アリュート山
朝方のまだ柔らかい日が木々の隙間から光の帯となって差し込んでいる。
前夜のうちに麓から少し山中を進み、道が険しくなる手前で野営をしたリーとアーキスは、夜明けとともに川沿いを上流へ向けて歩き出していた。
川の水を見ただけでは汚染されているかどうかはわからず。もし上まで登ってもそれらしい原因が見つからなければ、所々の水を採取しながら戻り、護り龍に協力してもらって汚染場所を絞っていくほかないかと話していた。
レジア村の住人の話では、少し前までは山の恵みを集めに山に入る者も多かったそうだが、今はその時期でもないらしい。尤もそのお陰か山道はふたり並んで歩けるほどの幅があり、きちんと踏み固められていた。
ネルは嫌な空気だと言っていたが、今この時点では普通の山中でしかなく。朝早いこともあり、冷えて張り詰めた空気を感じるのみだ。
暫くは特に何事もなく登っていたふたり。異変があったのは中腹に差し掛かった頃だった。
アーキスとふたり、どちらからともなく足を止める。
緩やかな傾斜の道はほぼまっすぐに続いていた。ふた跨ぎほどの幅になった川は左下を流れている。高低差はリーの身長程度だろう。右側には道沿いに木々が続き、その根元も地面も膝丈ほどの下草に隠れて見えない。
背の剣に手をかけようとすると、横からアーキスに腕を押さえられ、代わりに抜いてくれた。
「俺が先に出た方がいいと思うけど」
剣を手渡しながらの言葉に、わかってると肩をすくめる。
ふたり並べるとはいえ、この道幅、片側に大きな段差、上には木となると、自分が好き勝手に剣を振り回すわけにはいかない。小回りが利き、動きも少なく戦うことのできるアーキスの方が向いている。
「任せた」
「了解」
己の剣を抜きながら、アーキスは右前方を見据えて頷いた。リーもまた剣を構え、なるべく広く全体を意識する。
一歩、また一歩と前へ進むアーキスが三歩目を踏み出した時だった。
ガサッと茂みが鳴り、揺れる。同時に小さな黒い影が飛び出した。アーキスの足元を掠めるように走り抜けたそれは、弧を描くように向きを変えて再び茂みの中へ駆け込んでいった。
反応はしていたが避けるだけで斬るのをやめたアーキスは、二歩下がって動きを止める。茂みは暫くガサガサと揺れていたが、やがて葉擦れの音もしなくなった。
もう動く様子がないと判断し、アーキスはリーの隣まで戻る。
「アルミラージだったね」
「んでこんなとこに……」
呟き、リーは息をついた。
少し体格のいいウサギの額に一本の角がついたような魔物、アルミラージは本来もう少し標高の高いところに住む。ここも山中ではあるが、少なくともこんな中腹にはいるはずがない。その上―――。
「今確か子育て時期だろ?」
「それに一匹じゃないよね」
ふたり、顔を見合わせてから道の先を見据える。
「…この先か」
独り言のようなリーの呟きは、水音に紛れて消えた。
剣を手に、リーとアーキスはアルミラージに襲われた少し手前に立っていた。
アルミラージは六の月から翌年一の月が終わるまでの間は出産と子育てのために巣に籠もるが、凶暴性が増し近付くものに襲い掛かるようになる。
本来なら中腹にいないはずのアルミラージがこんなところに巣を作っているのは、おそらくその習性を利用しての人払いのためだろう。そのつもりで準備さえしておけば、単調に向かってくる親を生け捕るのはそう難しくはない。後に子を捕まえ、配置したい場所に掘った穴に放してやればいいだけだ。余程環境が悪くない限り、アルミラージはそこを新たな巣として定着する。
ふたりで話し合った末、リーたちは襲い来るアルミラージを掃討しながら進むことに決めた。
ここにアルミラージを連れてきた者たちが使う道がどこかにあるはずだが、それを探す時間も惜しい。川の中を歩くという手もあるが、もちろんこれも多少手間取るだろう。そして何より、この先何かあって保安や助けを呼ぶことになったとして、このままでは怪我人が出かねない。寒い時期は山中に入らないとは言っていたが、普段は村人たちも来る範囲内でもある。万が一の可能性を放置しておくわけにはいかなかった。
人の勝手で連れてこられて倒される親はもちろん、残される子も気の毒だが、せめて後に本来の生息域に帰してもらえるよう伝えておくつもりだ。
「じゃあ行くよ」
「ああ」
細身の剣をどこか無造作に構えたアーキスが先陣を切った。
先程と同じ場所に踏み込んだアーキスに向け飛び出した黒い塊。予想通り同じ軌道上を来たアルミラージを下から掬うように斬り上げる。ギッ、と短く鳴きながら跳ね飛ばされたそれは、木の幹に当たりボタリと落ちた。続けて数歩進むと再び茂みが揺れ、直後に真横から飛び出してくる黒い毛玉の胴へと切っ先を合わせたアーキスは、触れた瞬間そのまま突き刺し、同じように茂みへと振るい飛ばした。
うしろから行くリーは茂みへと飛ばされたアルミラージの絶命を確かめつつ、血と足跡をできるだけごまかしながら進む。
先にいるかも知れない何者かに、少しでも侵入を悟られないように。時間を稼げるように、痕跡をなるべく消して。
アーキスもまた、道上になるべく血溜まりを作らないよう配慮してくれていた。
五匹目のアルミラージを仕留め、更に進むアーキス。暫く行って何も出てこないことを確認してから足を止めた。茂みに横たわるそれの命が失われていることを確認したリーも、続いて立ち止まる。
茂みの方を振り返り、アーキスは無言のまま視線を落とした。
距離を詰めて並び立ち、リーも同じく茂みを見やる。
―――命を奪う理由も、そのやり方も、乱暴なものであったと思うが。
「あとでまた」
「うん」
アーキスもまた請負人である。返す声には迷いも後悔もない。
剣を鞘に収め、ふたりは踵を返し歩き出した。
アルミラージの道を抜けてからは一言も話さずに、必要なことは目線と身振り手振りで伝え合い進む。戦闘において声を出せない状況もあり得ることから、請負人同士なら伝わる定形の振りを養成所時代に教わっていた。多少の指示はそれで事足りる。
道なりに進むうち川幅は更に狭まり、高低差もなくなった。道もまたひとり分ほどに細くなっている。
ふと視界の端に違和感を感じ、リーは足を止めた。同じく足を止めたアーキスが、川向こうの木々を指し示す。
隙間を埋めるように乱立する木々の奥に視線を向けると、木の幹に近い茶色に塗られた小屋が見えた。
息を呑み、頷き合う。
明らかに作為を感じる造りのそれは、村人たちの作業小屋ではあり得ない。
ここか、と内心呟き。
リーたちは川をひと跨ぎで飛び越えた。




