階段下のマリアンヌ
「あーもう本当に久しぶり!ローで別れて以来よね!?」
「ほんと!こんなところで再会できるだなんて思ってなかったわ!」
全く、なんたる偶然だろう。玄関先で思わず私達は盛り上がってしまった。まさか、夫の仕事の関係で越してきた近所に、大学時代の親友であったレイラが住んでいただなんて。
レイラとは、高校から大学までずっと一緒だった友人だった。ホラー映画鑑賞とショッピングが趣味、サークルでもオカルト研究会に所属して随分盛り上がった記憶がある。大学卒業と同時に、私は就職のために都会に出てしまい、彼女とはそのまま疎遠になってしまったのだが。まさか十年以上も過ぎた今になって、このような形で再会できることになろうとは。
昔から美人であったレイラは、今でも三十代後半とは思えないほど美しかった。長い金髪をそよがせて男達を魅了する姿は、往々にして同性の嫉妬と羨望を集めたものである。金髪は白髪になるのも早いなんて話も聞いたことがあるが、彼女の場合その心配は全くといっていいほど必要ないようだった。相変わらず長く美しい髪をひとつにまとめ、モデルのように颯爽と歩く彼女。きっと大学卒業後も相当モテモテの人生を送ったことだろう、と思う。冴えないガリ勉メガネであった私と親友であったのが、今でも奇跡と思えるほどだ。
しかし、家に上げてもらってリビングでコーヒーを貰いながら聞けば。今の彼女は、結婚はしていても子供はいないのだという。
「えっと、もしかして訊いちゃいけない質問だったかしら?」
家族で住むのに充分な広い一戸建てだ。てっきり子供の二、三人はいるとばかり思っていたのである。
子供が欲しくても出来ない家なんていくらでもあるし、もう十年も過ぎているのなら子供ができたけれど死んでしまった、なんてことも可能性として有り得るだろう。不謹慎なことを尋ねてしまったかもしれない、と私がしょんぼり肩を落とせば。
「ち、違うのよアデル!ごめんなさい、なんか変に気を使わせちゃったかしら」
私が何を考えたのか察したらしく、レイラは慌てて手を振って否定したのだった。
「私、弁護士をやってるの。旦那は医者。お金には困ってないんだけど……どっちも仕事でいっぱいいっぱいでね。特に旦那の方は、救命救急の方の仕事だから家に帰れないことも少なくなくて。そんな状況で子育てなんて大変でしょ?今はベビーシッターとかいろんなサービスはあるけど、出来る限り自分の子供なら自分で面倒見たいものだし」
「まあ、そうかもね……」
「それに、仕事で手一杯ってのは悪いことだけじゃなくて。私も夫も、凄く今の仕事にやり甲斐を感じてるから……今はそこに全力投球しておきたいというか。子供に時間をかけるより、自分達のことを頑張りたい気持ちが強くなっちゃって。私もそろそろ年も年だし、子供を考えるならギリギリなのはわかってるんだけど……お互い納得してるのよ。このまま夫婦二人で、のんびり仕事を頑張りながら生活するのもいいかもね、って」
「なるほど」
人生は、人それぞれだ。昔ならば“女性の幸せは結婚して子供を作ること”なんていう考えもあったかもしれないが。今は昔と違って、女性もバリバリに働いて夢を追いかけることも少なくない時代である。子供がいない夫婦なんていくらでもいるし、結婚さえしない選択もありなのだろう。同性同士で愛を交わし、ずっと二人で生きていく者や、養子を取る者もいると聞いている。異性で結婚して子供を作って、だけが人生の幸福ではないのだ。
私は結局法律を学んだのに司法試験に受かることはできず、事務の仕事をしながら結婚して子供を作って、という平凡な人生を歩むことにはなったが。それはそれ、幸せなので何も問題はないと考えている。息子達はやんちゃ盛りだし、夫は時々お酒で失敗するのでそれだけは頭を抱えるけれど。貧乏だったり暴力だったりで悩んでいる多くの家庭と比べたら、私の悩みなんてきっとちっぽけでささいなものに違いないのだ。
「子供がいないのが不幸、なんてこともないものね。生涯現役で弁護士として頑張れるなら、それもそれで幸せだし……凄いことだと思うわ。頑張ってね、レイラ」
「ええ、勿論よ」
そんなことを話しながらコーヒーを貰い、お菓子と食べつつテレビを見て若い女の子のように盛り上がる二人。今だけは、学生時代に戻ったような気分だった。私の子供達は学校に行っているし、夫は会社。家の家事は多少残っているものの、時間が全くないわけではない。せっかく再会した今日くらい、ハメを外しても怒られないだろうと思っていた。
――あら?
