7.さあ、怪物のお通りだ
ついにそのときが来た。決戦の日だ。
胸に手を当てる。鼓動がドクドクと鳴っている。
観客席の方を見る。観客はあまりいない。
ガランとしているが、いないこともない。スタート地点よりも、ゴール地点に近い席の方が観客はまだ多いだろうか。
メディア関係者らしき者たちがいる。きっと、ワンダフルブレイバーの初陣を報じるために来たのだろう。私たちを見ようとはしていない。
アウェーな雰囲気だ。
ワンダフルブレイバーとその他有象無象の天馬たち。
観客たちも、メディアも、みんなそういう風にしか思っていないのだろう。
当日の人気も、当然ワンダフルブレイバーがぶっちぎりで一番人気だ。二番人気の天馬と大差をつけている。
ちなみにスカイアンドホワイトは八番人気となっている。
全九頭中の八番人気。最下位から数えて二番目だ。
人気最下位もあり得ると思っていたのだが、どうやらそこまで悲観的になるほど人気が極端に低いわけでもないらしい。
まあ、とは言っても、思っていたよりマシってだけで、低いといえば低いのだけれども。
「……行こう、スカイアンドホワイト」
スカイアンドホワイトをゲートの方へ誘導していく。スカイアンドホワイトは素直に私の言うことを聞いてくれた。
スカイアンドホワイトは三番のゲートに入る。
というわけで、スカイアンドホワイトが着衣しているゼッケンも三番だ。
怯えていない? 大丈夫?
私はスカイアンドホワイトの背中を撫でて、気遣うように調子を確認してみる。
調子は、バッチリだ。闘志がこっちにも伝わってくる。
良かった。きみも興奮しているんだね。私も今、とても興奮している。勝ちたい、って思っている。
準備はオーケー。私もスカイアンドホワイトも本気だ。本気で勝ちに来たんだ。あとは、実力を発揮するだけ。
心配は捨てた。私たちは前を見る。前だけを見る。
そして、頂を捉えて、掴み取る。
私は空に憧れた。この大きな空に。
私は夢を見ていた。この大きな空に。
「勝つよ、スカイアンドホワイト!」
私はスカイアンドホワイトの背に飛び乗った。
いつも以上に景色が高くから見える。
遅れて、震えがやってきた。
緊張、している。興奮状態が続いている。
ああ、最高だ。最高な気分だ。
自然と笑みが溢れてしまう。
【天馬競争】で戦える喜び。スカイアンドホワイトといっしょに空を駆けることができる幸せ。
私は今、心が満たされている。
見たかった景色。やっと、見れそうだ。私はこのときをずっと待っていた。
空の世界を夢見たあの日から。空の世界へ私を連れ出してくれたあの日から。私は、ずっと待っていた。
黒い記憶。暗い過去。絶望色に染まった視界。苦しみの海に飲まれていく心。
それらをすべて一瞬で吹き飛ばした、出会い。
私はその天馬より、すごい天馬を知らない。
私の一番は、その天馬だった。
その天馬から一番を受け継いだ天馬。スカイアンドホワイト。
今、私の一番はここにいる。ここで、闘争心を燃やしている。
有象無象と思っている観客たち。メディアの人たち。今に見ていろ。
きみたちの一番を、私の一番が越えていく。今日、この場で。
ダメ天馬なんかじゃない。負け続けてばかりの血統なんかじゃない。
私たちは『最強』だ。それを証明してみせようじゃないか。
「……すごい顔だな。自分たちが勝つことを疑っていない顔だ」
開始まで数分が切ったとき、左隣のゲートに入っていた騎手に話し掛けられる。
たしか、左隣のゲートは――。
「……ワンダフルブレイバーの騎手のアルマールさん、でしたよね」
一番人気。注目の的。ワンダフルブレイバー。その騎手だった。
「そうだよ。キミは新人さんかな? 名を知ってもらえて光栄だよ」
アルマールさんは私を知らないようだった。
「キミに一つ言っておこう。アタシたちも負けられない。キミたちに勝ちは譲らない」
ルビーのように紅い瞳がキラッと光ったように見えた。顔から、アルマールさんの本気が伝わってくる。
「ワンダフルブレイバーはね、期待されているんだ。その期待に応えなくちゃいけない。負けることは許されない。負けたら、その期待を裏切ってしまうことになる。期待の目が、一気に呆れの目に変わっていってしまう。……アタシの気持ちがわかるだろうか」
どす黒いオーラ。アルマールさんの目は笑っていなかった。
このレースで負けたら、死ぬ、と言わんばかりの目をしている。
私は必死だ。必死だった。私たちは必死だった。
アルマールさんも、必死だった。必死だったんだ。
期待を抱かれた天馬の騎手になるということ。それ即ち、観客たちを失望させてしまうようなレースにはできないということ。
重くのし掛かってきてしまうプレッシャー。
想像しただけで、胸が痛みだしてくる。
アルマールさんは生きた心地がしないだろう。勝つこと以外は許されていないのだから。
同情はする。同情はしよう。
でも――私たちだって負けられない。負ける気はない。
私たちはいつだって勝つことに拘り続けてきた。
今さら相手の事情を知って、勝ちを譲るなんて、できるわけがない。できるわけがないんだ。
