ。
神聖なる神殿に、不意に甘いリップ音が響き渡った。
荘厳な沈黙が支配する空間のなかで、それはあまりに軽やかで、場違いなほどに柔らかな音だった。
広大な大理石の間に集う巫女たちや神官たち、すべての者が一斉に息を呑む。
「そなたにしよう」
(は……?)
にやりと微笑んだサミュエル様の顔が、目の前にある。
神の言葉が空気を震わせ、彼の言葉が聞こえると同時に、眩いほどの青白い光が私の全身を包み込む。
熱くも冷たくもない、けれど何か根源にまで染み入るような力。
光が収まると同時に、神殿中に歓声が広がった。
「聖女様……! 聖女様が誕生されたぞ!」
神父の一人が叫ぶと、それに続いて他の神父たちも膝をつき、頭を垂れる。
人々の目には涙すら浮かび、歓喜と崇敬の声がこだまする。
(うそ……)
この大陸では百年に一度、神が地上へと降臨し、「聖女」を選ぶとされている。
サミュエル様に見初められた人物こそが、サミュエル様直々に神聖力を授けられ、聖女の力が与えられる。
つまり、私は今この瞬間から聖女になってしまったのだ。
そう、あんなにもなりたくなかった聖女に……。
「では、私はもう行く」
サミュエル様がふわりと宙に舞うように、背を向けた。
「サミュエル様! サミュエル様、どうかこの国をお守りください!」
「どうか祝福を! サミュエル様!」
神父たちやシスターたちが次々に声を上げ、祈るように両手を掲げる。
「ま、待ってください!!」
叫んだ私の声に、サミュエル様の足がピタリと止まる。
「どうして……どうして私なのですか?」
「せっ、聖女様! いくらなんでも失礼ではありませんか! サミュエル様がお決めになられたことですよ!」
近くの神父が、青ざめた顔で声を荒げる。
サミュエル様はふっと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。
「そなたが、綺麗だからだ」
サミュエル様は、くすりと悪戯気な笑みを浮かべて笑う。
そしてそのまま、青白い光の中にすうっと溶けていくように、姿を消した。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
神より力を授けられた者として、私はこれから「聖女」として生きていかねばならない。
その運命を拒むことは、決して許されない。
神殿に住むことが決まった私は、一度荷造りや準備のために実家であるローディエンス伯爵邸に戻された。
神殿に迎え入れられる日が正式に定まり、私はわずかな猶予を与えられた。
荷造りと心の整理——そのための、たった十日間。それが過ぎれば、私は神殿という閉ざされた場所で、二度と自由を持つことは叶わないだろう。
「一体、どんな小細工をしたの?」
玄関の扉をくぐって間もなく、出迎えの言葉すらないまま鋭い声が飛んできた。
「……あのねエリアナ、私はなにも――」
「嘘よ! そうじゃなきゃアンタが聖女に選ばれるはずがないでしょ?!」
真っ赤な瞳が、憎悪に染まって細く歪む。
私の妹、エリアナ・ローディエンス。
彼女もまた、つい先ほどまで私と同じように神殿で跪き、神に選ばれるのを待っていた。「見ていて、お母様、お父様。きっと私が聖女になるから!」そう、誇らしげに声を上げていた彼女は結局選ばれることはなく、代わりに望んだ覚えすらない私が聖女として呼ばれてしまった。
それがずいぶんと気にくわないらしく、いつも以上に機嫌が悪いように見えた。
ローディエンス伯爵家の当主、ローディエンス伯爵にとって最愛の娘。
彼女は、何もかもを当然のように与えられて育ってきた。だからこそ自分ではなく私が聖女に選ばれたことが気に食わないのだろう。
「何してるんだ、エリアナ!」
重厚な声が響いたかと思うと、父が勢いよく駆け寄ってきた。