そんな私が、ふと庭を見て気づいた違和感。そういえば、まだ今日は家の中を案内してもらったものの、庭には一度も出ていなかった。視界の端に映った赤いものが気になって目で追えば、それは小さな子供用のブランコではないか。
――子供、いないって言ってたわよね?なのに、ブランコ?
芝生で覆われた庭は、子供が走り回って転んでも怪我をしない作りになっているように思われる。ただ気になるのは、庭の木造の塀が少々高すぎるのではないか、ということだ。
この近辺は、低層住宅のみが建てられるエリアとなっている。背の高いビルなどはないし、それこそヘリコプターで上空から見下ろしでもしない限り庭の中を覗かれることはないだろう。そう、まるでその高すぎる塀は、周囲の家から庭を隠しているようにしか見えないものであったのである。
こうしてリビングから庭を眺めても、特に隠すようなものがあるとは思えないのに。
「ん?どうしたの、アデル」
そんな私の視線に気づいてか、レイラが尋ねてくる。いえ、と私はブランコを指差して訊いてみることにした。
「子供いないのに、ブランコがあるなって思って。あれ、作るの大変そうなのに」
「ああ、あれね……」
一瞬。彼女の目が鋭くなったように見えたのは気のせいだろうか。
「元々は、私達も子供を迎えるつもりだったのよ。だから妊娠もしてないのに、旦那がはりきってブランコ作っちゃって。せっかちよね。結局、誰も使わないままになっちゃいそうなのに」
誰も使わない。果たしてそうなのだろうか。私は曖昧に頷いたものの、内心では首を傾げていた。
誰も使わないブランコを、いつまでも庭に置いたままにするものだろうか。しかも、その言葉通りなら、ブランコができたのは彼女が結婚してすぐ、数年以上は昔の話であるはずなのに。
――あのブランコ、鎖も全然錆びてないし……綺麗に手入れされているように見えるのは、何故かしら。
***
彼女は、何か隠し事をしているのではないだろうか。
そう思うようになったのは、斜向かいにある彼女の家の前に、しょっちゅう大きいなトラックが泊まっている現場を目撃するようになったからである。
何か、大きな荷物を運び込んでいる様子であった。引越してきてすぐというわけでもないし、これから引っ越すわけでもない。家電を買い換えたとしても、そんなに頻繁に買い換えるはずもないというのにだ。
――子供は、いない?本当に?
