『リデルの仕立て屋』
長きに渡り閉じられていた国が遂に開かれ、開化の光に眩い横濱。
数多の船が来航し、商人や技師を始めとした多くの外国人を迎え入れた街には、彼らが暮らすべしと定められた区域がある。
居留地と呼ばれる様々な西洋風の建築物の並ぶ地域は、異国さながらの佇まい。
行き交う人々の多くは、外の国から来た人間。日本人の姿は数少ない。
日本でありながら異国、と評しても良い場所に、その店はあった。
比較的新しい空色の塗料が眩しい、各所に施された装飾も佇まいも何もかもが、さながら異国のおとぎ話に出てきそうな可愛らしい雰囲気の建物。
『リデルの仕立て屋』と横文字で書かれた看板がかけられた店の前では、通りかかる人、とりわけご婦人が目を奪われたように不意に立ち止まっているのが見受けられる。
理由は簡単。彼女達を惹きつけてやまない光景が、透明な硝子の向こう側に広がっているからだ。
外に張り出した大きな出窓からは、店の中の様子が垣間見える。
深い色味の、あるいは淡い色合いの光沢が花開いたように思わせる店内。
柔らかな光の差し込む中飾られているのは、日本ではまだ珍しい、けれど居留地に暮らす婦人方には馴染みあるドレスと称される装束の数々。
気さくな雰囲気を漂わせるものから、改まった場の正装に相応しい高雅な空気を纏うものまで、幅広い趣きのものが並んでいる。
胴回りを細く絞り、腰の後ろを膨らませ。たくし上げて襞を寄せて、布を豊富に使い、緩やかに裾へと広がり流れる。
それらに共通しているのは、袖に、裳裾に見事な刺繍が施されていることだった。
鮮やかな色彩で咲き誇る花であり、それらを求めて飛び交う蝶であり。あるいは梢に鳴く小鳥であり。
多くの意味合いを持つ文様を美しい刺繍を施されたドレスの数々は、さながら艶やかな色糸で描かれた絵画の趣きがある。
糸の絵画を幾つも過ぎた奥まった場所には立派な一枚板のカウンター。幸せそうな様子で日向ぼっこをする二匹の黒猫が丸まっている。
更に奥には扉があり、その向こうには小部屋がある。
こちらも、店内のものよりは小さいが硝子窓がはめられているため、日当たりがよく温かい。
こじんまりとしているが、どこか昔懐かしい雰囲気が漂う部屋の壁には木製の棚が据えられていて。
磨き抜かれた樫の木の棚には、艶やかで様々な色味や織りの布地が並んで詰め込まれている。
その大半が元は日本で紡がれた生糸が海外で姿を変えたものだ。
薄く開いた抽斗から覗くのは、繊細に編み上げられたレエスに、色とりどりのリボン。星の煌めきを写し取ったかのように輝くビーズ。それらが丁寧に仕分けられて、綺麗に収まっている。
そして、その前には一つの人影があった。詰襟の簡素な黒いドレスを着て、漆黒の髪を結い上げた女性である。
吸い込まれるような黒の色を纏う彼女は、瞳だけは違う彩だ。
彼女の双眸は、鮮やかな蒼。晴れ渡った蒼穹を思わせる色である。
それはとりもなおさず、彼女が二つの国の血を引いていることを表していた。
現在、双つの蒼は一点に据えられている。
女性の目の前には、半ば仕立て上がったドレスがある。
ただ、半ば、である。まだ未完成なのだ。些か装飾が足りずに、物寂しく感じる風情だ。
着飾った貴顕淑女が笑いさざめく社交の場が似合うはずのこのドレスに、相応しい仕上げを。
女性の視線がふと、傍らの小さな円卓の上に向けられた。
そこにあったのは……裁縫箱である。
使い込まれた味わい深い艶のある木製の木箱の蓋には、繊細な金線の象嵌細工。翅を持つ少女達――妖精と呼ばれる不思議の存在が憩い、戯れる姿が描かれている。
母は、これは『彼女達』のお家なのよ、と微笑みながら言っていた。
裁縫箱は静かに閉じられている。
翠の石と銀にて四つ葉を象った指輪をした手でそっと裁縫箱を撫でながら、女性は謳うように囁く。
『さあさ、一緒に踊りましょう』
不思議な響きを帯びた声にて紡がれた異国の言葉に、かたり、と何かが揺れるような音がして。
