2.頂点を目指して
スカイアンドグレードと出会ったあの日。
クレナイに連れられたあの日。
あの日から、私とお姉ちゃんは【逆バニーズハウス】の一員となった。
【逆バニーズハウス】という名前を初めて聞いたとき、私は自分の耳を疑った。「いかがわしい店」、私が最初に思ったものは、それだった。
だが、その【逆バニーズハウス】だとされる場所を実際にこの目で見たとき、私が思っていたものと目の前に広がっていたものはまったく異なる雰囲気を放っていた。
長閑な牧場。私の目の前には、天馬たちがのびのびと空を舞っている、楽園が広がっていた。
なんだ。なんだ、これは。なんなんだ、これは。
衝撃的だった。
楽園はすぐそこにあった。
私はあの日から、やれることはなんでもやり、【逆バニーズハウス】に貢献しようと奮闘し始めた。
やれることはなんでもやり、とは言うが、もちろん、いかがわしいことは断じてしていない。というか、そんなものはない。
全うな天馬を主としている牧場なのに、何故、このような名前なのだろうか、と以前クレナイに訊ねたときがあった。
クレナイ曰く、【逆バニーズハウス】はクレナイとクレナイの身内で設立されたらしい。クレナイとクレナイの身内の一部は元々セクシー女優だったというなかなか異色の経歴だ。
だから、【逆バニーズハウス】なのだと。
「だから、と言われてもわからない」と、そのとき私は訊ねていた。
すると、クレナイは「この名前に深い意味はない。仲間が酒屋で酔っ払っているときに適当に言っていた名前を他の仲間が悪ノリで申請してしまっただけだ」と答えてきた。
私は頭を抱えた。
とりあえず、改名した方が良いと、私はクレナイに提案してみた。すぐにクレナイに却下されてしまった。
良いのだろうか、改名しなくて。
ピンクなお店と勘違いして訪れる客が多少はいるらしい。事業内容は至極全うな牧場経営なのだから、もう少し真面目な名前にした方が良いとは思う。
と、何度思っても、もう思い入れのある名前になってしまったのだろう。だから、変えられないのだろうと思う。
スカイアンドグレードの名前も、きっと、思い入れがあって変えられなかったのだろう。
クレナイは情に脆い人間だ。情に脆かった故に、私とお姉ちゃんはクレナイに拾われた。情に脆かった故にスカイアンドグレードという天馬に、期待を込めていた。
情に脆かったクレナイが偶然にもあの暗くて狭い地獄に迷い込み、私とお姉ちゃんに偶然出会って、私たちを連れ出す。
偶然と偶然が重なって、私たちはここにやってきた。
この奇跡レベルの偶然の重なりがなかったら、私たちは今、路頭で野垂れ死に、壁や地面に付着した黒いシミの一部となっていただろう。
考えたら、ゾッとする。
今、私もお姉ちゃんも二人ともに生きているのは、奇跡なんだ。
だから、貰った恩を、クレナイとスカイアンドグレードに、返さないと。
そう、思っていたのに。そう、決めていたのに。
「……レア。……シャレア」
「……おはようございます」
「魘されていたようだな」
クレナイが私のことを起こす。
ああ、そうか。私は魘されていたのか。
夢を見ていたのだと気がつく。悪夢。悪夢だと思いたい、夢を見ていた。
そうだ。これはきっと夢だ。現実ではない。
なんて。現実逃避をしてみる。だけれども、これはきっと夢ではない現実。
現実は、残酷だ。
現実に永遠はない。いつかは、終わりがきてしまう。
それを受け入れられなくて、受け入れがたくて、私はわざと夢に引きこもろうとしてしまう。
夢、とかいう曖昧なものにすがりついて、自分の納得のいく状況になるまで現実を忘れようとする。
このままではいけない。また、あの頃に戻ってしまう。
わかってはいるのに、夢の中の世界へ逃げようとしてしまう。
ダメだ。変えられない。私は昔のままだ。逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げるだけのあのときと同じだ。
「自分を責めているようだが、スカイアンドグレードが死んだのは誰のせいでもない。ただの事故だったんだよ。だから、気を落とすな。と、言ってもそれは無理な話か」
クレナイがフッと煙草の煙を吐く。もくもくと煙が上昇していった。
沈黙が続く。お互い、何も話さない。
元々、私もクレナイも話すのが苦手なタイプの人間だ。
だから、進んで話すことはない。
一見すると、冷えた関係性のように見えるかもしれない。
だが、私とクレナイはこう見えても気まずい間柄ではない。
むしろ、いっしょにいると安心する。
気心が知れた間柄だから、会話をしなくても、関係性が維持されていく。
しかし、今日のクレナイの様子は何処かちがった。私を気に掛けているように思える。
だからなのか、私の目をよく見ているし、口ベタながらも積極的に私と話そうとしてくる。なんだか、申し訳ない気がしてきた。
「クレナイ」
「なんだ」
「……ごめん」
「はて? 何故、謝った。謝ることなど、何もないだろう」
クレナイは気にしていないようだが、私が気にしてしまうので、私のためにやはり謝罪しておく。
私は私のためになることをする。私は、私を優先してしまう。