「あっ! お父様ぁ! フリルお姉さまがまた私を虐めて……」
いつものように甘えた声を作り、潤んだ瞳で助けを乞うエリアナ。
しかし、その芝居がかった訴えを父は一喝で断ち切った。
「この、バカ娘めが……!」
——パチンッ。
乾いた音が伯爵邸の玄関に響き渡る。
その瞬間、エリアナの身体がびくりと震え、両手で頬を押さえてその場に崩れ落ちた。
「……え?」
呆然とした声が、かすかに漏れた。
見上げるその瞳は、恐怖とも混乱ともつかぬ色を浮かべ、父の顔をただ信じられないものを見るように見つめていた。
「お、おとうさま……どうして……?」
目を大きく見開いたまま、震える唇からやっと言葉が零れる。
そんなエリアナを冷たい瞳で見下ろした父は、「フンッ」と何とも不愉快そうな声を零した後、こちらに振り返り、まるで別人のように表情を変えて私に満面の笑みを向けた。
「よくぞ、よくぞやってくれた……我が愛しき娘よ!」
ぐっと両肩を掴まれ、予想外の言葉に思わず息を呑む。
その顔は喜びに満ち、頬がこぼれ落ちそうなほどに綻んでいた。
「伯爵さま……?」
「そんなによそよそしい呼び方をするな。昔のように、お父様と呼んでおくれ!」
よそよそしい呼び方をするな? あなたがそう私に指示をしたのではないか。
エリアナがこの家に来たばかりの頃、実の娘の私よりも平民の娘を愛し、娘だと認めた日から。
私に『父』と呼ばせることを毛嫌いし、『伯爵さま』と呼べと。
——エリアナと私は、母親が違った。それどころか、父親すらも違う。
私の母は、私を産んですぐに命を落とした。
記憶こそないけれど、母は侯爵家の末娘で、優雅で気品に満ちた女性だったと後に人づてに聞いた。
父は、愛情や温もりといったものは一切与えられることはなかったが、伯爵令嬢として外聞を守るだけの衣服と住まいなど、必要最低限の暮らしを与えてくれた。
そして、私が10歳のとき。エリアナがこの家にやってきた。
お父様が連れてきた女性、現在の伯爵夫人は、元は娼婦として働いていた女性だという。エリアナは彼女の連れ子だった。
母の実家である侯爵家は、娘の次に迎える妻が娼婦の女だとはバカにしているのかとひどく怒ったそうだが、夫人にゾッコンだった父は周囲の反対を顧みず、彼女を正妻として迎え入れた。
父は、夫人によく似たエリアナを溺れるように可愛がった。
それに反して、私は父に叱られる機会が確実に増えていった。
エリアナが私を嫌っていたからだ。
エリアナは、自身の身体に貴族の血が流れていないことをとても気にしており、純血の貴族の血が流れている私を妬み、恨んだ。
その結果、エリアナはいつも父に私の悪口を吹き込んだ。
目が合った、少し無愛想だった、それだけで「お姉様に睨まれたの」「虐められているの」と嘘を並べ立てた。
父はそれを疑いもせず、鵜呑みにした。
私は何度も叱責され、罰を与えられた。
涙を流して必死に許しを懇願する私を、父の背後に隠れ、笑顔で見下ろしたエリアナの顔を、私は一生忘れることはないだろう。
なんとも子供じみた性根の腐った子だ。
彼女は私のことを姉だと認めていないと言うが、私だって彼女を自分の妹だと認めたことはない。
貴族社会において、血統は何よりも重んじられる。
純血主義を掲げる家々にとって、平民の血が混じった者はどれほど高い地位を得ようとも、決して心から受け入れられることはない。
その事実は、貴族社会に生きる者なら誰しもが口にせずとも理解している常識だった。
ローディエンス伯爵家の血と、侯爵家の令嬢だった母の血を受け継いだ私は、社交界ではそれなりの地位についていた。
そのため、社交界でのひとときは私にとって数少ない安息の時間だった。
そこでは形式と体裁が何よりも重んじられる。周囲の目がある場所では、エリアナも私に強く出ることができない。
