坊ノ岬沖海戦ー空母大鳳の最期
言うまでもありませんが、これは仮想戦記です。
史実と異なる、というツッコミは勘弁してください。
(以前に、きちんと前書きで書かないとは何事だ、と怒られたことが)
「これが祖国日本の国土の見納めかもな」
飛行甲板で作業をする整備員が、北を見ながら何気なく言った一言が、自らの胸に刺さる。
「本当に申し訳ない。私達は着艦不能ですので、発艦後は鹿屋に向かうしか」
思わず階級差を無視し、私、鴛淵孝大尉は整備員に対して丁寧な言葉で謝ってしまった。
向こうの方が年上とはいえ、下士官であることからすれば、大尉である自分が、そんなことを言う必要は全く無いし、自らの任務が任務だ。
「良いってことよ。真珠湾からミッドウェーまでは赤城で勤務し、その後、紆余曲折があって、この艦に乗り組んだがね。この艦も、いよいよ最期だろうがな。出来る限りのことはするさ。お前さん達も出来る限りのことをすればええ」
「そうですね」
階級差を無視し、完全に達観して発せられた下士官の言葉に、私は肯きながら、周りを見回した。
今、自分が乗っているのは、今や日本で唯一、戦闘可能な正規空母と言える大鳳だ。
本来ならば、マリアナ沖かフィリピン沖で、他の空母と共に勇戦敢闘しただろうに。
だが、完成した時期が余りにも悪かった。
突貫工事の末に、大鳳が竣工したのは、1943年10月だった。
だが、このときには既にガダルカナル島を始めとするソロモン諸島方面から、ラバウルやニューギニアを除いて、我が軍は撤退止む無しの状況になっており、1944年半ばまでに何とか絶対国防圏を確立させようと準備を進める段階になっていた。
そして、運命の1944年2月、トラックにまで前進して、戦艦武蔵他と共に大鳳は米海軍を迎撃しようとしていたのだが、当時の古賀峯一連合艦隊司令長官の命令により、タウイタウイ泊地への移動を命ぜられた際、米潜水艦の雷撃を受けて、魚雷2本が命中したのだ。
幸いなことに、何とか自力航行は可能で、護衛艦等の奮闘もあって、それ以上の損害を受けずに、呉軍港まで大鳳は帰港できたが、当時の物資不足等も相まって、結局、修理には半年余りが掛かり、その間にマリアナ沖で我が海軍は敗れてしまった。
更にはフィリピン沖に小沢治三郎提督と共に出撃する筈が、修理を急ぎ過ぎたせいか、機関が不調で全力航行が不可能な有様だった。
その為に機関の再修理等を行ったことから、フィリピン沖にも大鳳は赴くことが出来なかったのだ。
こうしたことから、大鳳は武運に恵まれていない、という陰口が付きまとうようになった。
そうこうしているうちに、レイテやルソンは事実上は米軍に抑えられてしまい、いよいよ沖縄に米軍が来寇し、地上戦が展開されるという戦況になった。
こうした中で、今や日本に遺された唯一の実戦艦隊といえる第二艦隊に沖縄救援の為の出撃が命じられることになり、1945年4月に戦艦大和他と共に、大鳳も出撃することになったのだ。
だが、このときの日本海軍航空隊には、大鳳に配属すべき航空隊は全く無いと言っても過言では無いのが現実だった。
主にガダルカナル島を巡る航空戦で、大量の熟練搭乗員を海軍航空隊は失ったことから、空母から発着艦ができるだけの腕を持つ搭乗員は、それこそ宝石のように貴重な存在と化していた。
更に冷たいことをいえば、所詮は空母1隻だけなのだ。
大鳳が出撃するにしても、艦載機を搭載せず、それこそ敵機の攻撃を引き付ける囮役を務めればよい、という者が、連合艦隊上層部でも圧倒的多数だった、と(後で)私は聞いた。
だが、大和以下の第二艦隊が出撃するのを予期していた一部の人が動いた。
その中には、自分達の上官の源田実大佐までがいて、自分達に思わぬ命令が下った。
