腐乱死体の日記
精一杯人を助けようとする人の気持ちについて、根っこの愛を考えながら乱雑に書きました
罪悪感を中心に愛を考えると、確かだと思えることが何かへの悪い気持ち。それは自己満足。自らの歪んだ形に共感し、確からしさを感じることでこれが真実の愛だと錯覚する。それが読書。けれど、自分が悪いと思い悩むことに意義はあり、感情の役割に従って自己を主観的に捉える。これで善悪の天秤が崩れる。その心を悪だと判断しつつ、そうやって生きる意義があるため。生命と感情は相関性がある。その上で、それに殉じることをしない衝動を持って、自己が悪だと考え、生きることを否定する。死を拒絶するためには、自己を善と捉えねばならない。人を支援、もしくは愛する上で。相手を自己の上に置かねばならない。自己を悪と見做されるその現象は、相手の中の悪意を否定するか肯定すること。人が生きている上で。知らないことに殉じることで、自己を善と悪の境界に置く。ただでさえ相手を支援、愛するのに一杯一杯なのに、自己を否定されたら、悪へと傾く。自己を否定するか、肯定するか。それは他者に依存する。それが愛の過程であると考える。愛についての最終結論は保留しておく。だが、愛されるということは、感情を生命の中に置き、善悪を超えて善性に傾くことだと考える。善とは?一般的な良い、悪いでは無い。そもそも、一般を崩した後に残る良し悪しなどあるのか。その答えは無い。あったらいいと渇望することを信じる。