仮にエリアナが何かしらの挑発を試みたとしても、「娼婦の娘が何を」と、貴人たちから冷たい視線を向けられるのが関の山だったからだ。
けれど、貴族とて人間だ。理念より感情に流される者もいれば、偏見より好奇心を優先する者もいる。
エリアナの、貴族にしては珍しい無邪気さを面白がったクラーク子爵家のチェーザレ・クラークが婚約者候補としてエリアナの名を挙げたのだ。
どれだけ社交界で貴族たちにチヤホヤされても関係ない。ローディエンス伯爵家で、私の立場はどんどんなくなっていった。
「我がローディエンス伯爵家から聖女が生まれるとは! ああ、神殿から送られる寄付金がどれほどのものか、今から楽しみだ! 我が家はこれで安泰だ! さすがは、私の娘だ。よくやったフリル!」
それなのに、今になって何を言うのか……。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
数日後、聖女の誕生を祝うために皇宮では盛大なパーティーが開かれた。
もちろん、その主役である私も参加を命じられていた。
煌びやかなドレスに身を包み、華やかに着飾った貴族たちが集う広間の喧騒から離れ、私はひとり裏庭園へと足を運んだ。
「フリル」
聞き馴染みのある声が、背後から聞こえた。
「アル……!」
そこにいたのは、アルフレッド・フォン・ロスマンス。
ロスマンス帝国第一皇子であり——私の恋人。
私が、誰もが憧れる聖女になりたくなかった最大の理由。それが彼だった。
「聖女に選ばれるとは凄いじゃないか。さすがフリルだ。だけど、僕は君が聖女に選ばれると信じていたよ。だって、僕が君に惚れるんだから、サミュエル様が君を選ぶのも当然だ」
アルはサミュエル様に最も近い存在といっても過言ではない。
皇帝陛下すら凌ぐほどの神聖力を持つ彼は、この世界で“神の子”にもっとも近しい人物なのだ。
こうして抱きしめ合っている最中でも、彼からあふれ出す神聖力をこれでもかと感じていた。
「……あなたは、私が聖女に選ばれて嬉しいのですか?」
「もちろんだよ。当たり前じゃないか」
その答えに、胸の奥がずきりと痛んだ。
愛する人の笑顔を、どうしてこんなにも苦しく思わなければならないのだろう。
——聖女伝説物語。
ロスマンス帝国第三十七代目の聖女・シャルロットの物語。
神に選ばれし身でありながら、一人の男性と恋に落ちた彼女は神殿の掟を破り、彼と共に生きる道を選ぼうとした。
けれど世はそれを許さず、神もまた容赦しなかった。聖女シャルロットとその恋人は、背信の罪により、命を落としたという——
聖女となった者に恋をすることなど許されはしない。
たとえ、どれほど深く誰かを愛していたとしても。
「フリル? どうかしたのか」
手を取り、私の顔色を気遣うあなたはいつだって変わらない。
「……なんでもない。アル、あなたが嬉しいと私も嬉しいわ」
そう言いながら、私は自分の気持ちをごまかすように微笑んだ。
あなたと初めて出会ったのは、もう何年も前のこと。
エリアナが家にやってきたばかりの頃、父に些細なことで叱られ庭園の隅でひとり涙をこぼしていた、あの夜――。
『……大丈夫ですか?』
そう言って、静かに差し出された手。
その手から流れ込んだ神聖力は、私の傷ついた心の奥深くにまで届いて、まるで魔法のように痛みをやわらげてくれた。
あのとき、私はあなたに恋をしたの。
あの瞬間だけは運命が本当にあるのだと信じ切ってしまったわ。
互いに立場があって、すぐに婚約することは叶わなくても、いつか結婚を認めてもらおう。そう、二人で誓ったのに。
その未来がもう訪れないかもしれないなんて……。
子どもの頃に夢中になって読んだ『聖女伝説物語』。
