性別と価値観
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「これが、私たち卑しい身分の者の運命ですから……。」
松春は目線を斜め下に落として顔を少し俯き、翳りゆく声でそう言った。
しかし、松春は本来そのような身分ではなかった。
年子で生まれた松春の妹、松夏が美女として産まれてきたからだ。松夏は赤ん坊の頃から目鼻立ちが通っていて可愛らしい子であった。
そのため松春の両親はそんな松夏に付きっきりになった。
町の者も皆、松夏を可愛がった。
他の土地から来た者は松春を可愛がってくれたがその者たちは可愛がると同時に松春を哀れんだ。
『お主が男子であれば……。』
松春を可愛がる者たちは皆口を揃えてこういうのだ。
松春は学問に才があった。特に兵法に関しては天才と言える領域である。
そのため松春は法家や思想家、商人に医者、軍師などに元々就いていた人たちや現在も活動している人たちから膨大な専門知識を教わっている。
しかし、どんなに才能があろうともどんなに努力しようとも結局のところ性別が女というだけでまともな扱いを受けれることは今の時世ではありえないことである。
それでも今はマシな方であると言えるだろう……。昔は女性というだけで行動制限が厳しかった。
昔と言っても先々代の主上の時代までのことであり、女性は未婚なら父親か男兄弟が、既婚者なら夫か息子の監視下でしか農作業をすることも出来なかった。それ以外は基本家事をするか布を織るのが女の仕事だった。
それが先帝の時代で徐々に緩和され、今は女性でも科挙試験や官吏の在任、そのための学校に通うことや武人になることもできるようになった。
しかし、規制を緩和されたところで長年の常識はなかなか変わらないものである。
規制緩和がされた今も官僚や官吏、武人を目指す女性は裕福な家庭に生まれ勉学や武術を好み、理不尽や奇異の目で見られ、それを耐え続けながら目指さなければならない。
結局のところは周りの重圧や心ない言動によって挫折することが殆どである。
これでも貴士族や大商家の者たちは幾分かはマシであろう。
平民は違う。平民には昔の価値観がそのまま根づいている。
平民にとって理想の女性は“無知で夫に従順な人”である。それが女性にとっての“徳”なのだ。
だから松春に知識を与えた者たちは皆、松春を哀れんだのだ。
例えどんなに学があろうと庶民の女が生活していく上で何の利にもならないのだ。
それどころか貴士族以上に奇異の目で見られ、嫁の貰い手など皆無となる。
(結婚適齢期であるにもかかわらず私に浮ついた話なんて一つもないからな……。
まあ、あの人たちは私を夏の下女として一生働かせたいのだろうから私に結婚話なんてない方が好都合だろうな……。)
まるで他人事のように自身の立場を思い返し、心の中で自嘲した松春は開き直ったのだろう……。
次の瞬間には何事も無かったかのように顔を上げた。
松春は既に諦めているのだ。
自身が幸せになることも、長年自身を虐げてきた家族に復讐することも、自分が欲しいものを手に入れることもだ……。
「……事情はわかった。
しかし、お前を一人にするのはこの国に仕えている者として放ってはおけぬ……。
よって今晩は私たちと共に過ごしてもらうぞ……。
それでよいな、松春。」
男の有無も言わせない提案というより命令に松春はどうすることも出来ないと判断し、素直に首を縦に振った。
兵法・・・戦略・戦術に関する用兵学、軍制・経理 に関する軍制学の総称。
法家・・・法律家。中国の春秋時代に、治世の根本 が道義などでなく政治・法律・経済にあると説いた一派。
思想家・・・様々な思想・考えに関する問題を研究
し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人。
軍師・・・軍中にて、軍を指揮する君主や将軍の戦
略指揮を助ける職務を務める者のことである。 知将、策士などとも言われる。このような職務を務める者は、東アジアでは古代から軍中にみられた。
時世・・・時代。移り変わる世の中。
科挙・・・中国で行われた官吏の採用試験。隋 に始まり、清朝の末期に廃止された。
官吏・・・旧制度下での役人。特に、国務にたずさわり国家に対して忠実・無定量の勤務をする公法上の義務を負う者。
武人・・・軍事を職とする人。武士。軍人。
官僚・・・官僚とは、国家の政策決定に大きな影響 力を持つ国家公務員。「官僚」の語は、語義的には「役人」と同義語であるが、一定以上の高位の者ないしは高位になり得る者に限定して用いられることが多い。
貴士族・・・貴族・士族を両方同時に意味する言 葉。
徳・・・身についた品性。社会的に価値のある性質。善や正義にしたがう人格的能力。