優しい思い出と『約束』
数日後、マーガレットは一人の女性を伴って『リデルの仕立て屋』を訪れた。
紗良より少し年上に見える女性は、園生美恵子と名乗った。
元は大きな商家の娘であり、御一新での功績により華族に序されることとなった名家の当主の元に、先年嫁いだばかりであるという。
楚々とした美しい女性であり、控えめな笑みが感じの良い人物だった。
紗良は会話を交えながら採寸をさせてもらい、今までのデザイン画を並べながら美恵子の好みを聞き出そうとする。
だが、美恵子は少し恐縮したようにいうのだ。旦那様のいいように、とだけ。
自分の望みを口にすることをひどく躊躇っている様子である。
桔梗をドレスの意匠とすることも、何故と問うこともなくすんなりと受け入れた。
あまりにあっさりと受け入れられたが為に、それが彼女の夫の注文だと何故か言い出しにくい空気になってしまった。
紗良は少しばかり美恵子の様子に引っかかるものがあった。
居留地に住まう西洋の夫人たちと接することも、洋装をするようになった日本の夫人たちと接することもあるからこそ思う。
確かに、この国の女性は奥ゆかしく控えめであることが多い。
だが、この美恵子という女性はそれだけではない。何処か、自分の現在の在り方に罪悪感を覚えているような気がするのだ。
ドレスを誂えるために訪れた日本の女性達は、一つずつ問いを重ねていくと、少し恥じらいながらでも己の意志を伝えてくれた。
けれど美恵子は何かにつけてこういうのだ。私が何かを望むなど旦那様に申し訳がない、と……。
「どうして、申し訳ないのかしら」
ついには、マーガレットが問いかけてしまう。
紗良や傍に控えていた時見は、マーガレットの直球な質問に思わず笑みを浮かべたまま凍り付いてしまった。
この少女は社交の場ではそれなりに駆け引きを出来るはずなのに、こういう時には率直に過ぎることがある。
だが、紗良としても気にはなっていた。
何故美恵子は、罪の意識を覚え、悩みを抱えているのかと。
一瞬目を瞬いて言葉を失っていた美恵子だったが、やがて寂しそうな笑みを浮かべると語り始めた。
彼女が嫁いだ後に知ってしまった、とある事実について……。
「家の取り決めで嫁ぐことになりましたが、旦那様にとっては不本意な事だったようです」
彼女が夫の元に嫁ぐことになったのは、家同士の取り決めだった。それについては、左程珍しい事ではない。むしろ、それが普通である。
長く続いた伝統ある商家であるとはいえ、商人の娘が名家に嫁いだ理由は、即ち金である。
華族と叙されたはいいものの続いた動乱故に資金繰りはそう捗々しくなく、それを支える為に縁組は為された。
所詮金の為という口さがない人々もあったが、夫となった人は彼女に優しく、美恵子は安堵したという。
だが。
「使用人達が話していたのを聞いてしまったのです。旦那様には、長らく想う方がいらっしゃると。本当はその方を迎えたかったのに、と……」
美恵子が俯きながら口にした言葉に、紗良とマーガレットは思わず絶句してしまう。
つまり、彼女の夫には本来想う相手が他に居て。けれども、家の為にその女性を妻にすることを諦めて結婚したということだろうか。
哀しいことに、この時代、この国において結婚に個人の意志が介在しないのは珍しいことではない。
おそらく、夫もまたその例に倣ったのだろう。
しかし、それは美恵子の心を苛む枷となってしまっている。
「奥様は、それをずっと悩まれて……?」
「わたくしは、旦那様に幸せでいて頂きたいのです」
何とか振り絞るように紡いだ紗良の言葉に、返って来たのは肯定の言葉だった。
家同士の決めた結婚であっても、美恵子が夫を想っているのは疑いようもない。
だが、美恵子はそれ故に自分が今の立ち位置に疑問を抱き、自分がそこに在ることに罪の意識を感じている。
儚い笑みの中に強い芯を感じさせる若い妻は、やがて顔をあげて泣き出しそうな微笑みと共に告げた。
「旦那様が妻にと望まれるのは、その方唯一人ならば。わたくしは、離縁を申し出るべきなのではないかと思っております……」
――確かに、とても事情があった。とても、深刻に。
紗良はマーガレットに視線を向けつつ、心の中で少し呻いていた。
この店にドレスを注文しに来る女性達は、様々な思いを抱えて訪れる。
それらは大概、美しいものに対する憧れや、それをまとう喜び。まだ見ぬ世界への期待などといった明るい輝く心だった。
けれど、この女性が抱くのは哀しみと、罪の意識。ドレスを作りにきたことも、彼女の望みではなく少しでも夫の心に沿う為。
自分の存在が夫を苦しめているから、彼の言う事を少しでもと……。
それでは哀しすぎると思っても、紗良には彼女にかける言葉が見つからない。
紗良はドレスを仕立てる時には、纏う人が幸せに輝いてくれますようにと精一杯の願いをこめる。
このドレスが、その人にとって良いことを運んでくれますようにと祈りを込めながら謳い、翅持つ少女達と踊る。
だからこそ、美恵子にも叶うならば今のような哀しそうな笑みではなく、心から笑って欲しいのに……。
紗良もマーガレットも、少し離れて控える時見も何も言えぬまま。その場には、やや重い沈黙が満ちてしまう。
自分の発言が原因だと気付いた美恵子は、お耳汚しでした、と恐縮したように頭を下げる。
紗良もマーガレットも頭を左右に振りながら言葉をかけようとするが、どこかぎこちない。
そんな中、意匠の桔梗に目を向けながら、美恵子が場の空気を変えようとするようにふと話し始めた。