あの中で語られる聖女さまは、いつだって強くて優しくて、本当に美しかった。憧れて、何度も読み返していた本。
しかし、いざ聖女さまの立場になった今。
私は、胸が張り裂けてしまいそうなほど苦しかった。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「聖女様! お会いできて光栄です!」
「サミュエル様から栄光の光を授けられ、直接神聖力を与えられたとは……なんと素敵なことでしょうか」
「私は前々から、フリル様がただならぬ素晴らしいオーラを放っていると気づいておりましたの!」
会場に足を踏み入れた瞬間、私はすぐに人に囲まれた。
「フリル!」
「……エリアナ。あなたも来ていたのね」
「なによ、私が来たらダメだって言うの? ほんと、相変わらず性格が悪いんだから」
その口ぶりと態度に、どちらが性格が悪いのかと言ってやりたい気持ちをぐっと堪える。代わりに、小さくため息を吐いてやり過ごす。
真っ赤なドレスを身に纏ったエリアナの横には、困ったように眉を下げて『すまないな』とでも言いたげな顔で、こちらにウィンクをするチェザーレの姿があった。
相変わらず、腹立たしい顔をしている男だ。
「またエリアナ嬢がフリル様に当たっていますよ」
「まあ、本当ね。でも仕方ないわ、彼女は平民の出ですもの」
「母親はあの娼婦の……父親も分からない平民が、皇宮に足を踏み入れることがあってもいいのでしょうか……」
コソコソと陰口を叩く貴婦人たちの声が耳に届く。私が聞こえているということは、それよりも近いエリアナも当然聞こえているのだろう。
エリアナはうつむき、下唇をぎゅっと噛みしめていた。
顔は羞恥と悔しさで真っ赤に染まり、震える肩がその胸の内を雄弁に物語っていた。
「……行きましょうチェザーレ」
絞り出すような声で、エリアナが隣の彼に声をかけた。
「…………」
「チェザーレ?」
「……ああ。今、行くよ」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「神聖力はもうお使いになられましたか?」
「まだ少し難しくて……体から溢れ出す強い神聖力の扱い方は、サミュエル様から直接教えられるものだと」
「まあ! サミュエル様直々に? なんと羨ましい……」
数十名の貴族たちに囲まれた私は大量に飛び交う質問に必死に答えていく。
ろくに水分も取れていない状態で話し続けたせいか、少しめまいがしてきた。
そろそろ帰ろう。こんなところにいても、アルに会えるわけでもないし。
「ごめんなさい皆さん。そろそろ私はこの辺で……」
「あっ! お待ちください聖女様!」
「もう少しお話を! 聖女様!」
少しの隙間から抜け出した私は、足早にその場を去る。
「ッ、見つけたわよフリル!」
会場を出てすぐにある階段の上から、エリアナの声が響いた。
「……エリアナ、貴女また来たの?」
「なんなのよその反応は! フリル……なんで、なんでアンタばっかり!」
叫ぶように吐き捨てて、エリアナがヒールを鳴らして階段を降りようとした瞬間、嫌な音が響いた。
カッ。
エリアナの右足のヒールが、まるで脆いガラスのようにポキリと折れたのだ。
バランスを崩した彼女の体が、一瞬重力に引き込まれるように傾く。
「キャッ!」
驚きと恐怖の混じった叫びが、彼女の口から漏れた。必死で支えを求め、視線はすぐ隣に立つチェザーレへと向かう。
「チェザーレ!」
小刻みに震える手が、彼の腕へと伸びる。
「っ、汚らわしい……」
だが、チェザーレは冷ややかな瞳でその手を見下ろしたまま、まるでそれを忌み嫌うかのように、ゆっくりと一歩後退した。
「あ……」
一瞬にして絶望に満ちた表情をしたエリアナの身体は、重力に抗うこともなく、そのまま落下していく。
「もう……!」
