憎悪と謁見の知らせ
この度は『松春軍師伝』を読んでくださりありがとうございます。
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また、作者が一昨日まで原因不明の発熱があったため更新が遅れました。
すみません……。
体調管理も同時に努めてまいります。
どうぞ、今後とも『松春軍師伝』をよろしくおねがいします。
明朝、松春はいつも通り街の共用井戸から天秤棒に吊るした二つの水桶に並々に水を入れ、欠伸をかみしめながら家まで少しも零さぬよう運んでいる。
「おはよう、春。
昨夕の神楽舞は本当に綺麗だったよ。」
五十路ぐらいであろうか。温和な雰囲気をもち、松春よりわずかに高いぐらいの背丈で細身で男性にしては少しばかり華奢な体格をしている。亜麻色の衣をきっちりと着ているところから真面目な性格がうかがえる。白髪交じりの肩につくかつかないかぐらいの長さの髪をもち、その髪をゆったりとまとめて髷にしており、服の着方とは真逆の印象を受けるがそれでも洗礼されたものに感じるのは男性の気品によるところが大きいのだろう。目尻が下がり気味の糸目に仙人には及ばぬが毎日手入れをしていることがわかる形の整えられた少し長いきれいな顎鬚が特徴的である。
「おはようございます、風慧老師!
いえ、嵐然老師の神楽舞に比べたらまだまだですよ。」
「そんなことはないさ、然の若いことに比べたら断然に無駄な動きのない洗礼された舞だよ。
もっと自分の才に自信を持ちなさい、春。
それが君の悪い癖だよ。」
松春は明るく元気な声で風慧という男に挨拶した。そして二言目には嵐然という男の名を出し、遜った言い方でその嵐然という男を褒めた。そこで松春の謙遜の言葉にもっと自信を持つように諭している風慧は、松春の頭を優しくなでた。松春は、嬉しそうにそして少し申し訳なさそうな思いを抱えながら優しい笑みを浮かべて、自身の頭上にある風慧の男性らしいごつごつした風慧の温かい手を素直に受け入れた。
親からまともに愛情を注いでもらえなかった松春にとって、師事している老師たちは父親のような存在であるためこうして風慧に頭をなでられたことは心の底から嬉しいと感じていた。できることなら老師たちが望むような自分になりたい松春は日頃から思っているのだが、やはり長年あの家族の下で生きてきた松春にとって植え付けられてきた心的外傷は計り知れないものであった。
あの家族から物理的に離れることが一番なのは松春も痛いほど分かっている。しかし、老師たちの下では連れて帰られ老師たちの立場が悪くなるのが容易に想像できるので最初から選択肢には入っていなかった。緑陵の外には伝手なんてものが松春には一つも存在していない。かといって四日前に出会ったあの御仁に頼ろうにももう何処にいるか分からない。
(それに、あの御仁に頼ろうものなら破格の待遇に決まってる。
私にはそんな価値があるわけないのに……。
しかも、着ている物から香の香り、言葉遣い、仕草から上級階級の貴士族なのは明白……。
仮に頼ったところでもし私が何かの過ちを犯したり、失敗したらあの御仁の顔に泥を塗ることなってしまう……。
とてもじゃないけどこのことは誰にも頼ることができない……。
だからこうやって老師たちから可愛がってもらえるだけで十分だ。)
松春は老師たちに申し訳ないと罪悪感を抱きながらそれを表に出さないように笑顔という仮面を張り付けた。老師たちがどれだけ自分を我が子のように可愛がってくれているのは痛いほど松春は分かっている。だからこそ、松春は罪悪感を抱いた。老師たちに今までの恩返しがすることができない自分自身に対して憎悪の念を抱くほどに……。
「春と慧じゃねェか。
何やってんだ、こんなところで。」
風慧と同年代であろう男が松春と風慧に話しかけてきた。
