不思議な注文
男達を丁重に居留地の外へ放り出した後、紗良は現在彼女と店が置かれている状況を説明した。
一通り語り終え沈黙した紗良を見据えながら何やら考え込んでいたイースデイル氏は、不意に孫娘がいる、と話し始める。
イースデイル氏の嫁いだ娘の子にあたるマーガレットは、祖父について異国に来たものの、部屋に閉じこもり人と会おうとしない。
氏の体面的にそのままというわけにはいかない為、挨拶の場として夜会を開くことになったという。
『君に、マーガレットのドレスを頼みたい。あの娘のお披露目に相応しいものを』
それが実質的な『試験』であると気付いた紗良は、思わず息を飲んだ。
老人は、商人である。如何に過去の縁があろうとも、益のない行動を取るほど甘い人物ではないはずだ。
後見となり店を支援してくれるというのも、無論無条件ではなかった。
紗良は、イースデイル氏が持てる力で支えるだけの価値が時分にあると、実力にて示さなければならなかった。
その試験たる題材に選ばれたのが、孫娘の日本における初めての夜会でのドレスである。
孫娘の晴れ舞台を飾るに能うものを作り出せるか、母の後継たるに相応しいことを示せるか。
けれど、固まっていてもドレスは仕立てられない。それに、どんな相手が纏うのか知らないままでも。
紗良はまず、マーガレットという少女を知ることから始めた。
今の様子からは信じがたいことだが、日本に来てまもない頃のマーガレットは人見知りだった。
来日するまでにあった出来事や彼女を取り巻く人々の事情で、すっかり人に心を許さなくなってしまっていたのだ。
なかなかに手強かった彼女の心の扉を開いたのが、紗良と妖精たち。
マーガレットはイースデイル氏の血を引くものであり、彼女もまた不思議を見る瞳を持っていた。
真摯に向き合った紗良と、可愛らしい妖精たちの存在に頑なになっていた少女の心は次第に解れ。
そして紗良の初仕事と言えるドレスは、マーガレットに新しい『縁』を結ぶ。
ドレスが切っ掛けで人の輪に溶け込んだマーガレットは、すっかり持ち前の明るさを取り戻した。
孫娘が元の明るい少女に戻ったことで大層喜んだイースデイル氏は、約束通りイースデイル商会としてドレスメイカーとしての紗良と『リデルの仕立て屋』を支援を約束してくれる。
イースデイル氏は、大層影響力の強い人物であるらしい。
祖父と朱堂家は然るべき筋に正式に抗議の申し入れをしようとしたらしい。
だが、この貿易商の老人と事を構えるならば、英国との国交にも支障を来たすことになりかねない。
逆に、無視できない筋から引き下がれと止められたということで、あの日以来紗良の周囲に朱堂家の手は及んでいない。
老人が口添えをしてくれたおかげで、母の顧客であったご婦人たちが戻ってきてくれたばかりか、新しいお客も増えてきている。
マーガレットも社交の場において紗良の仕立てたドレスを纏っては、自ら広告塔のような役割を買ってくれている。
すっかり紗良に懐いたマーガレットは、何かにつけては紗良の元を訪れるようになった――大抵の場合、何がしかの特別な事情のある注文を携えて。
少しして、紗良とマーガレット、そして時見は丸い卓子で向かい合っていた。
三人の前には芳香を漂わせる西洋の茶がある。
妖精たちは姿を隠すことなく自由に三人の周りを飛び回っている。
殊に時見に構ってもらいたがっているが驚きはしない。この男性が来たときは、妖精たちは不思議と彼を歓迎した様子を見せるから。
茶を淑やかに口にして、一息吐いたマーガレットが静かに話し始めた。
「日本ではあまり良家の奥方は公の場に姿を現さないらしいけれど、近年変わってきているじゃない?」
紗良は、無言のまま頷く。
確かに、日本において良家の夫人は文字通り奥にある存在であり、西洋のように公の場に夫と共に姿を現すことは少ない。
だが、国が開かれ急激に欧化が進む昨今、その在り方に変化が生じている。
鹿鳴館における夜会を始めとした社交の場に、夫に伴われ姿を見せる良家の奥方の数は増えつつある。
上流の方々の間では、西洋のドレスを仕立てるならば東京より横濱の方が良いとされているらしく、ご婦人方は夜会用のドレスの仕立てに横濱を訪れる。
紗良の店には、居留地の西洋人のレディ達以外に、噂を聞きつけた日本の婦人方も訪れることがあった。
「以前、その方の旦那様と夜会でお会いした時、奥様の話になったのよ」
祖父のお供で顔を出した夜会にて出会った男性は、年少のマーガレットにも紳士的に接してくれた。
