第二輯 新選組、輪王寺宮を救うこと
◆ 第二輯 新選組、輪王寺宮を救いにかかること
○ 一
なんだか天に人がいて、ぶちまけたのかと思うような雨だ。
雷光は、いよいよひどくなっている。斜面では、雨水が土と小石を巻き込みながら、滝のように流れていた。
仁右衛門は水を吸って柔らかくなった足下に注意しながら、降りていった。
宝玉が、体にうまった砲弾の破片を、追い出そうとしていた。その痛みに耐えていると、
『いまや、内府に残る犬士は、お主だけだ』と八房が言う。『祟り神に対抗できるのは、うぬしかおらぬ。けして命を落とすでない』
「総司とて、おるではないか」
『沖田めは、勇の珠を奪われた。今のあやつでは――』
と八房は言葉をのんだ。
「義の珠さえあれば、それで総司は救えるはずだ」
『では、近藤勇は死んではおらんのだな』
と八房が言ったので、仁右衛門はこの犬を穴があくほど見つめた。
『持ち主が死ねば、宝玉は鉄の玉くれだ。お主も知っていよう』
仁右衛門にはなんとも言えない。彼は、近藤の首が落ちるのをこの目で見たからだ。
斜面を横に進んでいくと、お堂があった。岩壁にくりぬいた洞穴の上に建っていて、遙か下方には八つある諸門の一つがある。穴稲荷門である。
ここは神木隊(榊原脱藩隊)が守っていて、池を渡ってくる官軍と激しく戦った。今は、それらの姿もなく、石畳の坂のあちこちに、彰義隊のものらしい死骸がいくつも転がっている。激戦地であった。官軍の攻撃で、堂社が損壊している。燃えているものもあったが、この雨で沙汰止みだ。
不忍池に面したこの社殿は、忍岡稲荷である。石窟の上に本社があったため、穴いなりの通称で江戸庶民に親しまれてきた。
焼け落ちた文殊楼からも、黒門からも近い。
穴のいなりまでか……
「狐だ……」
社の境内に、真っ白な狐がいくつも佇立している。
黒門を抜かれ、文殊楼も焼け落ち、側にあった穴稲荷に立てこもった連中だろう。稲荷坂に横たわる死体に、稲荷神たちが、ひっそりと寄り添っているのが見えた。
『こいつは驚いた。お主わしらが見えるのか?』
と狐の一人が言った。これも宝玉の力だろう。
彰義隊の者とみて、みな集まってきた。
白狐は、宇迦之御魂大神の神使である。その霊狐の中に、ひときわ大きなのが混じっている。
『弥左衛門』と八房が言った。『力を貸せ』
『ええい、犬の指図はうけんわい』
と弥左衛門は突っぱねた。この弥左衛門には、江戸初期より名があり、次のような伝承が残っていた。
寛永寺の開山により、住処を追われた狐たちの代表であった。弥左衛門は天海僧正に上野の現状を訴えた。天海はこれを哀れに思い、狐たちのために大きな横穴を掘ると、これを住処として与え、上に稲荷神の社を建てた……
その忍岡稲荷の祭神たちが、死に絶えた江戸っ子たちの死を悲しみ、頭を垂れているのである。
『すまぬ、わしは江戸っ子を守れなんだわい』
と弥左衛門狐は雨に打たれながら頭を下げた。
「なにをいう。我々こそ、ふたたび住処をうばってしまって、すまぬ」
白虎は、ふと仁右衛門を見た。
『お主、御家人か……いや、お主は……』ここで弥左衛門は黙り込み、八房を見た。『力を貸せとな』
『いかにも』
八房はくわえていた伏姫を仁右衛門にそっと渡した。伏姫は気絶しているのか眠っているのか。仁右衛門の腕に、ずっしりとした重みが掛かる。
「む」
と仁右衛門は、ちゅ大法師に顔を寄せた。法師の体の傷口から、血がまるで流れていないのである。死んでいるのか、と思ったが、息はある。
「どういうことだ?」
『そやつはわしらより古いイニシエの者ぞ』
と弥左衛門が言った。
『さようなことを申している場合ではない。伏姫をみろ。かわいそうに凍えておるわ』
八房に言われて、仁右衛門は自分の不覚に気がついた。伏姫をとりまく布はぬれそぼり、唇は紫に変わっている。
『こっちだ』
弥左衛門が案内にたった。
境内の少し奥に、天海が掘ったという由来の洞穴がある。その脇には、弥左衛門を祀る社もあった。仁右衛門も子どもの頃から親しんでいたから、土地勘はある。
洞は、ひやりとして暗かった。ここに逃げこみ、かなわじとみて、腹をかっさばいた侍たちの遺体が、二、三あった。
弥左衛門は、伏姫のために霊符を用意した。仁右衛門は濡れた布を剥ぎ取ると、伏姫の髪や皮膚から水気を落としていく。
「この子は何者なのだ。本当に伏姫なのか?」
『その子は、依り代に選ばれただけだ。伏姫はまだ別に折る』