私は咄嗟にスッと手を差し伸べた。まだ十分に馴染んでいない、ぎこちない神聖力を集中させて──
エリアナの身体を、空中でそっと受け止めた。
「っ、あっ……」
床に激しく打ちつけられる寸前で、エリアナはふわりと宙に浮かび、目を見開いてきょとんとした表情で私を見上げている。
間に合った。
ほんの数秒でも遅れていれば、エリアナは頭を強く打ち、命を落としていたかもしれない。
私は神聖力の支えを解いて、ゆっくりとエリアナの身体を地面に下ろしてやる。
彼女は両手をついて膝を折りながら、しばらく呆然とその場に座り込んでいたが、すぐに悔しそうに唇を噛み、こちらを見上げた。
「……なに?」
問いかける私の声に、エリアナは顔をほんの一瞬だけしかめ、それからふいっと目を逸らした。
てっきり謝罪の一言くらいはあるかと思えば、「フンッ」わざとらしく鼻を鳴らして立ち上がると、エリアナはくるりと背を向け、そのまま階段を駆け上がっていった。
折れたヒールを引きずるようにしながらチェザーレのもとへと向かっていく。
「チェザーレ! どうして私の手を取ってくれなかったのよ!」
「……すまない、エリアナ。間に合わなかったんだ」
チェザーレはいつもの柔らかな微笑みを浮かべながら、少しだけ首を傾げるようにして答えた。
その表情には、罪悪感も狼狽もなかった。ただ、“仕方がなかった”という形ばかりの弁解を口にしている。
「いいえ! 確かに私の手を取れたはずよ! あの距離なら届いたはずよ、チェザーレ! それなのにどうしてよ!」
「…………」
「謝って! 今すぐ私に謝ってよおっ!」
涙を滲ませ、声を張り上げるエリアナの叫びが、広間に虚しく響いた。
彼女の細い指先が、震えながらチェザーレの袖に縋りつく。
「ねえ、チェザーレってば……っ、キャッ!」
次の瞬間、エリアナの身体がバランスを崩し、ぐらりと傾いた。
「俺に触るなッ!」
冷ややかな声と共に、チェザーレは彼女の手を乱暴に振り払った。
その表情に、一片の情も浮かんでいなかった。ただ軽蔑と嫌悪だけがあった。
「俺が本気でお前を愛したとでも? 伯爵家で、実の娘よりもお前の方が父親からの寵愛を受けていると聞いたから婚約してやったんだ。俺が、ローディエンス伯爵家の当主となるためにだ」
エリアナの瞳が見開かれる。
その場に崩れ落ちるように膝をつき、顔色がみるみる青ざめていく。
「……うそ。うそでしょ? そんなの、うそよね?」
声にならない声を漏らしながら、必死にチェザーレを見上げる。だが彼はその視線すら、煩わしげに払いのけた。
「チッ……全部が無駄になった」
「え……?」
「俺の時間も労力も何もかも。はあ……お前は本当に役立たなかったな」
嘲るような笑みを浮かべて吐き捨てる彼に、エリアナはただ首を振ることしかできなかった。
「ど、どうしてよチェザーレ……私、こんなに……!」
「平民の分際で気安く俺の名前を呼ぶな」
まるで何かが壊れたように、エリアナの表情からすべての色が消える。
希望も誇りも愛情も全て。彼女の全ては今この瞬間、粉々に砕け散ったのだ。
私はただ、その光景を無言で見つめていた。
駆け寄ることも、慰めることもできなかった。
いや——する気すら起きなかった。
形式上の“妹”。
拾われたローディエンスの名を利用し、男の関心を引こうとした彼女。
そして今、己の愚かさと執着の果てに見捨てられた哀れな少女。
これが、天罰というものなのだろうか。
私はため息ひとつつくこともなく、ただ静かに背を向ける。
跪いて涙を流す彼女に手を差し伸べることもなく、騒然とした空気の中を何事もなかったかのようにその場を後にした。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「おかえり」
玄関ホールに私の声だけが静かに響いた。