「上には話を付けた。第343航空隊は大鳳に移動し、第二艦隊の沖縄突入を援護する」
「えっ」
私達は顔を見合わせることになった。
「我々の愛機は、紫電及び紫電改です。艦上機ではありませんが」
横紙破りで知られている同僚の菅野直大尉でさえ、おずおずと源田大佐に言う有様だったが、源田大佐とて無茶なのが分かってはいた。
「諸君らに特攻に赴いてくれ、というような命令なのは自分でも分かっている。だが、大鳳に着艦は出来なくとも、発艦だけならば紫電改は出来る筈だ。大鳳から発艦して、第2艦隊の上空直掩を少しでも果たしてくれ。自分も鹿屋基地にまで赴いて、諸君の苦衷に少しでも寄り添いたい。祖国日本を護り切れなかった軍人としての最期の意地を、我が儘極まりないことだと考えるが、諸君らと共に遂行したい」
源田大佐は、自らの言葉に何時か酔ったようで、話す内に涙ながらに話していた、
源田大佐の言葉を聞いていた私達も、何時か涙を零しながら、全員が敬礼して、源田大佐の命令に黙って従う態度を示さざるを得なかったのだ。
この命令を受けて、それこそ露天係止を始めとする様々な手法を用いることで、大鳳には紫電改48機が搭載されて、私達は大鳳に乗り組んで、第2艦隊の上空直掩任務を果たすことになったのだ。
実際に紫電改が大鳳から発艦が可能かどうか。
それこそ一部の熟練者が実際に行って可能なのが分かった後、第343航空隊で大鳳に乗り込んだ面々全員が一度は経験することが出来たが、そんなもので実戦で出来るのか、不安を多くが覚えたが。
その一方で、十死零生の特攻任務に自らも随伴するというのは、私も含めて多くの操縦士達が興奮して酔ったような想いをさせることになった。
無茶苦茶と言えば無茶苦茶にも程がある、理性ではそう考えていても、今生の善き想い出になる、という不思議な感情を、私もそうだったが、多くの者が覚えたのだ。
ある意味では、死を眼前に見据えて、明鏡止水の心境にこの場の全員が至っていたのかもしれない。
更には、この第343航空隊の行動等が、第2艦隊の沖縄救援等の出撃に与えた影響も甚大なことに結果的になったようだ。
第343航空隊を大鳳に移動させて、発艦訓練等を行うのに数日の時間が掛かるのは必須で、そのために海軍各所どころか、陸軍の一部までに、この第2艦隊の沖縄救援等の出撃の為に協力体制を執らせるだけの時間等の余裕ができることになったらしい。
更に言えば、こうしたことから第2艦隊の沖縄に向けての出撃は、1945年4月9日になった。
それによって、少なくとも九州を中心とする西日本に展開していた陸海軍の航空隊は連携して、沖縄にいる米軍に対する共同攻撃を行って、第2艦隊が沖縄に向かうのを援護できることになった。
又、天祐にも恵まれることに結果的になった。
4月9日に沖縄本島周辺には低気圧が接近したことから、風が吹いて雨が降る中で、多くの米空母が、攻撃隊を出撃させるという無理を行うことになったのだ。
更に言えば、九州を中心とする陸上の航空基地から攻撃を行う我が陸海軍航空隊にしてみれば、相対的な問題に過ぎなかったが、容易に協調しての航空作戦を展開できることにもなった。
とはいえ、現実はそれなりどころではなく、過酷な戦況となった。
「電探が米軍の偵察機を探知しています。又、彩雲を中心とする我が偵察隊複数が、米空母が攻撃隊を発艦させるのを確認した、と打電しています。その攻撃機総数、少なくとも約200機。後1時間程で襲来する予定です」
「そうか。そろそろ迎撃機を上げるべきだな」
通信士官の言葉を受けて、伊藤整一第2艦隊司令長官から命令が下った。
「大鳳から第343航空隊全機を敵機迎撃の為に発艦させろ」