最初に訪れた日から、感じている違和感。
子供がいないはずなのに、玄関先に三輪車が置いてある時がある。
時々、真昼間にも関わらずカーテンが全て締め切られている時がある。
さらに時折、塀で囲まれた庭先から、子供のようの甲高いはしゃぎ声が聞こえる時がある――などなど。
明らかに、小さな子供がいるとしか思えないような空気を感じることがしばしばあるのだ。最初は小さなひっかかりくらいだった違和感は、彼女の家に遊びに行ったり、近くを通るたび大きくなっていくのである。
トドメが、庭先に吊られた洗濯物。
子供しか着られないような小さな服が吊られている現場を、一度ならず二度、三度と目撃している。
――何かしら。酷く、胸騒ぎがするわ。
調べたのは、彼女の家の前に頻繁に泊まっているトラックの運送業者だ。ブルー・レイ・トレイン運送。あまり聞いたことのない社名である。ホームページを見る限りでは、この州に密着した小さな運送業者であるという話だったが。
同時に引っかかってきたネット掲示板で、こんな噂も見つけてしまうことになる。
『ブルー・レイ・トレイン運送ってマフィアと繋がっているらしいぞ!それも現地だけじゃなくて、イタリアとの遠いところのさ!』
『臓器売買とか児童売買とかに加担してるって噂があるんだけど、マジ?』
『なんか、絶対に開けてはならないヤバイ荷物、ってのを承ることもあるとかなんとか。生きた人間なのかクスリなのか……なんかそういう現場を見たことがある人がいるんだと!』
これがただの嘘ならば、風評被害もいいところである。拡散力もさほどない小さなネット掲示板なのだろうが、しかし社名で検索して引っかかってくる以上大問題なのではなかろうか。マフィアと繋がるような影響力の大きい会社なら、こんな掲示板を放置しておくとも思えない。内容も眉唾すぎるし、きっとこの会社をよく思わない人間がデマでも振りまいているのだろう、と思われた。
ただ。
児童売買。その言葉にほんの少し、ぎょっとしてしまったというだけで。
――い、いやいやいや。そんなことあるわけないわよ。ないないない。こんなのただの噂だわ。大体、高いお金で子供を買って彼女は何をしようっていうのよ。
ちらり、と思い出してしまったのが、彼女の夫の職業である。
法律のエキスパートである妻と、医療のエキスパートであるはずの夫。その組み合わせで、最悪の犯罪を思いついたらどうなってしまうのか。
――ま、まさかね。
いつも明朗快活で、友達も多くて、元気いっぱいだったレイラ。彼女が、子供を買って傷つけるような真似などするはずがない。そもそも子供を傷つけるために買う人間ならば、ブランコや三輪車、子供用の着替えまで用意しておく必要などどこにもないではないか。
否定できる材料も、ないわけではない。それでも一度浮かんでしまった疑念は、そう簡単にぬぐいされるものではなかった。それこそ足下から、ぞわぞわと小さな虫が這い上がってでもきているかのように。
***
その日もまた、私は彼女の家に呼ばれてお喋りに興じていた。相変わらず彼女は太陽のような笑顔で出迎えてくれ、美味しいお菓子とコーヒーを振舞ってくれる。
そういえば、こちらに越してきてから、彼女の家に招かれることは多かれど、私の家には一度も招いたことがなかったことに気がついた。彼女がそれとなく、“お喋りするなら私の家がいい”と持ちかけてくるからである。まあ、私も片付けが下手なので、人を招くのに少々抵抗があってお言葉に甘えさせて貰っているというのもあるのだが。
――隠し事、なんかないわよね。そうよ、やましいことがある人間が、そうそう人を家に招き入れたりするわけないじゃない。
もっと言えば、三輪車を見える位置に置いたり、子供の着替えを干しておいたりと、まるで私に見せつけてでもいるかのようではないか。こっそり子供を買って玩具にしていてそれを隠したいというのなら、もう少しバレないように子供の道具を隠すフリくらいしそうなものである。
やっぱり、自分の思い過ごしだったに違いない。私は安堵しながらも、日が落ちてきたのでお暇することにしたのだった。今日の夕食のスープは、少し長く煮込まなければ美味しくない。家族が帰って来る前に、準備を終わらせておかなければ。
「ごめんなさい、レイラ。そろそろお暇するわ。……と、その前にトイレ借りていいかしら」
「どうぞどうぞ。一階の、階段横よ」
「ありがとう」
トイレを借りるところまでは、良かった。問題はトイレから出て、荷物を取りにいくべくリビングに戻ろうと、階段の横を再度通り過ぎた時である。
ドン、と。大きな音がしたのだ。はっとして私が見た先には、階段下の収納スペースがあった。階段の下のスペースを、物置に使う家は少なくない。この家もきっとそうであったのだろう。だが。
ドン。
ドン。
ドン、ドン、ドン、ドン!
