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今に至る逸話たち

 紗良の脳裏には、少女と出会うまでの日々が不意に巡る。


 この店……『リデルの仕立て屋』は、元は紗良の母が始めた。

 母の名はローズマリー・リデルといい、横濱の港が開かれてから日本を訪れた異国人だった。

 父の名は朱堂すどう彰通あきみちという名の日本人の男性で、新しい時代において華族と称されるようになった名家の主であった。

 記憶にある父母は何時も仲が良くて、愛し合ってはいたけれど。二人は、正式な夫婦では無かった。

 母と出会った時、父には既に妻が居たらしい。他家との力関係により娶る事を定められた相手だったそうだ。

 少しばかりそれについては釈然としないものを感じたこともあったが、この国においては妻以外に女性が居る事は左程珍しくないという。それが、名門とされる血筋であれば尚の事。

 故に、父とは共に暮らせていたわけでない。だが、どれだけ窘められても、父は可能な限り母と紗良と共に過ごしてくれていた。

 記憶の中の父はいつも母と幸せそうに微笑み合い、優しい手で紗良を抱き上げてくれた。

 紗良が、両親の愛情を疑ったことはない。

 望まれて生まれてきたこと、愛されて育ってきたことを疑ったことはない。

 混血であることで偏見の眼差しを向けられたのは数え切れない。

 実際に、居留地の西洋人の子供達から苛められたこととてある。

 だが、それでめげてやるほど、柔な性分ではなかった。

 苛められて大人しく耐えたりせず、相応の報復をした。大抵の場合、最後に相手のほうが泣いていた。

 結果として、母に叱られるのは紗良だった。

 そればかりは、紗良は若干理不尽だと思ってしまったものである。


 父と母に愛され、幸せな子供時代を送った。

 母の仕事ぶりを間近に見ていた紗良は、母の周りに広がる不思議な世界にすっかり魅せられていた。

 柔らかな光を受ける様々な色や模様の美しい布やレース、フリルにリボン、ビーズに色々な糸という眩しい世界。

 物語の絵のように美しい世界で、妖精たちと語らいながらドレスを作る母の姿は、紗良の憧れだった。

 いつか、母のようになるのだと一生懸命に学び、技を磨いてきたのだ。その甲斐あって、刺繍の腕前はなかなかのものだと母にも褒めてもらえるまでになった。


 時は流れ、やがて紗良にも結婚の話が浮かぶようになった頃、不幸は訪れる。

 母が亡くなったのだ。居留地に流行した病に倒れ、あっという間に命を落してしまった。

 病にかかった人々を看病していたが、自身も感染してしまったのだ。

 そして、それと時をほぼ同じくして、父もまた病にて没した。

 左程重い病ではなかったはずだが、母を亡くした事が大分堪えたらしく。抗う気力が戻らぬまま、後を追うように旅立ってしまった。

 紗良は相次いで両親を失い、哀しみに沈んだ。

 時を置かずに旅だったのであれば天国ですぐに再会できただろうと思って自分を慰めてみたけれど、効果は芳しくない。

 唯一人で異国へと渡ってきた母ローズマリーには、係累と呼べる人間は居らず。

 かといって父方の親族は母と紗良を快く思っていないことは言われずとも察していた。

 天涯孤独となってしまった紗良に残されたのは、主を失った店と、裁縫箱と指輪。

 母と親交のあった人々は皆、紗良の先行きを案じてくれていた。

 紗良は、母の跡を継ぐつもりだった。

 母が守り続けてきた大切な場所が潰えてしまうのが嫌だったのだ。

 けれど、紗良が年若いことに母の顧客だったご婦人方は難色を示す。

 それも仕方ないことだった。いくら母が刺繍の腕前を褒めていたといっても、仕立ての腕は未知数。店を切り盛りしていける才覚があるか分からない。

 無理をせずに店を手放し、新しい道を探してはどうかという人も居た。

 自然と客足は遠のいて、紗良は途方に暮れる。

 如何に裁縫箱の妖精たちの手助けがあったとしても、不思議な猫たちの手助けがあったとしても、顧客からの信頼を得られないのであれば道は開けない。

 閑散とした空気が満ちる店内にて、紗良が思い悩んでいたある日の事である。

 警戒を隠さず訝しげに見る紗良の前には、慇懃無礼な様子を崩さない数人の男達の姿があった。


『朱堂家から参りました』

『は……?』


 朱堂家。聞いた事がある。

 当然である。それは、父の家の名前だから。

 同時に、父の家の人間が紗良たちを快く思っていないことなど、良く知っている。それが何の用だと、自然と紗良の蒼眼差しは険しくなる。

 態度や口調こそは丁寧だが、瞳の奥に隠しきれていない紗良への侮蔑を見せながら、男達の一人が告げた。


『大旦那様のご命令で、お嬢様をお連れせよと』


 男達の話によると、こうである。

 何でも、祖父だという人の意向で、紗良を縁組に使おうということらしい。

 外腹の子で、異国人の血を引いているので外聞はやや悪いが、父の子である事には変わらない。

 それならば、朱堂家の娘として政略の手駒として使えると判断したらしい。

 顔も見た事のない祖父は、紗良は『朱堂家のもの』だと思い込んでいる。

 冗談ではない。紗良は母の子だ。父と母の子であり、この店を継ぐものだ。断じて、朱堂家の為の駒ではない。

 当然ながら、紗良は男達の言葉を拒絶した。

 するとあろうことか、男達は力づくで紗良を連れ去ろうとしたのである。

 小柄で非力な紗良に対して、相手は男。しかも数人がかり。

