今日も彼女は妖精と踊る
美恵子が『リデルの仕立て屋』を訪れてから、数日後。
ドレスが仕立て上がったと報せを送ると、マーガレットに伴われて美恵子が再び店を訪れた。
紗良が彼女に願ったことは叶えられ、美恵子の隣には彼女の夫の姿があった。
長身で均整の取れた身体つきに、言葉がなければ神経質そうにも見える端整な顔立ちの男性は、まだ若輩と言える紗良にも丁寧だった。
女性に対しては威圧的であることが多いこの国の男性には珍しい、穏やかな気質の方だというのが紗良の印象である。
「この度は、突然の注文であったにも関わらずに受けてもらえて感謝する」
「いえ、お気になさらず。素敵なご縁を頂けて何よりです」
美恵子の夫の園生氏は、突然の注文を引き受けてくれたことへの礼を口にした。
そんな園生氏に、紗良は笑顔のまま丁重に頭を下げる。
一先ず、細かい調整が必要になるかもしれないので、美恵子にドレスを試着してもらいたい。氏にも、出来栄えをどうか確認して頂きたいと。
時見とマーガレットが園生氏と歓談している間、紗良は別室にて美恵子がドレスを纏う手伝いをすることになった。
ドレスを目にして見惚れて動きを止めてしまった彼女に、手際よく着付けていく。
ささやかな衣擦れの音が続いて、硝子窓から差し込む陽射し絹地が煌めいて。裾には刺繍された『花畑』が、そよ風に吹かれたように揺れる。
「本当に、わたくしがこのような素敵なドレスを……?」
「これは、奥様の為のドレスです。……奥様の為の、花です」
紗良の手により典型的な和の装いであった自身が西洋の装いに変わっていくのを呆然と見つめていた美恵子は、鏡に映る自分を見て目を見張る。
信じられない、と言った様子で言葉を失ってしまった美恵子の瞳には、隠しきれない喜びがある。
興奮してはいけないと自分を戒めようとしているけれど、感激が抑えきれない様子でいる美恵子の手をとり、ゆっくりと気遣いながら部屋外にて待つ彼女の夫の元へ導いた。
園生氏も、彼と話していたマーガレットたちも、仕立てあがったドレスを纏う美恵子を見て言葉を失った。
美恵子が身を包むのは、彼女の体に対して寸分の狂いもなく仕立てられた夜会服。
裾にゆくにつれて濃淡を描く布地を贅沢に使いたっぷりとした襞を寄せて。随所には花を象ったレエス飾りが施されている。
胸元や各所には、派手にならぬように留意しつつ刺繍の施されたリボンが留められていて。
そして絞られた腰元から膨らみを見せ、そこから流れるように広がる裳裾には紫の色糸にて紡がれた数多の桔梗。夫が、妻の為にと願った意匠の花。
一つ一つの花の花芯に虹の輝き宿した彼女の思い出の花は、花畑の趣きで美恵子を彩り、咲き誇っている。
「素敵……! とても似合っているわ、美恵子様……!」
最初に我に返ったのはマーガレットだった。
彼女は歓声をあげて小さく手を叩きながら、美恵子を褒め称える。
時見もそれを見て微笑みながら、頷いた。
素直な称賛の言葉にはにかむように微笑んでいた美恵子だったが、やや不安そうに表情が陰る。
夫である園生氏が目を見開いたまま、言葉を失ってしまったままであるからだ。
紗良から見て彼の表情には失望などの負の感情は見られない。
むしろ、何かの感慨めいた違う感情が見える。
けれど、日頃の罪の意識故に不安が先だつ美恵子はそれに気づけないようだ。
やはりわたくしなどが、と小さく美恵子が呟き俯きかけた瞬間、紗良は園生氏へ向き直り問いを口にする。
「いかがでしょうか? 旦那様が、奥様にかつて贈ると約束した桔梗と呼ぶに足りますでしょうか?」
「え……?」