伊藤長官からの命令を受けて、剣部隊、第343航空隊に所属する紫電改は全機、大鳳から発艦した。
勿論、その中には未熟な操縦士もいて、冷や冷やしながら発艦した面々もそれなりどころではなかったが、少なくとも全員が大鳳から発艦して、敵機襲来に備えての迎撃態勢、編隊を組むことに成功した。
そして、私達は。
「ここはガダルカナル島上空か、ラバウルか」
「奴らはサイパン沖やフィリピン沖の日本海軍の戦闘機乗りの腕ではない」
このときに米軍の操縦士達が挙げた言葉というより悲鳴は、後でわかったことで、この時の私達には全く分からなかったことだが。
それでも、私達の戦闘機乗りの腕に、彼らが驚愕したのは、言葉の意味は分からないながらも、彼らの興奮した言葉を無電で傍受した際の雰囲気から、私達には充分に分かることだった。
結果的に戦艦大和を中心とする第2艦隊を攻撃するために、米軍から向けられた第一次攻撃隊、約200機の攻撃だが、我々第343航空隊の奮戦により、実際に第2艦隊に与えた戦果は、戦艦大和に魚雷1本、爆弾2発、空母大鳳に爆弾5発に魚雷2本といったところだった。
後、駆逐艦朝霜が、爆弾1発が命中して大破炎上、航行不能となったことから、総員退艦の上でキングストン弁を開いて自沈することになった。
更に言えば、空母大鳳は、以前に潜水艦の雷撃によって損害を受けた教訓から、できる限りの不沈対策が講じられる事態が起きていた。
その為も相まって。
菅野直大尉が冗談で言った。
「大鳳に着艦して、再発艦が可能に想えるな」
実際に爆弾5発の直撃を受けながら、当たり所が良かったせいもあるのだろう。
主要部のみとはいえ装甲が貼られていた大鳳の飛行甲板は、表面上は穴が開いておらず、充分に艦載機が発着艦可能な(ように上空からは見える)状況にあった。
(尚、実際には流石に爆弾5発の命中によって、着艦不能に既に大鳳は陥っていたらしい)
それを聞いた私が冗談で言った。
「大鳳に着艦して、燃料等の補給を受けますか」
実際には着艦用の装備が無い自分達が操る紫電改が、大鳳に着艦することは不可能だ。
だが、その言葉が更なる波紋を呼んだ。
「面白いですね。着艦する振りをしてみませんか。そうすれば、米軍の攻撃は大鳳に集中して、大和を沖縄にまで到着させることが出来るやも」
林喜重大尉までが、そういったことから。
私や菅野直大尉らが、大鳳に着艦する振りをした後、鹿屋の飛行場に向かう事態が起きた。
更にこのことが、米空母から発艦した第二次以降の攻撃隊が、大鳳に集中攻撃を浴びせる事態を引き起こすことになった。
米海軍にしてみれば、爆弾5発、魚雷2本が命中したにも関わらず、尚も艦載機の発着艦が可能な空母大鳳は、大袈裟に言えば妖魔のような存在としか言いようが無かった。
更に言えば、これまでの海戦の経験から、第一目標は空母という印象が植えつけられており、戦艦大和よりも空母大鳳が集中して狙われることになったのだ。
この米海軍の猛攻に、ひたすら大鳳は耐えた。
それこそ弁慶の立ち往生を想わせる奮戦だった、と僅かに生き残った大鳳の乗組員全員が回想した、と言っても過言では無い耐久振りだった。
鹿屋飛行場にたどり着いた我々は疲労していたが、少しでも第二艦隊の沖縄救援任務を成功させねば、という想いに駆られていたこともあって、米海軍の第二艦隊に対する第一次空襲を生き延びて操縦可能だった全員が予備機を操ってまで、第二艦隊の上空支援に赴いた程だったが。
(尚、第一次空襲の際に48名の内12名が戦死傷しており、36名しか再出撃できなかった)
そして、我々は目を見張ることになった。
我々が第二艦隊の上空支援に赴いたのは、米海軍の第三次空襲が始まる直前となった。