ゆったりとした夜の空気のなか、エリアナが扉をくぐる。その顔はまるで別人のように腫れぼったく、濃い涙の跡が頬にこびりついていた。ドレスの裾は泥に汚れ、乱れた髪がそのまま垂れている。
「…………」
返事はなかった。だが、私を見つめる憎しみを滲ませた目がギラリと光った。
「アンタには、私の気持ちなんてわからないわよ……」
抑えた声に怒りと悔しさが混じる。そしてそのまま、吐き捨てるように言葉が続いた。
「私がどれほど辛い思いをしていたか、分からないんでしょ! 汚れた血だと見下されて、使用人たちだって私よりアンタを待遇して——」
「……使用人がなんだっていうの?」
私は静かに言葉を差し挟んだ。冷静な声。けれど、胸の奥ではかすかな怒りが沸き立つのを感じていた。
「貴女は気に入らない使用人はすぐに解雇して、父を味方につけ、夫人と共に好き勝手やっていたじゃない」
私の言葉に、エリアナの肩がビクリと震えた。図星だったのだろう。
涙を浮かべ、無実だと必死に訴えていた使用人たちの顔が頭に浮かぶ。
私にとても優しくしてくれ、長年ローディエンスに尽くしてくれた、あの人たちを――。
「私は、ローディエンス伯爵家なんてずっと大嫌いなのよ! ここは昔から、差別主義者の多い家だったんでしょ? だからチェザーレと結婚して、こんな家を出たかったのに……!」
その言葉に、私は思わず眉をひそめた。
「……何を言っているの?」
エリアナがローディエンス家を嫌っていたのは知っている。だけどそれは、彼女が「差別されたから」ではない。
己の努力では得られないものを持つ者。つまり、私への嫉妬。それが彼女を歪ませたのだ。
しかし、そもそもの話。彼女は嫉妬心を持つことすら許されない立場なのだ。
「貴女は、自分が選べる立場じゃないことくらい、分からないの?」
私がどれほど堪えてきたかを、なにも知らないくせに。
ローディエンス伯爵家の血を、一滴も引いていない。ただの平民の娘。
娼婦の腹から生まれ、恥知らずにもこの家の敷居をまたいだ無礼な娘。
そんな小娘と私は、“姉妹”と呼ばれた。
父がボロボロの服を着た少女と娼婦を連れてきたとき、私は笑顔で貴女たちを出迎えた。
誇り高いローディエンス家の令嬢として、笑顔で歓迎してみせたの。
あのときの私の気持ちが、貴女に分かる?
「平民だからと差別された……貴女はいつもそう嘆いていたわね。だけど、一番の差別主義者は貴女自身なんじゃないの?」
エリアナの目が、見開かれる。
「貴女が見下されてる理由は、貴族だとか平民だとかそう言う話ではないわ。貴女自身の行動が、すべての元凶でしょ?」
使用人を虐げ、都合の悪いことは人のせいにし、望むものが得られなければ、喚いて投げ出す。
そんな人間が、誰から尊敬されるというのだろう。誰に愛されるというのだろう。
「アンタ……!」
怒りと羞恥が入り混じった声が、彼女の喉から漏れる。
「貴女は何か勘違いしているようだから言っておくけど――私はローディエンス伯爵家とランカスター侯爵家の血を引いているの」
私の出自、それは他人を見下すための道具ではない。
しかし、立場を弁えぬ者に対しては明確にしておくべき時もある。
「本来貴女は、私を見ることすら許されない存在なのよ」
視線を鋭く向けると、エリアナの目がわずかに揺れた。
怯え、焦り、反発、敗北感――どれでもあって、どれでもない。曖昧で浅ましい感情が彼女の顔に広がる。
「口の利き方、今一度考えなおした方がいいわよ」
はっきりとした語気で言い切ったその瞬間、エリアナの顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが見えた。
「お父様は、私を見捨てたりしない……。アンタに良い顔をしているのは今だけよ! 血なんか繋がってなくても、お父様は私を愛してくれている! 実の娘ではなく、この私を!」
