66.夢心地
サユリと別れた翌日の夜
俺は自分の部屋で、ベッドに横になりながらぼーっと過ごしていた。
昨日は一睡もできなかった。
情けないけど夜通し泣いていた。
今日は一応食卓には行ったものの、三食とも喉を通らなかった。
休日に丸一日こんなに何もせずに過ごしたのは久しぶりかもしれない。
サユリと出会ってからはどこかに出かけたり、メッセージのやりとりや通話をしたりして、充実していたから。
また空っぽ時代に逆戻りになるのかな。
今の俺の心は粉々って感じだから、空っぽより悪化してるよね。
じゃあ、出会わなければよかった?
そんなことはない。
短い間だったけど、我を忘れて夢中になるほどサユリを好きになって、毎日心が満たされていた。
それに、人生で初めてここまで真剣に恋をしたんだから。
失恋は時間が癒してくれるとか、新しい恋をはじめた方が良いとか聞いたことあるけど、これはもう手の施しようがないレベルでしょ。
――コンコン
ノックの音が聞こえてきたあと、襖が開いた。
入って来たのは姉ちゃんだった。
「ヒマなら付き合って」
姉ちゃんが持っているお盆には、缶酎ハイと炭酸ジュースと枝豆が乗せられていた。
そして俺に缶酎ハイを渡して来た。
「いきなり何事? しかも、自分はノンアルコール?」
姉ちゃんは俺の言葉を無視して隣にどさっと座った。
「良いから飲んで」
そんな強引な⋯⋯意味分かんないんだけど。
「看護師のくせに、弟に酒勧めていいわけ?」
「適量なら気分転換やストレス軽減の効果があるから」
そう言って姉ちゃんはジュースを飲みながら枝豆を食べ始めた。
まぁ、自分の周りに聞く限りでは、どこの姉と弟もこんな感じなのかもしれない。
俺は素直に酒を飲んだ。
そして二時間後
「いきなり好きな男が出来たとかありえないでしょ! 何で俺がそんな意味分かんない男に負けないといけないわけ? 俺以上にサユリを幸せに出来る男が存在して良いわけないでしょ?」
「⋯⋯⋯⋯そうだね」
「俺だって信じられないよ。こんなに簡単に地獄に突き落とされるなんて。それにサユリは絶対にこんなことするような人じゃないから⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯うん」
「意地でも奪い返したいところだけど、あんなにやつれた姿を見ちゃったら、もうただの迷惑じゃんって⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯そうだったんだね」
姉ちゃんに乗せられて、そこそこの量の酒を飲んだ俺は、完全に出来上がっていた。
寝不足だからか酒の回りが異様に早い。
大学生にもなって、姉ちゃんに失恋相談なんて、ダサいと言う人もいるかもしれない。
けど、姉ちゃんの相槌は完璧なタイミングだし、言いたいことを時系列バラバラで適当に話しても、こちらの話を上手く要約してくれるから、すんごく良い気分で話せるんだよね。
これが看護師のコミュニケーションスキルなんだろうか。
「ねぇ、サユリちゃんの写真を見せて」
姉ちゃんは突然意味のわからないことを言った。
「なんで? 顔はもう知ってるでしょ?」
「いいから」
本当はもう消したいくらいなんだけど。
「ほら」
一番最近に撮った、バレンタインデーの写真を見せた。
写真の中のサユリは俺が贈ったソープフラワーを大事そうに抱えて笑っていた。
この直後にこんな惨状⋯⋯
もうこのえくぼは見れないんだよね。
「ありがとう」
姉ちゃんは俺にスマホを返してくれた。
「ミズキ。とにかく早まらないでね」
姉ちゃんは俺の背中を叩いた。
「⋯⋯⋯⋯別に消えたりしないから安心してよ」
なんだかんだ言って姉ちゃんは俺のことを心配してくれているみたいだ。
一人で落ち込んでいるよりは、こうやって吐き出してしまったほうが良かったのかもしれない。
「それならいい」
姉ちゃんは少し安心したような表情をして立ち上がった。
ふとこちらに背を向けた姉ちゃんの肩に、蚊が留まっているのを見つける。