つまり、米海軍の第二次空襲は終わった後で、大鳳は完全に航行不能になり、大破炎上していて、ひたすら左旋回し続ける惨状を呈していた。
だが、それでも大鳳は沈むのを拒み続けていた。
戦後に私が聞いた話では、この時点までに大鳳には爆弾、魚雷が併せて20は命中していた筈だ。
だが、これまでに日本海軍内で積み重ねられてきた不沈対策をできる限り施されていた大鳳は、米海軍の攻撃に耐え抜いて、自分達が駆けつけるまで浮かんでいたのだ。
その大鳳の姿を見た瞬間、私は思わず敬礼して、涙を溢れさせていた。
(後で聞いた話だが)私と同様の態度を、この場にいる剣部隊の操縦士全員が執った。
いや、大鳳の姿に感動する余りに、全員が執らざるを得なかったのだ。
そして、涙をこらえながら、米海軍の第三次空襲を私達はできる限り迎撃して阻止することになった。
だが、第二次、第三次の米海軍の空襲は併せて500機には達する代物であり、幾ら私達が奮闘しても蟷螂の斧に過ぎず、大鳳を守り抜くことができるモノではなく、私達は第三次空襲を阻止するために奮闘しながら、大鳳が沈んでいくのを見ることしかできなかった。
私は弾薬を全て撃ち尽くし、燃料が帰還ギリギリとなったことから、鹿屋飛行場に向かうことを決断せざるを得なかったのだが、その帰還の途中で、少しでも大鳳が沈んだ辺りの海域に目を向けざるを得なかった。
勿論、単なる自己満足に過ぎないのは重々分かってはいたのだが。
それでも、自分が目を向ければ、大鳳が浮上して来るような想いがしてならなかったのだ。
更に言えば、他の剣部隊の面々のほぼ全員が、私と同様の行動を執っていた。
彼らもひょっとしたら、大鳳が浮上して来るのでは、と儚い想いをしつつ、帰還していたのだ。
そして、自分達の奮闘は決して無駄では無かった。
というか、余りにも遅すぎる話だったが、戦艦大和を中心とする第二艦隊の沖縄救援任務を何としても成功させようという陸海軍の現場レベルでの共闘は、ある意味で奇跡を生んだ。
第二艦隊に対する米海軍の第二次空襲を迎え撃ったのは、陸軍の戦闘機部隊だった。
彼らの奮戦と米海軍の攻撃が大鳳に集中したことから、第二次空襲を大和は生き延びられたのだ。
更に言えば、沖縄方面に展開する米海軍部隊や、既に沖縄本島で地上戦を展開している米陸軍部隊に対して、できる限りの大兵力をつぎ込んだ上での日本陸海軍航空部隊の連携攻撃が行われてもいた。
この時に沖縄本島周辺に低気圧が接近していたことに伴う米空母部隊の運用困難(尚、南九州を中心に展開していた日本陸海軍航空隊にしても、この低気圧は米軍に対する攻撃を困難にする事態を引き起こしたが、そうは言っても、相対的にはこの低気圧の存在は、日本軍にとって天祐といえる効果だった)も相まって、本来ならば、第三次空襲が行われるまでもなく、大和は沈んでいてもおかしくなかったが。
結果的に大鳳や朝霜等の貴重な犠牲と引き換えに、約三波(米海軍からの空襲だが、低気圧の存在からある程度は五月雨式の空襲にならざるを得なかったのだ。その為に(メタい話をすると)後世では何波の空襲が行われたのか、という議論が行われることになり、約三波というのが通説的見解を占めるが、細かく分ける論者によれば、10波に及ぶという主張までが行われる程になった)の空襲を、大和以下の第二艦隊は生き延びて、夜戦に突入することが出来た。
とはいえ、幾ら大和が世界最大最強の戦艦であろうとも、所詮は多勢に無勢であり、又、日米間の電探技術の差は余りにも大きいモノがあった。
(更に言えば、米海軍の空襲によって、流石の大和と言えども無傷とは言えず、米艦隊との砲雷撃戦直前の段階で、主砲射撃に支障は無かったとはいえ、既に最大速力は20ノット程になっていた)