男は堀の深い顔立ちをしており、吊り上がった太く濃い眉と三白眼の杏仁のような形した目をしている。体格も良く、初老の部類に入る年代には見えないほど鍛え上げられた筋肉のある体つきである。太く、硬く、真っ直ぐな髪の毛と鬚で、風慧よりも黒くパサついた髪をしており、外の作業に深く関わっていることが容易に想像できるほど健康的な小麦色の肌をしている。濃い灰色を混ぜたような青い衣を無造作に着ているところから大雑把な性格なのだろう。しかし、それでいて松春や風慧に見せた真っ直ぐすぎる眩しい笑顔からどこか憎めないような人なのだろう、松春も風慧も男に笑いかけた。
「然じゃないか、いや昨日の春の神楽舞がすごかったから本人を褒めていたのさ。」
「確かに昨日の舞はすげェ綺麗だったもんなァ、さすが俺の生徒だ、春!! 」
風慧は松春に見せていた優しい初老の微笑みから、少年のようないたずらめいた笑みで嵐然に話しかけた。その内容に嵐然は確かにと同意した。
風慧と嵐然は幼馴染で、諸事情により齢十五でこの街に二人だけで移り住んだそうだ。お互いのことは何でも知っており、互いに信頼しているその姿にそのような関係性の同年代がいない松春にとってはすごく羨ましく憧れの存在であった。
松春と風慧の会話に納得した嵐然は松春の頭をゴシゴシと音が出そうなぐらいに豪快に撫でた。少々頭が痛いがそれが嵐然なりの愛であることを理解している春は嬉しそうに笑った。
(これであの人たちからの理不尽な暴言や暴力がなかったら最高なんだけどな……。
ないものねだりなんてするものじゃないな、どうせ叶いもしない望みなんだから望むのなんて無駄でしかないんだから……。)
嘘偽りのない純粋な笑顔から少し悲しみと諦めの含んだ笑みに変わった。嵐然はそのことに気づかずに松春の頭を撫でているし風慧も二人のやり取りを見て柔らかな笑みを浮かべている。老師たちにできるだけ心配をかけたくない松春にとってはすごく安心できる要素であった。
「そういえば今日は昼前から昨日の宴に来た王都からのお偉いさんへの謁見があるらしいぜ。
なんでもそのお偉いさんってのが軍部の中枢にいるお方でまだ若い上に独身なもんだからあわよくば玉の輿に乗れるんじゃねェかって話だ。
男も女も今はこの話で持ち切りだ。
全く、そんなに上手くいくわけねェの分かりきってるのに何でこうも此処のやつらは浮かれてるんだ。」
嵐然は思い出して風慧と松春に今この街で持ち切りになっている話をした。その際嵐然は呆れ口調で話した。そして、嵐然はこの謁見で浮かれている街の人たちに嫌気がさしていた。
「仕方ないさ、この戦乱の世で平民ほど不安になる階級層はないよ。
大きな戦になれば男手は戦に駆り出されるし、この国が戦で負ければ他国の奴隷になる場合もある。
平時の時も重税を課せられる場合もあるんだ。
叶う可能性が低くてもそういった甘い夢物語に縋りたくもなるさ。」
明らかに街の者に嫌悪感を抱いている嵐然に先ほどの柔和な表情や少年のような純粋無垢な表情ではなく、少し怖い表情で風慧は嵐然を諭した。現実主義者の風慧にとって、このことに怒る嵐然に納得が出来なかった。だからこそ、風慧は硬い表情で嵐然の考えに反論した。
「そういうもんなのかァ……。
そういやァ謁見場所は広場で簡易的な天幕を用意してその天幕の中で行うみたいだぜ。
さっきの慧の話で仕方がない部分もあるのは分かったが、此処のやつらはあまりにもがめついからなァ……。
お偉いさんがかわいそうだ。」
嵐然は風慧の話に納得できていたが、緑陵の人間たちの人間性の問題で謁見するお偉いさんを哀れんだ。
「確かにそうだな……。」
「そうですね……。」
嵐然の話に風慧と松春の二人は苦笑いを浮かべ、目を泳がした。
「春、そろそろ家に戻った方がいいんじゃないか?
お前の家なら必ずこの謁見を行いたいだろうから準備をしているだろう……。
早く戻って準備を手伝わないとまた理不尽な折檻を受けないといけなくなるよ。
さあ、急いで。」
この風慧の言葉で松春はハッと驚き、急いで家に帰ることにした。
「では、風慧老師、嵐然老師、また後で!! 」
松春は天秤棒を急いで持ち上げ、肩にかけて二人の老師に別れの挨拶を告げながら小走りで家に向かった。