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第3話 桐の柱箱を投げつけられる。



 私はいまはギターメインだけど、元々は母にお(こと)を教わっていた。


 お箏の業界「箏曲界(そうきょくかい)」には、流派と会派がある。


 流派は江戸時代に出来た、国内の京・大坂方面と江戸の文化の違いや、演奏の場の違いから派生した、大きな枠だ。前提、と言ってもいい。


 それとは別に会派がある。では会派とは何か?


 会派とは、流派の中に於ける近代以降の著名奏者の、お箏の演奏に対するアプローチの違いからできたサークルのような集まりが発展したものだ。

 剣術などの「○○一門」みたいなものだ。


 現在のお箏の世界は、その「会派」が大きな力と発言力を持っている。


 もちろん会派に所属しなくても、ライブハウスなどで演奏したりだとか、個人的な活動をすることは可能だ。

 しかし人に教える資格や、大きな演奏会、メディア関連の繋がり、更には音大などの教育関係までも、各会派が握っている。


 数ある音大の先生方も、どこかの会派に所属している。大抵が彩の所属する最大会派の先生方だ。そして音大の卒業生は、卒業とともにその会派の教師資格…つまり「業界に認められた、生徒さんを採り教える資格」が与えられる。



 私の母の所属の会派は、彩の家とは違う会派だ。それでも二番目に大きい会派と言われている。


 彩の通っていた大学の講師は、ほぼ全員が彩の所属と同じ会派だった。

 それもその筈。

 その会派の家元がその大学の邦楽科箏曲専攻を立ち上げたからだ。


 ただ、必ず一人は私の母が所属する会派の講師が在籍することになっている。


 会派が違うと言っても、江戸時代の古典曲や近代の曲は同じ曲を演奏する。

 同じ曲だけれども、会派それぞれ譜面が少しだけ違う。曲の解釈も違う。また昭和以降の現代曲は、会派独自の曲が増える。お互い知らないケースが出てくる。

 教える資格の所得も、演奏主体か座学が多いか、他にも細かいところで違いがある。


 母は、所属する会派ではそれなりに名のとおった奏者だった。家元の直弟子に教わり、選抜の合奏団で演奏したこともあったという。

 彩の家には足元にも及ばなかったが、それなりに表立った活動はしていた。


 そんな母だけど、私に無理にやらせようとはしなかった。何より、私には教えたがらなかった。

 けれど私は、母の練習する音をそれこそ生まれる前から聴いていた。母は幼い私に、弾き歌いで子守歌を歌ってくれたし、私はと言えば、そんな母にくっついて転寝したことも一度や二度じゃない。

 こうして母が弾く姿を見、音を聴いて育った私は、小学生も半ばの頃、どうしても母に教わりたいと思い自分から教授を願い出た。



「やりたいなら他の先生についたら?母娘というのはね、難しいのよ。私情が入り過ぎてね。甘すぎるか厳しすぎるか、どちらか両極端になってしまうのよ」



 母は何度もそう言った。だけど、私の想いはただお箏を弾きたいだけではなかった。



「私は、お母さんのお箏を継ぎたい。だからお母さんじゃなきゃヤダ!…ううん、嫌なの。お月謝も…お小遣いからだけど、払う!…はらい、ます!」



 母は驚いていたが、複雑そうな表情を浮かべ、それでも何とか頷いてくれた。


 こうして私は、小学4年から高校3年まで母に教わった。高校3年間は、一人で練習し始めたギターと並行だったけれど、お箏も同時に続けた。稽古代はバイトで稼ぐようになっていた。

 母は私が形だけでも月謝を払っていたこともあり、教授時間以外の自主練時間は、一切口を出さなかった。いま思うと、あんな雑な練習に口を挟まないとはなんとも我慢強いと思う。


 それだけじゃない。

 すぐそこで自主練し、母も聴いている筈なのに、教授時間にはこう言った。



「梨絵さん。その手は教えてないですよ?他の会派の演奏を見ましたね?この曲は、そちらと私たちの解釈は違います。もちろん、私の元を離れたらその手を覚えても良いですが、いまは私たちの解釈を一曲通して覚えてください」



 まったく、自主練を知らないフリだ。しかも「梨絵さん」ときたもんだ。


 そう。母は教授開始の礼をした途端、先生と生徒という立場に切り替えていた。その時間が終われば、秒で母娘の会話に戻ったけど。


 この時の指摘。その真意。


 他の生徒さんの自主練は、母は見ることができない。あくまでも、お箏については生徒として皆と同じように扱う。私情を挟まないようにする、母なりの工夫だったのだろう。

 そんな環境だったから、有無を言わさずやれという世界は、私は無縁だった。



 対して、彩は…。



「お稽古もお浚い会も演奏会も、常に真剣勝負だよ。人前なんか特にそう。頭取り続けてきた家系の子って、お偉方はみんな知ってるからさ。お稽古は常に勝負への備え。上手く出来ないと、桐の柱箱(じばこ)や座布団飛んできた。起きてる間はずっとお箏でそんな感じ。教室の他の子が遊んでても、母は怒らない。むしろ遊んでいるのを喜んでる。対して私は、いくら頑張っても怒られる。叩かれる。柱箱も飛んでくる。『あなたには進まねばならない道がある。他所の子とは違う』って。免罪符みたいにね。そんな日常」



 それは軽く、いや、相当な虐…。


 というか、柱箱(じばこ)だよね?あの桐の箱だよね?布の()ケースじゃないよね?