それまで頑なに閉じられていた裁縫箱の蓋が、声に応じて、発条が弾けるようにして開く。
光の粉が舞い、輝きが筋となって幾重にも軌跡を描いて。透明な翅を持つ小さな幾つもの影が、一斉に飛び出した。
薄青に薄紫。淡い翠や黄色、紅がかった色味。燐光を纏う蝶のような透ける翅を背に持つ影は、少女の形をしていた。
それぞれに楽しそうに笑いさざめきながら、くるりくるりと宙を舞う。
ごきげんいかが、というように女性に微笑みかける少女達に笑みを返しながら、女性は銀の針を手に取る。
女性が色糸にて裾に刺繍を施している傍らで、翅もつ少女達は戯れるように完成を待つドレスの周囲で踊る。
繻子のリボンの片側手にして一人が宙を舞い、もう一人が次々と蝶々に似た形に結んでいく。
二人の妖精が協力しながら繊細なレエスを縫い付けていく。違う一組は、裾にふわりとしたフリルをまつっていく。
ある妖精は、きらきらと輝くビーズにうっとりと目を細めている仲間を叱りつけて、女性が刺繍した花の中央に次々と留めていく。
小さな少女達が密やかな笑い声と共に、光の軌跡と共に宙を滑る度に、見る見る内に仕上げを待っていたドレスには美しい装飾が施されていくのだ。
針を動かす女性の唇は、囁くように歌を口ずさんでいる。
女性と妖精たちが謳い、踊り。やがて、硝子から差し込む陽光に照らされて、一着の見事なドレスが仕立て上がっていた。
手を止めて一歩離れて全体を見渡してみて、女性は漸く安堵したように息を吐いた。
その直後である。
「まあ! いつもながら素敵!」
女性と小さな少女達しか居なかったはずの部屋に、朗らかな賛辞が響き渡る。
目を見張った女性の方が大きく跳ねたかと思えば、思わず手にした針を取り落としかけた。
何度か息を吸っては吐いてを繰り返した後、女性は殊更大きな溜息を吐きながら背後……小部屋の入口へと振り返る。
「……マーガレット。あれほど、入って来る時は」
「ベルを鳴らしたし、猫たちに声もかけたわよ。紗良が気づかなかっただけじゃない」
女性――紗良の蒼い眼差しの先には、天真爛漫な笑みを浮かべる少女の姿。
光を弾いて輝く金の巻き毛が愛らしい菫色の瞳のマーガレットと呼ばれた少女は、仕立ての良いワンピースに身を包んでいて。見るからに良家の娘であることが分かる。
本来であれば応えがないのに足を踏み入れたことに対して、更なる抗議をするところであるが。
各方面に多大な影響力を誇る貿易商の愛孫である少女は、紗良にとっては一番のお得意様である。
それと同時に、どうにも強く出られない相手でもある。自分でも、彼女に甘いことを苦く思うことがあるけれど。
マーガレットの背後には付き添うようにして立つ、苦笑いの表情をした洋装の紳士がいる。
男性は非常に整った顔立ちをしている。実際、彼が街を歩くと振り返る女性が多数いた。
「すまない、紗良。……一応は止めたのだよ。ただ、マーガレットがね……」
「時見さん……。いえ、貴方が悪いわけでは……」
視線を伏せ、頭を下げつつ申し訳なさそうに言う男性――彼女のお目付け役である時見に、紗良は渋い表情で静かに「ない、ですよ……」と溜息交じりに頭を横に振った。
彼は恐らく、紗良が呼びかけに応じるまで待つように言ってくれただろう。マーガレットがそれより早く行動に出てしまっていただけで。
見られて困る、というわけではないのだ。相手が普通の客であれば。
店を訪れる他の客達には妖精たちの姿は見えないし、先程まで繰り広げられていた不思議な光景は見えない。
おそらく、目にしたとしても紗良がひたすら静かに刺繍を施している様子しか認識できなかっただろう。だから、うっかり目撃されたとしても、さして問題ではない。
だが。
紗良の何とも言えない色を滲ませた眼差しの先で、宙を踊るように飛ぶ妖精たちとマーガレットは、まるで会話するように笑い合っている。
そう、このマーガレットという少女は『視える』存在なのだ。