私とは、そういう人間だ。
私は私のために行動するし、私は私のためになることを一番に考える。
下劣な考え方だ。最低だ。最低で、最悪だ。
この考え方は、あのどうしようない地獄のような路地で学んだ考え方だ。
生きるために必死だった。死なないために必死だった。だから、このような考え方が染みついてしまったのだろう。
昔の私は笑えていなかった気がする。
今はどうだろうか。
今の私も、笑えていない気がする。
怖さと苦しさで、笑えないんだ。
凄惨な過去。それがフラッシュバックしてきてしまって、私のことを捕まえる。逃げて、逃げて、逃げてばかりの私を捕まえる。
私は凄惨な過去から逃げられない。きっと、この苦しみをずっと抱えて生きていくのだろう。
「シャレア」
「……なに」
「スカイアンドホワイトがお前を待っている。クヨクヨしている暇はない。私はもう行く」
クレナイが去っていく。
過去を引き摺っている暇はない。今、という時間はどんどん進んでいく。どんどん進んで、過去を置き去りにしていく。過去の世界に閉じ籠ったままではいられない。
それが、クレナイの考え方。私とは正反対の考え方だ。
「……うん」
私は私のために動く。私のために必死にならなければならない。
必死になるために。私は、そろそろ過去とは決別しなければならない。
過去の弱い私のままじゃない。私は強い私になる。強い私にならなければならない。
あの天馬に、相応しい人間にならないと。
「……立ち止まっている暇はない。しっかりしないと」
パンパンと頬を手で叩いて自分に喝を入れて、前を向く。そして、深呼吸をする。
気持ちは晴れない。塞がったままだ。
暗い気持ち。身体が重たい。
けれど、私は前へ進む。私の英雄が、本当に英雄だったんだって証明するために。
立ち塞がる暗い気持ちを押し退けて、押し退けて、外に出る。
日差しが眩しい。
空が、私を呼んでいるような気がした。
眩んだ目を守るように片手で太陽を遮り、空の向こうを見る。天馬たちが優雅に飛んでいる。
そこで、思い出す。
あのときの、情熱を。あのときの、衝撃を。
滾る心。急に胸の内が熱くなる。
どうしてだろう。塞がっていたはずの心が、元気になっている。
ここで終わってたまるか。私たちの伝説はこれからなんだ。
と、身体が私自身に訴えている。
挫折? なんだそれは。
なんだ、それは。
ちがう。何もかもがちがう。
惨めな気持ちを味わい、そのまま世界からフェードアウトをする人生――それで良いわけがない。
負けない。負けたくない。勝って、勝って、勝ちまくってやる。
道は潰えた。どん底にいる。
……だから、どうした?
這い上がってやる。何度でも、何度でも。
世界よ、震えろ。『誰にも期待されていなかった天馬』が『一番』をかっさらう、未知の神業に。
「おはよう。スカイアンドホワイト」
厩舎の中。私はスカイアンドホワイトに朝の挨拶をする。
スカイアンドホワイトは私の挨拶に応えるように鳴き声を発した。
きみも滾っているんだね。勝ちたい、って顔をしている。闘志を燃やしているのが伝わってくる。
スカイアンドグレードは無念にも散ってしまった。
伝説となるはずだった天馬は、伝説となれずに空よりも遠い遠いところへ飛び立ってしまった。
悔しいだろう。悲しいだろう。苦しいだろう。
なら。私とともに、その無念な思いをぶつけていこうじゃないか。
伝説にしてあげることができなかった不甲斐ない人間と、スカイアンドグレードの子ども、スカイアンドホワイトがタッグを組んで、世に知らしめてあげようじゃないか。
『スカイアンドグレードは伝説の天馬だったんだ』って。
「スカイアンドホワイト。私はきみと世界の頂点を取る」
私が決意を口にすると、スカイアンドホワイトは私の思いに応えるように翼を広げ始める。
『一番をいっしょに取ろう』と、言っているのかもしれない。
気合い充分。私たちならできる。
スカイアンドグレードは私にとって英雄だった。
なら、今度は私が誰かの英雄になる番だ。
「ねえ、知っているかな。スカイアンドホワイト。英雄というのはね、いつも遅れてやってくるものなんだ」
遅れてやってきて、颯爽と助ける存在。それが、英雄。
私は今まで、凡人だった。
何もない、何もできない、何も秀でていない。
お姉ちゃんにはたくさん迷惑を掛けた。
私が出来損ないではなければ、お姉ちゃんはもう少し楽に生きられたはずだ。あの薄暗い路地で生活することもなかったはずなんだ。
ダメダメで才能のない私。【天馬競争】で一勝もできず世間から【ダメ天馬】の烙印を押されたスカイアンドグレード。
私とスカイアンドグレードは似ていた。
けれど、私とスカイアンドグレードには大きなちがいがあった。
私は誰かの英雄になれたことはないが、スカイアンドグレードは誰かの英雄になることができた。
それが、私とスカイアンドグレードのちがいだ。
「……行こう、スカイアンドホワイト」
これは出来損ないの私と世間から出来損ないの烙印を押された天馬の子どもがタッグを組んで、【天馬競争】の頂点に君臨し、出来損ないと言われた天馬は実は凄かったんだと世に知らしめるまでの物語なのだ。