「桔梗には、思い出がございます」
様々な形で描かれた桔梗を目にした美恵子は、先程とは違って柔らかでどこか無邪気な笑みを浮かべている。
その笑みが心からのものだと思った紗良は、首を傾げつつ問いかけた。
「思い出ですか?」
「ええ。幼い頃ですが、遊び場には桔梗が沢山咲いていて。それは素敵な花畑で……毎年花の時期を楽しみにしていたのです」
まだ将来について考えることなくいられた頃。少女は、花が満ちる場所で無邪気に、時間の許す限り過ごしていたという。
美しい花が咲く時期を心待ちにして、花の時期にはついつい家に帰るのが遅くなってしまって怒られることもあったとか。
とても楽しく、愛しい大切な思い出であると美恵子は語った。
しかし、楽しそうだった表情が不意に陰る。
「けれど、突然桔梗は全て抜かれ、花畑は潰されてしまって……。何でも、とある名家のご当主の命令だったとか」
前日までは咲き誇っていた桔梗は、次の日訪れた時には全て無惨に抜かれて、花畑は踏みにじられていた。
どんな事情があったのかは子どもには預かり知れぬこと。確かなのは、美恵子の心のよすがだった場所がもう無くなってしまったこと。
幼い美恵子は何が起こったのか分からず、荒されてしまった大切な場所を前に、ただただ泣くしかなかった。
だが、泣き続ける彼女に差し伸べられた手があったという。
「泣いているわたくしを慰めてくれた男の子が居ました。遊び場で、いつもわたくしの遊び相手をしてくれた年上の男の子です」
紗良とマーガレットの表情に、僅かな問いが滲む。
美恵子は二人に向けて恥ずかしそうに微笑みながら、遊び場に行くのが楽しみだったもう一つの理由について触れた。
花畑では、一人の男の子が彼女と遊んでくれたのだという。
他愛ない遊びにも文句をいうことなく付き合ってくれた優しい年上の男の子に、美恵子は大層懐いていた。
彼は、潰されてしまった花畑の前で泣く美恵子の手をとって、自身も泣き出しそうなのを堪えた声で言った。
「いつか必ず、お前に世界で一番美しい桔梗を贈るからと。もう、顔も名前も思い出せない、昔のことですけれど」
幼い日の優しい思い出を、頬を染めながら語る美恵子は大層美しいと紗良は感じた。
彼女は、その男の子が初恋なのではないかと思ったけれど、それは口にできる問いではない。
今明らかにしたとしても、美恵子は既に嫁いだ身であり、あくまで過去の思い出でしかないのだ。
だが、何かが心の中にひっかかって仕方ない。それが、上手く形とならないのが酷くもどかしい。
何かがすれ違い、行き違い。本来結びついているはずのものが、捻じれてしまっているような感じを覚えるのだ。
答えはおぼろげに見えている気がするのに、辿り着けない。
そんな時、マーガレットが美恵子を慰めている間に、さりげなさを装って紗良は時見の元へ歩み寄る。
そして、少し声を潜めて囁いた。
「ご当主は、奥様を大事にしていらっしゃる。他に女性の影なんかないよ」
伊達男と言える男性の囁きに、紗良はときめくよりも先に目を見開いて言葉を失った。
何時の間に調べていたというのか。
マーガレットが美恵子と共にこの店を訪れることが決まったのもつい先だってのことだ。
この時見という男性は、妙なところで察しがいいというのか、情報が早いというのか。
しかし、彼の言葉は紗良の中に渦巻いていた疑問に一筋の道を作った。
夫を想うが故に身を引くべきか悩む妻の思い出の花。
他に女の影などなく妻を想う夫が、彼女の為のドレスの意匠にと願った花。
優しくて愛しい、温かな思い出。
「……『約束だから』……」
何時の間にか、紗良の口からはマーガレットが夫が呟いたのを聞いたという言葉が零れていた。
パズルのピースがはまっていくように、紗良の中での問いの欠片が一つずつ綺麗におさまるべきところへ収まり。
やがて、一つの答えを導き出す。
「つまり、そういう事ですか……」
迷いの霧が晴れたというように明確な表情で呟いた紗良に対して。
時見は意味ありげな笑みを浮かべたまま一つ頷いて見せた……。
その後、恙無くドレスの打ち合わせは進み、マーガレットと共に美恵子が店を辞す際に紗良は告げた。
「引き取りの際は、どうか旦那様とお二人でいらして下さいませ」
旦那様にも是非ともご覧いただきたい、という紗良に、美恵子は少しばかり不思議そうにしたものの、話してみます、と頷いた。
彼女達が去った後、裁縫箱の前にて一つ息を吐く。
仮説が真実とは限らないけれど、何故か紗良の中にはそれが確かであるという思いがある。
自分はただの仕立て屋であり、本来であればそれは不遜であるかもしれない。
けれど、かつて母がしていたように。紗良に、ドレスに思いを込めることで出来ることがあるならば。
一針一針に、ドレスを纏う人の先行きへの願いを託すことが許されるならば。
ならば、美恵子の哀しみを晴らすために。
『さあさ、一緒に踊りましょう』
不思議な響きを帯びた声で謳うように囁いて、四つ葉の指輪をした手で裁縫箱をそっと撫でる。
弾けるように蓋が開いて、中から楽しそうな翅もつ少女達が飛び出してくると、紗良の周りをくるくると飛び回った。
少女達は目の前に用意された艶やかな絹地や、それを飾るレエスやリボン、ビーズを嬉しそうに見つめながら、紗良の言葉を待っている。
「あの方が本当に幸せに笑ってくださるように。本当に大切な想いが結ばれますように」
手伝って、と妖精たちに告げる紗良の言葉を皮切りに、翅の少女達は宙に光の軌跡を描きながら、踊り始めた――。