エリアナの叫び声が、夜の静けさに不釣り合いに響いた。
「そう。よかったわね」
確かに私の父は、私よりも貴女を大切にしてきた。
きっとそれは、昔も今も、これからだって変わることはない。
だけど、そんなものはもうどうだっていい。
「私にはもう必要が無いものばかりね。父も、ローディエンスも。私にとって、もうどうでもいいものだから」
血縁も、家名も、父の愛も。
私にはもう、必要のないものだ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「声、まったく聞こえないんですが……?」
それから、一週間の月日が流れた。
神殿の奥底、聖女だけが神サミュエル様のお声を聞くことが出来ると言う祈祷室に通された私は、跪き、彼の言葉を聞こうと、初の聖女としての仕事に奮闘していた。
しかし、いくら待っても声が聞こえてこない。言われていた約束の時間になっても、ちっとも感じない。感じるのは足が痺れる感覚くらいだ。
神父は、聖女にはサミュエル様の気配をすぐに察知できると言っていたが……どれだけ待とうとも、何も感じない。
まさか、聖女は嫌だと思いすぎていたせいで、私は神に見放されたのだろうか。
精神力はまだ感じたままだが、それもいずれなくなったりして……。
「このままだとサミュエル様に帝国は見放されたと騒ぎになっちゃう。もしかしたら、全部私のせいだと言われるのかも……。それはまずい。は、早く出てきなさいよ! 神っ!」
「はあ……本当に無礼な子だ……」
唐突に響いた低い声に、私は反射的にぴょんっと飛び上がった。
「さ、サミュエル様! 遅いじゃないですか! 私、てっきり見捨てられたのかと……!」
焦燥と苛立ちをこらえきれず、思わず声を上げた私に対し、ふわりと現れた神――サミュエル様はどこかあきれたような声で応じた。
「なんだ、聖女になりたくないとあんなにも騒いでいたのに見捨てられたくは無いのか?」
「自分で蒔いた種なんですから責任を持ってくれということです!」
私は正座したまま、ぐっと拳を握りしめる。見捨てるなら最初から選ばないでほしかった。巻き込んだのは向こうなのに、どうして私だけがあれこれ悩まなきゃいけないのよ。
「ふむ……さっぱりわからんな。今日はただ、寝坊しただけさ」
「ハイ? ……寝坊?」
(寝坊って、神様も寝坊したりするの? というか、寝るの?)
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「次、今から百三十年前の――」
「ちょ、ちょっと休憩を……!」
「なんだ、またか?」
机に伏せるようにして声を上げた私に、呆れたようなため息を吐いたサミュエル様。
硬い椅子に座ったまま、数時間も紙に字を書き続けて、疲れないはずがない。
「もう嫌です……アルに会いたい……」
ぽろり、と堪えきれなかった涙が頬をつたって落ちていく。
元々、恋人関係は公にしていなかったから、社交界で密会をすることくらいしかできなかったが、私が聖女になってからはますます会うことが出来なくなってしまった。
「めそめそと……そなたは昔から、本当に泣き虫なのだな」
「フン。まるで私のことを昔から知っているような口ぶりですね」
涙をぬぐいながら皮肉交じりにそう返すと、サミュエル様は微かに笑んだ。
「そなたが私の子といつも居たからだろう。そなたのことは、幼いころから知っている」
「えっ、まさかずっと見ていたんですか? ……こわい」
「本当に無礼な子だ。他の者ならば、涙を流して喜んだことだろう」
「…………」
(残念ながら、私はそこまで貴方様に忠誠を誓っていません。私を聖女に選んだことは、完全に間違いだったんですよ!)