 柱箱というものは、お箏の糸を張る時に立てる柱を仕舞う箱だ。

 練習の時この柱箱は、お箏の弾く側の下に敷く。お箏の端を少し持ち上げるための台になるのだ。だから、硬くて頑丈。四隅の角も尖っている。

 筆箱を投げられる方が、まだマシなくらいだ。


 そんなものを投げつけられたら、ケガは避けられない。そこまで行くと、ちょっと、普通じゃない。


 彩はそんな私とは全く正反対の世界にいた。

 お箏も伝統芸能の一つだ。この世界は、家元やそれに準ずる家の話として、そんな風に育った人もいると聞く。


 でも。

 こうして実体験として聞くと、何も言葉が出なかった。


 同時にここまでガチの芸事の家ではないにせよ、私は母に感謝した。母の言っていた真意が、初めて胃の腑にストンと落ちた気持だった。



「いま考えると、相当ヤバいよね。でもさ、芸事の家では、そこそこある話だよね。で、私バカだったからさ。芸事の家あるあるくらいに思って。もっと言えば、期待の表れとも勘違いしちゃってたんだよね。で、縛り付けられるようにして、毎日毎日弾き続けた。その結果は梨絵も知っての通り。ジュニアも獲って、一般でほんとのほんとの頭獲って。13歳だったかな。」


「それでトップになれるのも凄いけど…実際、どうだったの?彩の気持ちとしては」



 彩は手を止め、ため息をつく。そして自嘲気味な笑みで言った。



「気持ち…ね。そう、その時ね『ああ、おばあちゃんとお母さん、喜ばせることができた』って、嬉しかったんだよ。バカだよね。でもさ、同時にやっぱ、ホッとしたんだ。やっと解放されると思って。だってその間、ずっと受験勉強してるようなもんだよ?子供らしい遊びなんてしたことない。友達もお箏の子だけ。お稽古や演奏会で会うだけ。虐待に近いこともあった。楽しい訳がない」



 3歳から延々、受験対策講座を無休で受けている状態。しかも、逃げることも辞めることも許されない。


 なんだその地獄。


 彩の笑みはいつの間にか消えていた。



「で、頭取ってさ。もう『訓練』としてのお箏弾かなくていいんだ、好きにできる。そう思った。そしたら、今度は頭に居続けろって。例えると、閉じ込められ続けて、逃げられるスキ見つけて動いたら捕まった。そんな感じ。これって、ずっと耐えるより心を打ち砕かれるよ。おまけに外からは、恵まれてるだのもっと先行けるだの、やっかまれたり羨まれたり勝手に期待されたり、好き勝手言われてさ。もう、殆どロボットだよね。心殺さないと、一歩も動けなかったよそれからはさ」



 今度は守れと言われる。格式とか家柄とか、色んな付加価値を掲げて周りは言う。けれどこれって、結局は親や支援者のエゴでしかないじゃないか。


 それにそうして持ち上げられれば、当然目立つ。目立てば敵も増える。でも恐らく、ガードしてくれる人はいない。


 なんだそれは。闇しかないじゃんか。



「大学入って。院にも行って。やっと一昨年卒業して、本当に解放された。先輩のお手伝いでライブハウスで演ったり、TVや映画で弾いたり演奏指導したり。したらさ、楽しいのね。自分で選んだ場って。やっぱ楽しいんだよ。そうすると不思議だね。お箏が、音楽がさ、楽しいってやっと思えるようになってきた。20年以上やって、やっと人前の演奏や教えることが楽しいって思えた」


「お箏弾くのが、楽しくなってきたの?でも、なかなか弾かないよね。今でも」



 少し本意を窺うように彩に聞いてみた。

 意地の悪い問だったかも知れない。でもどこか、彩が無理をしているように見えたんだ。

 そこまで心に深いダメージを負って、本当に楽しいと思えているのだろうか?

 普通に考えれば、そこまで深く負った傷がそんな簡単に癒える訳がない。



「…梨絵だから、本音言うね。ううん、これは梨絵にだけは知っておいてほしい」



 彩は前置きをし、私を見つめて言った。




私の経験や出会った人をイメージソースにした短編を、「鏡の中の短編集」というシリーズにまとめています。よろしければ、マイページよりご覧ください。

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