そして、むしろ紗良が翅を持つ者達と共にドレスを仕立てる様子を好んで見たがる傾向がある。
素直に見せてと頼んでくる時もあるし、絡め手を使ってくる時もある。とにかく、あの手この手で何とか仕立ての風景を見ようとするのだ。
「そもそも、今日はドレスを受け取りに来る約束をしていたもの」
「……そうでしたね」
肩を竦めながら、マーガレットはあくまで朗らかなままに告げる。
返す紗良の言葉は、ついつい歯切れの悪いものとなってしまった。
まさしくその通り。このドレスは、マーガレットの注文により仕立てたものである。
そして今日マーガレットは、ドレスの引き取りに来たのだ。
店番を任せていた『猫』たちが彼女を止めなかったのは、多分それを知っていたからである。
そして訪問時刻が予定より早いのは、仕立てを見たがるこの少女に関しては様式美。
時間について失念してドレスの仕上げに没頭してしまっていた自分が完全に迂闊だった。
「それでは、さっそく試着して頂けますか? 細かい寸法を調整しますので」
「ええ。着てみるのを楽しみにしていたの!」
マーガレットの身体の寸法に関しては正確に把握しているし、しっかり合うように仕立てた自信がある。
しかし、万が一は有り得るので、実際に身に着けてもらって着心地の確認や細部の調整は必要だ。
当然のことながら時見が席を外した後、紗良の手を借りて、マーガレットはドレスに袖を通した。
光を織り込んだような淡い紫色の滑らかな絹地に、広がり行く裾には煌めくビーズを宿した花々が妍を競うように咲き誇る。
随所に施された花の意匠のレエスも、濃い紫のリボンも、少女の愛らしさを存分に引き立てていた。
手袋などの小物も、ドレスと同じ花を紗良が刺繍したものだ。全てが一つに調和して、少女は差し込む陽光の元、眩く輝いて見える。
紗良としても満足のいく出来であり、マーガレットも鏡に映る自分の姿を見て上機嫌だった。
「これなら、ロクメイカンでも胸を張っていられるわ。ありがとう、紗良!」
貿易商であるマーガレットの祖父は、この度東京で開かれる夜会に招待されたらしい。
政府の欧化政策に基づき建てられた鹿鳴館という西洋風の建物では、夜ごと異国の要人を招いて舞踏会が開かれているとか。
招きを受けた祖父は、孫娘を伴うことにした。そして、その際にまとうドレスを紗良に注文していたのだ。
しっかり宣伝してくるわ、と明るく笑うマーガレットにつられて思わず微笑んでしまいつつ、紗良は妖精たちの手を借りてドレスを運搬できる形に整えた。
色とりどりの翅があちらにこちらにくるくると移動する様を楽しそうに眺めていたマーガレットは、不意に口を開いた。
「それでね、紗良。……実は、一つお願いがあるのだけれど」
紗良の肩が跳ねて、ぴたりと手が止まる。
内心では『きた』と呟きながら何とか表情を平静のまま取り繕うとする紗良の視界に、ドレスを運ぶ手配を従者に指示しつつ視線を逸らした時見の姿が見えた。
抱いた疑念が確かなものとなった紗良へと、マーガレットは可愛しい仕草で首を軽く傾けながら続ける。
「ある女性のドレスを仕立ててさしあげて欲しいの」
言葉をそのまま捕らえるならば、ごく普通のドレスの注文である。
仕立て屋である紗良にドレスを頼むのはおかしい事ではない。むしろ、注文を頂けるのは有難いことだ。
……そこに何も続かなければ、であるが。
紗良の内心を察しているのかいないのか。マーガレットは花のような笑みを浮かべたまま、更なる言葉を続けた。
「とても美しい女性だそうよ。……少し、事情がありそうだけれど」
――ああ、やっぱり『そういう』注文だった。
紗良は思わず生温かい表情になっていた。
妖精たちは、どうしたの? と言った風に紗良の周りを飛んでいる。
マーガレットは定期的にお客を紹介してくれる、この店の上得意であることは間違いない。
ただ、彼女の持って来る注文は、何故か高い確率で『訳あり』であることが多いのだ……。