それこそ海軍軍縮条約時代以前に建造された長門級や伊勢級並みの戦艦に過ぎないとはいえ、戦艦6隻を中核とする米艦隊の前に、結果的に大和以下の第二艦隊は全艦撃沈の運命を辿らざるを得ず、沖縄本島には全艦がたどり着くことが出来なかったのだ。
とはいえ大和の最期の意地の主砲射撃や矢矧を旗艦とする第二水雷戦隊の雷撃等は、米戦艦1隻を撃沈、2隻を大破する等の赫赫たる戦果を挙げており、最期の日本海軍の誇りを保ったといえるのも間違いない戦果ではあった。
この第2艦隊の沖縄救援作戦が、どれだけ沖縄の地上戦に影響を与えたのか。
私には精確な所が分からないが。
1945年8月のポツダム宣言受諾まで、沖縄の日本軍が組織的抵抗を続けられたことからして、第2艦隊の沖縄救援作戦は効果があった、と私は信じたい。
そう1945年8月、広島と京都に対する原爆投下とソ連の対日参戦によって、最終的に日本はポツダム宣言を受諾して、米国を始めとする連合国に対して無条件降伏したのだ。
私は結果的に大鳳から命を譲られたのか、終戦まで生き延びることが出来た。
同僚の菅野直や林喜重が終戦を迎えることなく、戦死したのを想えば幸運だったのだろう。
終戦後、私は民間人として余生を過ごすつもりだったが、第二次世界大戦後の世界の流れは、私にそのような余生を過ごすことを、結果的に許さなかった。
戦後、米政府が主導して行われた再軍備路線の中で、私からすれば率直に軍隊と名乗るべき自衛隊と呼ばれる部隊が復活して、私も航空自衛官の幹部になったのだ。
そして、最終的に空将と呼ばれるまでに出世して、退官することになった。
更には、その人生の中で、
「航空自衛官の幹部になられていたとは」
「海上自衛官の幹部として、再会するとはな」
あの大鳳艦上で会話を交わした下士官が、海上自衛官幹部になっていて再会したのだ。
「本当に最期の戦いのために、大鳳は伝説的存在に昇華した気がしますな」
「そうだな」
私は彼と会話しながら、色々と想わざるを得なかった。
実際に、あの坊ノ岬沖海戦直前まで、武運に恵まれない悲運の空母だった筈なのに。
坊ノ岬沖海戦の勇戦によって、日本海軍の空母の掉尾を飾る名鑑に大鳳は戦後にはなったのだ。
「魚雷や爆弾を幾つ当てたか、いつか数えるのを止めた。あれ程の空母が、この世に存在することに、私は何時か畏敬の念を覚えていたのだ」
「あれ程の空母を沈めて、罪悪感に今では駆られている。敵国の空母なのに、そんな心境に私を陥らせる程の名空母だった、大鳳という空母は」
あの戦いに参加した米海軍の艦載機乗りの多くの面々が、そのような談話を遺している。
日本人の間では言うまでもない。
「大和以下の水上艦隊が、米艦隊に対して夜間の水上戦を最後に挑めたのは、大鳳のお陰だ」
「大鳳と剣部隊の組み合わせが無ければ、水上艦隊の沖縄突入は失敗し、更にはポツダム宣言受諾まで沖縄で地上部隊が抗戦することは不可能だっただろう」
そう日本の民間人の間でさえ、多くが大鳳を評価している。
軍人、特にその現場にいた面々にしてみれば、尚更だ。
私はその一人として、彼に改めて言った。
「自分の人生の中で、剣部隊の一員として、大鳳から発艦して米海軍の攻撃隊と戦ったときが、自分の人生の中で最も輝けたときの気がしてならないよ」
「それを言えば、自分も同じです。大鳳に乗り組んで沖縄に向かい、最終的に大鳳は沈んで、自分は何とか生き延びられました身なのに。あの時が最も幸せでした」
彼の言葉に私は笑い、お互いに肩を叩きあい、暫く笑い声は絶えなかった。
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