「わかりますよ。でも、私は怯えるより、楽しむことを選びます。楽しんで、勝つ。それが、私のやり方です。それに、私はスカイアンドホワイトのことを信じている。負けることは許されない? 私はスカイアンドホワイトが勝つとしか思っていないです。負けることなんて、意識の奥底に捨てました」
「……キミは、強いんだね」
そう言って、アルマールさんが顔を俯けた。
それ以降は私もアルマールさんもお互い何も言わない。沈黙が続く。
真剣だ。簡単には勝たせてくれないだろう。
私たちはどう駆ける。どういう作戦で行く。
思考する。
風の様子、天候、スカイアンドホワイトの調子から、最大限の力を発揮できる方法を考えるんだ。
天候は快晴。風は僅かにある。北向きの風だ。
ここ、アンネリア競争場のコースは、南にあるスタート地点から北にあるゴール地点を目指すコースとなっている。
向かい風。これをどう攻略していくかで、勝負が決まるだろう。
スカイアンドホワイトにとっては、やや不利な状況だ。
今までの練習からわかったこととして、スカイアンドホワイトのタイムは他の天馬たちと比較したとき、風にそこそこ影響されるということがわかっていた。
追い風のときは、凄まじいほどに加速していく。
しかし、向かい風のときは逆に、恐ろしいほどに減速してしまう。
風が僅かだったから、まだ救いようがあるが、強風だったら危なかった。いつもよりも、何倍、何十倍、何百倍と頑張ってもらわなければいけないところだったのだから。
私はふぅ、と息を吐いて、心を落ち着かせた。心を落ち着かせたために、頭の中が整理される。
これは遊びじゃない。戦いだ。
私たちだけじゃない。全員が各々の想いを抱いて【天馬競争】に参加している。
頂。それだけを目指して、やってきた。
これは想いと想いのぶつかり合い。想いが弱かった方が負ける。そういう勝負だ。
全員が全員、真剣だ。一着を取りたい、と願っている。
しかし、その一着を取れるのは、一人と一頭だけ。敗れてしまえば、『敗北した』という重荷を背負ってしまうことになる。
現実は残酷だ。たくさんの者の心を狂わせてしまう。
だから、狂わないような生き方をするしかない。狂わせられないようにしなければならない。
全員にそういう『足枷のようなもの』が装着されてしまう。
けれど、私はね、既に狂ってしまっているわけだから。
だから、もう、何も怖くない。
怖く、ないんだ。
これ以上、下がりようがない。これ以上、どん底に沈むことができる世界にはいないんだ。
上がる余地はあっても下がる余地はない。沈みようがないんだ。
私たちはやれる。私たちならやれる。
足枷がついてしまうのは苦しい。底に落ちるのは怖い。絶望したくない。
……と、私は思わない。
足枷なんて、無数についている。
底に既に落ちているから、怖さには慣れた。
絶望。私の人生は絶望だらけだ。絶望したくない、なんて思える余裕はない。
私が見るのは前だけ。前だけを見る。
最後方から、すべての騎手と天馬を捉えて、私たちはすべてを食らい尽くす。
私たちは狩られる側なんかじゃない。私たちが、狩る側だ。
「すー、はー……」
深呼吸。何度もそれをして、精神を安定させた。
私は一人じゃない。私にはスカイアンドホワイトがいる。
ミスを気にするな。圧に押し潰されるな。
私はスカイアンドホワイトを信じている。
スカイアンドホワイトも私を信じてくれている。
私たちは強い。誰よりも強い。
圧倒的な力。圧倒的な美しさ。スカイアンドホワイトは、それらを持っている。
私一人にはできなくても、きみといっしょなら絶対にできる。一番になれる。
さあ、私といっしょに、空で踊ろう。
「構えて」
小声でスカイアンドホワイトに言う。
私が言い終えるのと同時に、会場内にファンファーレが流れ始めた。
スタートの合図だ。始まる、始まる。始まってしまう。
【天馬競争】では、デビュー戦という位の小さい戦いでも、一番大きな賞『一級賞』と同じようにファンファーレは流れる。
『一級賞』と同じようにファンファーレが流れてしまうからなのか、それとも、もう次の瞬間にはスタートしてしまうからなのか、空気がさらに重くなってしまっているような気がする。その影響で、自分の拳に力が入ってしまっていた。
「笑って、勝とう。スカイアンドホワイト」
ついに、ゲートが開き、それぞれが一斉にスタートした。
想定通り、最後方からのスタートとなる。
ワンダフルブレイバーも予想通り、二番手を駆ける天馬を大きく突き放して、先頭を駆けている。観客たちもメディアもみんな、ワンダフルブレイバーに夢中だ。
他の天馬や騎手たちも、ワンダフルブレイバーにどうやって勝つか、だけを考えている。みんながみんな、ワンダフルブレイバーしか見ていない。
私たちのことは誰も見ていないらしい。
私は愉悦するようにニヤッと笑ってみた。
そうだろう。そうだろう。誰も私たちのことを脅威になる存在と思わないだろう。
でも――そんな存在が後ろから段々と迫ってくる場面になったとき、きみたちは漸く私たちの恐ろしさに気がつくことになる。
きみたちが警戒をしていない、最後方で殿をしている存在は――『怪物』だってことをじわじわと思い知らせてやろう。
さあ、『怪物』のお通りだ――。