 為す術もなくそのまま連れ去られかけ、悔しさに唇を噛みしめていた紗良の耳に不意に風を切るような音が届いた。

 次いで悲鳴と呻き声。そして、彼女を戒めていた腕から力が抜け、紗良は自由を取り戻す。

 一体何があったと目を瞬いてみると、そこには。


『この国の男性は、女性に対して随分と乱暴に振舞うのだな』

『全ての者がそうとは言いませんが……。恥ずかしい限りですね』


 白髪に豊かな髭を蓄えた異国の人間と思しき老紳士と、溜息と共に服についた埃を払う仕草をする洋装の男性。

 男性の足元には、呻き声をあげて。或いは意識を失って倒れる慮外者達の姿がある。

 察するに、男性が朱堂家の使い達を無力化してくれたようだ。恐らくは、老紳士の意向を受けて。

 事情がさっぱり分からずに目を見張ったまま凍り付いてしまっている紗良へと、表情を和らげながら老紳士は向き直る。


『君が、リデル先生の娘だね?』

『先生……?』


 気遣う声音で紡がれた問いに、思わず紗良は首を傾げてしまう。

 母は仕立て屋ではあったが、先生と呼ばれるようなことはなかった。

 かつては何がしかそのようなことがあったのかもしれないが、少なくとも母の口から聞いたことはない。

 抱いた疑問を隠しきれずにいる紗良へ、老紳士は己の素性を明かした。

 静かに人を圧する威厳を持つ老紳士は、マーティン・イースデイルと名乗った。

 先だって横濱に事務所を構えた英国の貿易商らしい。

 洋装の男性は彼の通訳や護衛、事業の相談役など幅広い役目を兼ねているという。名を、時見と名乗った。


『リデル先生は、イースデイル氏の家庭教師だったのだよ』

『お母様が、この方の……?』


 時見が紗良に説明してくれたけれど、紗良の顔に浮かんだ疑問の色は更に濃くなるばかり。

 だって、それはおかしいと思うから。

 イースデイル氏は、恐らく紗良から見れば祖父と同年代と言える年の頃のはずだ。その家庭教師を母が勤めていたというのは、年齢が合わない。

 紗良ごろの年の娘がいるとは思えない若々しい美しさを持っていた母が、この老紳士を教えていたとするには些か無理がある。

 この老人が自分よりかなり年下の少女に師事をした、ということなのだろうか。

 頭上に疑問符が飛んでいるのではないかという様子で自分を凝視する紗良を見て、イースデイル氏は笑った。


『あの方は、儂よりもずっと長い時を生きていらしたのだ』


 今度こそ、紗良は思い切り目を見開いて絶句してしまう。

 母は、この老人よりも年上であったという。つまりは、見た目通りの年齢ではなかったらしい。

 突拍子もない言葉ではあるが、何故かどこかで納得している自分に紗良は気づいていた。

 母が普通の人間ではないのは、既に察していた。

 謳うように裁縫箱に宿る妖精たちと共にドレスを作り上げる母の姿を見て、只人と思うのは難しい。

 しかし、だからといってそんなに長くを生きているとは想像しなかった。

 時見が説明してくれた話によると、母はどうやら母は『魔術師』と呼ばれる存在の一人だったらしい。

 不思議の力と共に生きる者達は、それぞれの力の源を持ち、永い命を有する。滅多なことで死を迎えることもない。

 そこまで聞いて、紗良は怪訝な顔をしてしまう。

 だって、母は死んでしまったのだ。流行り病に倒れて、呆気なく。

 この男性の言葉が真実なら、母は死なずに済んだではないか。

 紗良が抱いた疑問を察したように、時見は説明を続ける。

 『魔術師』と呼ばれる者達はそう長く生き、容易くは死なない。ただし、それと引き換えるように、命を育むことはできない。

 

『彼女は、君の父を愛した。だから、人に還ることを選んだのだよ』


 異国から流れてきてこの地にて父と出会った母は父を愛し。父との間に愛の証として命を……紗良を産む事を望んだからこそ、永い命を捨てたのだ。

 そして、日本に来る前……かつて英国に居た母は、少年だったイースデイル氏の家庭教師をしていた。

 イースデイル氏は、幼い時分は不思議の世界に近しい魂を持っていた。だからこそ、この世ならざる住人達の存在を容易く目にしてしまい、彼らに悪戯を仕掛けられる。

 そのせいで少年の頃は随分と病がちだったようだ。

 それを心配した両親が、家庭教師として。また、不思議に対する師として母を招いたという。

 イースデイル氏の言葉を補うように、時見は紗良がより理解しやすいように形を整えて説明を紡いでくれた。

 あまりに現実的ではない非日常な話をしているというのに、老紳士達の言葉には何の含みも誤魔化しもない。

 紗良は、自然と彼らの言葉を受け入れていた。

 長い時を不思議の理や存在と生きて来た母のことも、母と老紳士の関係のことも。

 嘘だと断じることも出来ただろう。荒唐無稽とも言える話である。けれど、紗良はそれを真実だと思った。


 イースデイル氏は手がける事業の為に日本を訪れた。

 母が日本に向かったことは風の噂に聞いていたから、母を尋ねようとした矢先。既に母がこの世の人ではなくなったことを知る。

 けれども彼女の娘が残されている、と時見から知らされた氏は是非とも会ってみたいと思い、今日この日に店へと現れた。

 そして、紗良の受難を目にして、結果として助けてくれたのである。

 それは紗良にとって幸運であり、道が開けるきっかけとなる出会いとなった。





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