その、木造の戸の向こうから、音がするのだ。まるで何かが繰り返し繰り返し拳を叩きつけているような音が。
「な、何!?」
そこで、私は気づいた。
ただの物置ならば何故――この小さな戸に、南京錠を三つもつける必要があるのか、と。
――な、中に。何かがいるの?
その時、私は嫌な想像をしてしまった。
トラックがこの家の前に来ていたのは一度や二度ではない。彼女はもしや、何度も何度もどこからか“売られて来た子供”を買い取って自分の家で遊ばせていたのではないだろうか。
そして、用済みになったり、隠しておきたくなった時。こういう場所に子供を押し込めて、監禁するようなことをしていたのだとしたら。そしてさらに、時を見計らって――。
――い、いや、いや!レイラがそんなことするはずないじゃない!私は、何を考えてるの!?
しかし、もし本当に何もないというのなら。この戸の向こうから叩きつけてきているものは何なのか。
彼女は一体何を、南京錠で閉じ込めていると?
「アデル」
ぎょっとして振り向いた。その向こうには、リビングから私の荷物を持ってきたであろう、レイラの姿が。
「もう、遅いからお腹でも壊れたのかと心配したじゃない。どうしたの?ほら、荷物持ってきたわよ」
「あ、あ……」
階段下のドアに叩きつけるようなこの音は、当然レイラにも聞こえているはずである。しかし彼女はいつもと変わらぬ笑顔で荷物を私に渡してくるのだ。私はおずおずとそれを受け取りながらも、戸の方を見つめて尋ねようとしていた。喉がからからに乾いて、まともな音になってはくれなかったけれど。
「……ああ」
そして、私の意図に気づいた彼女は。
「ただのネズミよ。困ったわよね、最近、煩くって」
何を言っているのだ、この人は。この音が、ネズミが何かを齧る音に聞こえるとでもいうのか。
唖然とする私の前で。まるでレイラの声に反応したかのように――音は、ぴたりと止まったのである。恐怖するかのような、沈黙の後。レイラは貼り付けた仮面のような笑顔で再度繰り返したのだ。
「ネズミなの。気にしないで?」
一体私に、それ以上のことをどう訊けたというのだろう。私はそのまま、お礼もそこそこに彼女の家を飛び出したのである。
恐怖の正体は、はっきりしていない。それでも確かなことが一つだけある。
裕福で明るい友人の中に。私は何か、とてつもない闇を見てしまったのだと。
***
レイラが逮捕されたのは、この半年ほど後になってからのことである。
彼女は身寄りのない子供達を違法なやり方で買っていた。そして、適当にもてなして楽しませて飽きたら、最後は好き勝手に“玩具”にして殺して庭に埋めていたのだという。
『自分が幸せな家に引き取られた、天国のような場所に行けた。そう安心した瞬間、子供ってとっても素敵な笑顔を見せてくれるのよね。……実はそこが、地獄よりもずっと恐ろしい場所だと気づいてしまった、その瞬間も。その落差を見るのが、私はたまらなく好きだったの』
彼女が言うほど、彼女の事務所の経営はうまくいっていなかった。最初はただのストレス発散だったのが、どんどんエスカレートしてしまったのだと彼女は罪悪感のかけらもなく笑いながら語ったのだそうだ。
そして同時に、そんな家に頻繁に私という名の友人を招いた理由も。
『いつ気づいて指摘してくれるかなあって思って。……疑心暗鬼になっている彼女の顔もとても興味深いものだったし……全てを知って絶望する顔を見せてくれたらきっともっと楽しいと思ったのよ。残念だわ、階段下に気づいて以来、彼女は私の家には来てくれなくなってしまったものだから……』