紗良の言葉に、弾かれたように美恵子が戸惑いの声と共に顔をあげ。園生氏の表情に大きな驚愕が浮かぶ。
マーガレットも思わずといった様子で首を傾げているが、その傍らに立つ時見は優しい苦笑いを見せている。
園生氏は紗良の問いに愕然とした面もちで言葉も出ない様子だったが、辛うじて口を開いた。
「な、何故……」
「旦那様は、かつて奥様に世界で一番美しい桔梗を贈るとお約束されました。そのお手伝いは出来たでしょうか」
紗良は、つとめて穏やかに静かに言葉を続ける。
聞いていた美恵子が目を瞬き、何かを言おうと口を開くけれど。それは、言葉として紡がれない。
だって、その言葉は。彼女の温かな思い出の中の、優しい少年のが彼女にくれた、大切な約束であって。
目の前にいる人は、家の為に本当に想う人を妻にすることが出来ずにいる、彼女の夫であって。
二つの想いがなかなか一つに繋がらない。だって、そんなことがあるはずがない。
そんな奇跡みたいなことが、起こるはずがない……。
けれど、狼狽えたように呟き言葉を失ってしまった美恵子の夫は……一言も問われた言葉を否定していないのだ。
緩やかに、穏やかに、愛しい過去と今とが結ばれていく。
そこにあった一つの『縁』に、確かに結ばれていた一つの想いに、美恵子はついに辿り着く。
「もしや……。あの男の子は……あなた……だったのですか……?」
紫色の優しい思い出に彩られた装いに身を包む美恵子は、やがて震える声で静かに夫へとその問いを紡いだ。
揺れる眼差しを受け止めて、暫しの逡巡の後。
園生氏は真っ直ぐに妻に向き合いながら、どこか照れたような面もちで一つ静かに頷いて見せた。
見守っていた異国の少女は唖然としたまま言葉を失い、紗良と時見はやはり、と納得した風に目を伏せる。
かつて桔梗の花畑にて出会っていた少女と少年は、時を経て妻と夫としてここに立っている。
問いに肯定が返っても未だ信じ切れていない様子の美恵子は、黙したままの夫へと重ねて問う。
「どうして、教えて下さらなかったのですか。再びお会いできた時にでも、教えて下されば……」
「……桔梗を台無しにさせたのは父で、原因は私だった。それを思えば、名乗りでることなどできなくて……」
震える声での問いに返ったのは、苦々しい声で紡がれた言葉だった。
園生氏の表情には深い後悔がある。
紗良たちはただ静かに、夫婦がそれぞれに抱いてきた過去と想いを言葉として交わすのを見守るのみだ。
園生氏は、一度深い溜息を吐いたのちに続けた。
「お前に会いたくて稽古を抜け出しているのが知られてしまって。見せしめに、父があの花畑を駄目にするように命じたんだ……」
少年は厳しい稽古に嫌気がさして抜け出した先で、桔梗の花畑と、そこで遊ぶ愛らしい少女を見つけた。
厳格な父の元で跡取りとして息のつまる生活をしていた彼にとって、少女と過ごす時間はようやく息ができた心地がしたという。
そして、少女に会いたくて度々稽古を抜け出すようになる。
だが、それは程なく父に知られ。激怒した父親は、彼への見せしめとして花畑を潰させたのだという。
彼が駆け付けた時には、既に手遅れだった。
息を切らせて辿り着いた先にあったのは、無惨な姿を晒す花々と、泣き続ける少女の姿。
花畑での邂逅を楽しみにしていた少女が哀しみに泣くのが我慢できず、約束を交わした。
けれど、それ以来会う事は叶わなくなり。約束も時の彼方に消えてしまうのかと哀しく思っていた。
いずれは家の為に妻を迎えることはわかっていても、あの花畑で笑う少女ことをいつまでも忘れられずにいた。
縁は彼らを結びつける。