日本の男性にありがちな、女性を侮る様子も、年若いものを侮る様子もなく、大層感じの良い方だったという。
その日は一人だったが、次の機会には妻を伴いたいと言っていたらしい。
「でも、奥様は普段洋装をなさらない方で、ドレスをお持ちではないみたい。それで、私のドレスについてお聞きになったの」
その日、マーガレットはいつものように紗良が仕立てたドレスを着ていた。
若草色に明るい夏の花々を刺繍したドレスは居合わせた人々にとても評判が良く、彼女はとても上機嫌だった。
暫し歓談していた男性は、少し考えた風な様子を見せた後にマーガレットに問いかけた。そのドレスは、どちらで仕立てられたのか、と……。
「それで、紗良のことを話したら。是非とも、妻のドレスを注文したいと仰って」
確かに、男性ではあまり夜会用のドレスを仕立てられる仕立て屋には馴染みがないだろう。東京ではなく横濱の居留地にある店ならば尚更だ。
おそらく、日本人の男性としてはそれなりに勇気のいる質問だったに違いない。
イースデイル氏の口添えもあり、マーガレットは紗良に話をしてみると約束した。そして、今日この場に謳る。
「宣伝をして下さるのは嬉しいですし、注文を頂けるのは有難いのですが。……何故、奥様が悩んでいらっしゃると?」
「旦那様の話によると、最近頓に暗い顔で考え込んでいるのですって」
男性の妻は、近頃思いつめた様子で俯いていることが多いという。
夫がどうしたのかと問いかけても言葉を濁すばかりで。或いは、何かを言いかけては哀しげに首を振る。
思い悩んでいることはわかるけれど、何もしてやれないことが歯がゆい様子だった、とマーガレットは溜息交じりに呟いた。
美しいドレスで少しでも気分が晴れれば、とその男性は言っていたらしい。
「イースデイル氏からも、何とか頼めないかとのことだよ」
時見が言い添えるのを聞いて、紗良は一つ息を吐いた。
手元にある予定を記した帳面を見ても断るほどに立て込んでいるわけではなく、引き受ける余裕はある。
何やら事情がありそうなのが分かるものの、差し当たり断る理由がない。それに、イースデイル氏の口添えがあるということは、更に断わる理由がない。
紗良が了承の意を口にすると、マーガレットの表情が目に見えて明るいものとなる。
新しく客となる人物の素性や連絡先について続けて情報を出しながら、少女はふと思い出した、といった様子で手を小さく叩いた。
「素材やデザインは任せたいけど、ある花をモチーフにしてほしい、と」
「花を……」
ある程度の裁量を任せてもらえるのは有難い話ではあるが、モチーフだけは決まっているとは。
少し首を傾げた紗良へと、マーガレットは少し考え込みながら花の名を口にする。
「キキョウ、と仰っていたわ」
「桔梗……?」
桔梗の名は聞いたことがあるし、見たこともある。どのような花か分かるから、それを意匠としてドレスを考えることは可能だ。
しかし、敢えて桔梗を、という理由が今一つ読めない。
思わず蒼い瞳に怪訝そうな色を宿してしまった紗良を見て、時見が僅かに苦笑する。
「まあ、確かに。着物の文様ならばともかく、ドレスの意匠としてはあまり聞かないね」
そう、桔梗は確かに美しい花であるが、ドレスの意匠とするのはあまり聞いたことがない。着物の柄などでは用いられているが。
華やかで映える花であれば他にもあるし、日本の花でということでも他に出てくるものが有る気がする。
小さく唸りつつ首を傾げてしまっている紗良を見て、マーガレットが僅かに表情を曇らせた。
「……気になったの。『約束だから』と呟かれたように聞こえて。だから桔梗が……この方にとって特別なものなのではないかって」
問いかけても、気のせいだと言葉を濁されてしまったらしいが。マーガレットは確かに、男性が約束という言葉を口にしたのを聞いたという。
桔梗を意匠としたドレスを、物思いに沈む妻へと誂えたいという男性。
どう考えても、そこには何らかの事情がありそうだ。
それに、こういう事に関してマーガレットの『勘』は良く当たるのだ。
謎の答えがさっぱり見えない紗良は、まずは本人と会うことにした。相手を知らなければ、その人の為のドレスなど仕立てられない。
マーガレットがその女性を連れて来訪することとして、細かい段取りをつけ。
その日は、お開きとなり。マーガレットは新しい自分のドレスと共に、お目付け役に付き添われて祖父のもとへと帰って行った。