八房がいうには、伏姫は死ぬごとに、依り代に御霊をうつして、代々命脈をたもってきた。依り代は全国に散らばる伏姫の血縁から選ばれてきた。
「代々か?」
『何千年もだ』
それも結界を守るためだという。
仁右衛門が呻吟するうちに、ちゅ大法師が目をさました。
「ここは?」
「穴のいなりだ」
と仁右衛門は応えた。仁右衛門は、大石鍬次郎が逃げたこと、官軍が迫り、自分たちも退いたことを告げた。それよりも輪王寺宮のことである。
「宮は逃げておられんのか?」
と同じ感想をもった。法師は焦慮の色も濃い。
仁右衛門は、ちゅ大法師を見つめたまま、ただ待った。法師は、大きく吐息をつくと、ややあって昔語りをはじめた。
「全ては神代の御代であった」
遠大な話である。皇統すら存在しない遙か昔、世は呪詛に満ち、大地は穢土となって荒廃し、魑魅魍魎が跋扈する事態となった。これを天下りし男が祟り神どもを黄泉に封じたというのである。
その男は天皇家の元となり、その時男が従えた男たちの末が里見一族であった。
「馬琴の次は、古事記の真似事か」
と仁右衛門は吐き捨てた。何やら無性に腹が立ち、この狐どもに化かされたような気になってきた。なるほど祟り神も宝玉もこの目にしたが、世迷い言なら、食傷気味で目にも入れたくない気分だ。
「あれは裏の家人のことを聞き知った滝沢(曲亭馬琴、本名)が、戯作としてまとめたものだ。全てが事実に基づくものではない」
あの男も祟りにやられて視力を失いおったな、と法師は、嘆息する。馬琴一家に続いた不幸も本にあったのは八犬伝であったのかもしれない。
ともあれ、始皇と呼ばれた男が日本に張った結界も、永続する物ではなかった。天皇家と里見一族は、代々保全し、綻びを正してきたのである。
「無論里見一族以外の者も天皇家には仕えてきた」
表の政権と離れ、裏事をおこなうものたちは、いつしか裏の家人と呼ばれるようになった。
「近藤さんたちはそれか」
と仁右衛門はあきれたようにいった。京都において、表の警備は、見回り組が担当し、近藤以下新選組は、裏の働きにつくことを主とした。
「政権が武家に変わった後も、我々は裏の家人として歴代将軍家に仕えてきた。むろん裏の者供を封じ込めるためだ」
仁右衛門が目を剥いた。「歴代将軍家だと? それは徳川家も含むのか?」
無論、とちゅ大。
「公方様は、この事を知っておられたのか?」
ちゅ大法師は、もはやうなずきもしない。
「慶喜公はな、日の本を守るために、涙をのんで将軍職を辞されたのよ。裏の戦いに専念するためだ」
「何だと?」
「裏事をになうために、表の職を辞去なされたのだ。薩長では、魑魅魍魎は抑えられぬゆえ」
「じゃあ旦那は、裏の家人をまとめるために負けを呑んだってえのか」
「ことは徳川薩長に収まる話ではない。このまま結界が崩れればどうなる。夷狄に四海を囲われた状況で、祟り神を対手には出来まい」
馬鹿な、と仁右衛門は言ったが、その声は自分でもわかるほどに小さく揺れた。
「徳川のためにお主ができることは何もない。これからは日の本のために働け」
と法師の声はささやくようであった。
仁右衛門はやや呆然と視線をさまよわせた。確かに――
確かに鳥羽伏見以降の慶喜は、逃げの一手で将軍後見職以降に見せた権謀術数はかけらもない。
「これまで表におったのだ。受け入れがたきこともあろう」
と八房はいって、この新たな犬士を慰めるのであった。
○ 二
上野戦争が勃発したことを知り、ちゅ大法師と犬江新兵衛は、輪王寺宮の元に向かおうとした。伏姫とともに、宮を安全な場所まで連れ出そうとしたのだ。ために、義観と連絡を取り合っていたのだが、落ち合い場所にあらわれたのは、大石鍬次郎であったのだ。
「義観は裏切ったのかもしれん」
覚王院義観は、寛永寺の執当職の座についている男だ。僧侶としては最高職は別当だが、寛永寺では、二人の執当が、輪王寺宮の代理として、寛永寺の寺務を取り仕切っていた。将軍、老中とも用談を行う権威をもち、寛永寺は、幕府の出資で、大名への貸し付けを行っており、その権威はさらに高い。
元は農家の子であったが、学問をもって立身し、執当職までのぼりつめた。
輪王寺宮を教育し、僧らに対しては学頭も兼ねていた。が、気性は生来よりはげしく、交渉にあたった山岡鉄太郎も手を焼いていた。
東征軍来訪の際は、輪王寺宮とともに、駿府に赴き、慶喜助命の嘆願を行っている。このころより、にわかに主戦論者に変貌していく。