「待って。肩に蚊がいる」
珍しい。いつも俺がいると蚊は来ないのに。
俺は蚊を消そうと立ち上がった。
「いいから! 後で潰しとくから! 酔っ払いは早く寝て」
姉ちゃんは焦った様子で俺の部屋を出ていった。
変なの。酔わせたのは姉ちゃんなのに。
これだけ飲んだし、今日は寝れるといいな。
俺はそのままベッドに横になって、毛布にくるまり目を閉じた。
二日後、近所でサユリを見かけた。
その姿は最後に見たときと同じかそれ以上にやつれていて、俯きながらため息をついて辛そうにしている。
サユリは俺の存在に気づき、すぐにもと来た道を戻って行った。
そこまで避けなくてもいいのに。
もう話しかけないから安心してよ。
サユリが嫌な思いをするくらいなら我慢するから。
でもせめて、お願いだから、幸せそうにしていて欲しかった。
その日の晩、夢の中で、俺は大学の近くの公園に来ていた。
あの日、ここでサユリに初めて出会って、水をもらったんだよね。
今日のサユリ、辛そうだったな。
俺が最後にあげたバームクーヘンは食べなかったのかな。
紙袋の中身がバームクーヘンって気づくくらい、俺たちはお互いのことを理解し合っていたはずなのに。
それにサユリは俺の家の近くに、せっかく引っ越してきたのに。
そのうちまたどこかに行ってしまうのかもね。
「はぁ⋯⋯しんどいな⋯⋯」
夢の中だと言うのに、思わず独り言を呟いてしまった。
もう暗くなって来たし帰ろうかな。
立ち上がろうとした時に、後ろから声をかけられた。
「あの⋯⋯さっきから苦しそうですけど、大丈夫ですか?」
懐かしいセリフだった。
「サユリ!?」
しかし、後ろを振り返ると知らない女性が立っていた。
息を呑むほどきれいな人だった。
少し紫がかった黒髪は腰の辺りまで長くて、艷やかだ。
女性は笑顔で水の入ったペットボトルを差し出していた。
俺はいつの間にかその女性の笑顔から目が離せなくなって、気がついたら水を受け取り、飲んでいた。
「そういえば顔の傷⋯⋯この前はきれいになってたのに、また絆創膏貼ったの?」
急に場面が切り替わった。
夢あるあるだよね。
目の前には先程の黒髪の女性が座っていた。
その女性に不意に絆創膏に触れられた。
その余りにも自然なしぐさに不覚にもドキッとしてしまう。
「あの時はファンデーション塗ってたから」
「ミズキくんってお化粧するの?」
今度は絆創膏を貼っていない部分に触れられた。
しばらくすると、また場面が切り替わった。
「ねぇ。俺とアイツはどこが似てるの?」
「時々ちょっと寂しそうに見えるところかな。今もそう」
黒髪の女性は俺の目を真っ直ぐに見ていた。
「それはチャラ男の常套手段なんじゃない? 影があるように見せて女の子の同情を誘ったり、急に真面目に夢を語りだしてギャップを演出したり⋯⋯」
「そうなのかな⋯⋯」
黒髪の女性は手を伸ばして俺の頭を撫でた。
「ほら。こうやって引っかかるじゃん」
俺は黒髪の女性の手首を掴んだ。
これは何なんだろう。
俺がサユリのことを好きになるきっかけになった場面が次々と出てくる。
でも肝心のサユリはもういない。
この女性はいったい誰なんだろう。
それからも毎日その女性は俺の夢に出てきた。
サユリと過ごした場面が、その女性に置き換わっている。
俺の壊れた心が限界を迎えて、サユリを忘れようとしているのかもしれない。
早く忘れて楽になりたいという気持ちと同時に、この思い出を忘れたくない気持ちもあった。
このかけがえのない思い出が、誰かに置き換わるなんて、本当は耐えられないはずなのに。
でも俺は心が弱いみたいだ。
別に夢の中なんだし、誰かに甘えたかったのかもしれない。
幼馴染のアイツに振り向いてもらえなかったサユリは、こんな気持ちで俺を頼って来たのかもしれない。
「ミズキくん、辛かったね。私は最初からずっとミズキくんだけだよ。他の男の人の身代わりになんて絶対にしない。それに、これからもずっとミズキくんだけ。だから、安心していいんだよ」
気がついたら俺は黒髪の女性に優しく頭を撫でられていた。