知人が家の為にと持ち込んだ商家との縁談。妻となる相手を見た瞬間、彼は彼女だと気付いた。
何と言う数奇な縁の巡りだろうと喜んだのも束の間、彼女が大切に想っていた花畑が消えることとなった原因が自分にあることを思い出す。
だから言えなかった。
再会できたことをどれほど喜んでいても。彼女を妻と出来ることをどれほど幸せに思っていても、
自分達を結ぶ思い出のことを、どうしても伝えられなかった。
彼女を想っていたと。そして、彼女を想っていると……。
「だからドレスを贈るなら。せめて、お前が好きだった桔梗の花を意匠にしたいと……」
口元を隠すように覆う手の隙間からは、紅潮した頬が垣間見える。
気まずそうに俯き加減に顔を逸らす夫を、美恵子はやや暫し目を見張ったまま見つめ、何も言えずに居た。
だが、不意に落ちた煌めきの雫が一つ、陽光を弾いて輝く。
園生氏が驚いて弾かれたように顔をあげて見つめた先、美恵子の両の瞳からは透明な雫が頬を伝い、落ちていく。
不安に震える少年のような表情だった園生氏の耳に届いたのは、妻の想いの籠った言葉だった。
「これは、本当に……。本当に……世界で一番美しい桔梗でございます……!」
美恵子の声に、瞳にあるのは、溢れんばかりの喜びだった。
彼女を苛み続けた罪の意識も哀しみも、もうそこにはない。
妻の笑顔にあるのはただ一途に夫を想う心だけ。
数奇な巡りを経て果たされた約束と、結ばれた心に、溢れる喜びは涙となって止まることなく。
夫は、そんな妻に静かに寄り添い、優しくその涙を拭った――。
暫し後、店を訪れたマーガレットは紗良に語った。
夜会に妻を伴い現れた園生氏と妻は、人々の話題をさらったという。
どうやら、園生氏が家の事情で商家出身の妻を娶ったことを揶揄する人々は少なからずいたらしい。
だが、妻と共に現れた園生氏の表情にある溢れるような慈しみと、桔梗を意匠とするドレスを纏う夫人の美しさに、悪意ある声をあげられるものはいなかった。
寄り添う二人に、人々は次々に話しかけ。
殊に婦人方は何故に桔梗のお花を、と問いかけたらしい。
二人は視線を交わしあうと、微笑みながら答えたという。
約束だからです、と……。
「やっぱり、紗良のドレスは凄いわ。必ず、何かを結び付けてくれるのだもの」
「買いかぶり過ぎですよ。私は、ドレスを仕立てているだけです。それに、あのお二人には元から確かな繋がりがあったから」
一通り語り終えたマーガレットは、のどを潤す為に茶を一口飲むと、感心した風に呟いた。
紗良は首を緩く左右に振りつついうものの、マーガレットはさらに続ける。
「人と人のつながりだったり。人とものの繋がりだったり。こういうの、日本では『えにし』というのよね」
マーガレットの言葉に、紗良は静かに頷いて見せた。
父から教えられたことがたる。
全てのものには『えにし』がある。人と人、人ともの、様々なものは結ばれ、繋がるのだと。
父が母と出会い結ばれたように。きっといつか、紗良にも様々な『えにし』が結ばれるだろうと。
既に結ばれたイースデイル氏やマーガレットたちとの縁、お客との縁、そしてこれから結ばれるであろうまだ見ぬ縁。
それらに思いを馳せていた紗良に、マーガレットは楽しそうに笑った。
「なら、紗良のドレスは『えにし』を結ぶのね」
輝くような笑みを見せていう少女に、紗良は少しだけ照れた風は表情を見せた……。
横濱の居留地にある、二つの国の血を引く女性が営むリデルの『仕立て屋』。
今日も若い女主人が針にて願いを紡ぎ、妖精たちは彼女と共に踊り。
仕立てられた美しい衣装は、祈りと共に『えにし』を紡ぐ――。