「ふむ。そんなにも寂しい思いをするのなら司祭にしたらどうだ。君に良くしてくれているだろう。私ほどではないが、中々ハンサムな顔をしている」
「神様が浮気を勧めるってどうなんですか……? それに、アルじゃなきゃ意味がありません」
思わず語気が強くなる。涙を拭う手を止めて、じろりとサミュエル様を睨みつけた。
「そういうものか?」
「そういうものです!」
不思議そうに首を傾げたサミュエル様は、「ふむ」と声をもらした。
「それより、そなたに聞きたいことがある」
「聞きたいことですか? サミュエル様が、私に?」
サミュエル様は「ああ」と返事をすると、続けて話し始めた。
「そなたはなぜ、そんなにも聖女になることを嫌がっているのだ? 民ならば、私の最も近い使いとなれることに誰もが憧れると聞いたが」
神様なのに、そんなこともご存知ないのだなんて。
思わずそう言いそうになるけれど、喉元でその言葉は止まった。
さすがにそんなことを言える勇気は持ち合わせていない。
「サミュエル様。私は、アルのことが……アルフレッド皇子殿下のことが好きなんです」
絞り出すように言うと、沈黙が落ちた。
「……私に対して恋の相談をしてくる人間は初めてだ」
ドン引き、とでも言いたげな顔でこちらを見るサミュエル様。
少しだけ呆れたような、それでいて興味深そうな声が返ってきた。その反応に思わず顔を上げると、サミュエル様は肩をすくめるような素振りで付け加えた。
「……ふむ。いや、初めてというわけでもなかったな……」
「?」
私が首を傾げると、彼はそれには答えず、淡く微笑んだ。
「なに、こっちの話だ」
サミュエル様はどこか懐かしそうな瞳で遠くを見るように呟いたが、すぐに視線を私へ戻した。
「聖女になると、結婚出来ないじゃないですか」
私の口から飛び出したのは、ずっと心に引っかかっていた不安だった。どんな神聖な使命を課せられても、それだけは、やっぱり納得できない。
「……なぜ、聖女でいると結婚できないと思うのだ?」
「昔、聖女が恋に落ちてあなたが罰を下したという物語を読んだことがあります」
記憶を辿るように私は答えた。確か、名前は――
「それは、三十七代目の聖女シャルロットのことだな。あの子はそなたと違って、真面目な良い子だった」
懐かしむように話すサミュエル様の声色はとても暖かいものだった。
「しかし、聖女シャルロットが愛したのは農民の男だった。あの子の生まれは貴族の家だったから、家がそれを許さなかったのだ。けして私が引き止めたわけではない」
「え……? そ、それでは……!」
物語で語られていた“神の罰”は、実際にはすべて間違いだったというのか。
神に背いた聖女は罰を受け、悲劇的な最期を迎えたという、あの物語の結末は真実のほんの一部でしかなかった……。
「私の子、アルフレッドはこの世界で最も私に近い子だ。その子と結婚するのなら、私の選んだ聖女くらいでないと似合わないだろう。きちんと民に尽くし、聖女として働くのだ」
黄金の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「さすれば私がそなたたちの結婚を公で認めてやろう」
「ほ、ほんとうですか……?!」
「ああ、本当だとも。私の子もそれを望んでいる」
「ありがとうございます! がんばります! なんでもします! 靴でも何でも舐めます!」
「聖女らしからぬことを言うのはやめなさい……」
嬉しさのあまり、勢い余って口から変なことが出てしまった。
サミュエル様が肩をすくめ、ため息をつく。その顔には、微かな苦笑いが浮かんでいた。
「君は、可愛い顔に似合わず捻くれた性格をしている時もあるが、正義感に満ちている」
「正義感ですか? そんなの、持ち合わせていないと思うのですが……」
思わず苦笑まじりに言い返してしまったけれど、サミュエル様はゆっくりと首を振った。
「動くべきときに動くことが出来る人間。それは、誰にだって出来ることでは無い。それが可能な人間は、とても綺麗だ」
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