『輪王寺宮の元に向かおう』
祟り神に乗っ取られたままなら、大石も向かったはずである。
と八房は言った。
「弥左衛門殿」
とちゅ大法師は頭を下げた。頼む、というのである。
弥左衛門はぶつくさと言ったが、それでも奥に向かい、何事か祓え言葉を唱え始めた。
洞の行き詰まりには、小さな社がある。弥左衛門はその前に座っていた。ちょいと首を振ると、風がたちおこった。社の直前にグルグルと回る黒い円盤が現れた。
「これは?」
『霊道だ。他の稲荷社とつながっておる』
なるほど、江戸に稲荷は、どの武家屋敷、どの商家、どの町屋にもあった。伊勢屋稲荷に犬の糞といわれたほどである。市中だけで、数千にのぼる。
『お主らは遺体を守ってやれ』
と弥左衛門は、白狐らに言った。
仁右衛門は洞の入り口をかえりみた。雨はいよいよ激しい。ここで死んだ、御家人旗本どもの魂を感じるのである。
『わしも行くぞ、仁右衛門』
文句は言っても、そこは江戸っ子狐である。
弥左衛門は仁右衛門の傍らにたつと、ともに霊道に向かった。
仁右衛門が近づくと、霊穴には黒い靄が漂っており、ときおりかすかな稲光を放った。彼が意を決して足を踏み出すと、突如として入り口を広げ、仁右衛門はつんのめりながら、霊道をくぐり抜けていた。
五人の姿が消えた後、白狐らもまた姿を消し、穴の稲荷には静寂が戻って、後は雨の音がするばかりであった。
○ 三
覚王院義観は林光院の一室で、その女に詰め寄っていた。
「お主は、お主は申したではないか。彰義隊は必ず勝つと」
「馬鹿をお言いでないよ!」と女は突っぱねた。「女の戦所見なんぞ、あてにする馬鹿がどこにいる」
女が派手に右腕を振ると、袂が大きく跳ね上がり、義観の顔をかすめた。義観は当たった訳でもないというのに、その場に尻餅をついている。顔面は死人のごとく蒼白であった。
「だまし、だましたな玉目」
「たまたまと気安くお呼びでないよ。こちとら霞を喰って生きてるんだ。お前みたいな腐れ坊主に、意見をされる筋合いなんざ、あるもんか!」
玉目の剣幕に、義観はにじり下がる。
「わしは、わしはお主の言うとおりに、影武者を落としたんだぞ」
「ああ、だから、官軍には、ちゃあんと奴らの後を追わせた。おかげで、林光院に敵は迫ってないだろうが」
「だが、宮は」義観の唇はブルブルと震えている。「ここにいらっしゃる本物の宮様はどうなる? あんなわずかな武家で、守り切れるはずがない。宮様を落去すべきであったのだ!」
義観の瘧は、もはや全身に及んでいる。
「安心おしよ」玉目はケタケタと下卑た笑いを上げた。恐ろしいことに、こんなときでもこの女は美しく見えるのである。「輪王寺宮のことは、きっちり始末をつけてやる」
瘧が止まった。「始末だと?」
「そう、始末さ。あたしはね、あの西郷という奴腹がじゃまだったんだ。まるであたしになびこうとしない、やっかいなやつだからね。あの男がじゃまだった。薩摩の芋どもは、あの男を頂に結束してやがる。その点長州は与しやすし」にたりと笑う。「奴らは欲を持っている。皆、自らの欲を毒となして身を滅ぼす。お前のようにね」
玉目が手をさしだすと、義観は後ろ手にはって逃げた。玉目は、ケッ、と吐き捨てる。
「寛永寺の執当職についてさ。世が、自分の思い通りになると思ったんだろう。けどねえ、そんなのは全部勘違いさ。武家がその気になりゃ、お前みたいな生臭坊主の首は、どこをむくやらわかりゃあしない。そのときはもちろん、その胴体とは、お別れさ」
「お主は、やはりわしを……」
「だったらなんだい。今更お前になにができる! 執当のお前が、宮の呼び出しをはねつけたんじゃないか! おかげでみな! 寛永寺のこのざまを! 大名どもがコツコツ建てた三十六坊も、全部おじゃんだ」
玉目は、童女のように首をあおのけて笑った。
「何が、何がおかしい!」
「おかしくてたまらないね、この間抜け」
玉目は彼の顔に両の手を回し、この喉首を野花を揺らす春風のように優しく撫ぜた。そのまま玉梓の手は、義観の胴を這い、腰帯をしゅっとほどいた。義観はあっとわめいた。固くなった彼の陰茎が、あらわになっていたからだ。
「これから最後の仕上げだよ。お前は執当職として、寛永寺と江戸の最後を見届けるんだ!」
玉目は彼にまたがると、まぐわいはじめる。
「お前は寛永寺での栄華に固執した。お前は、自分の権威に執着した」玉目はその細腕で、義観の首を切りきりと絞めた。「徳川の世は終わったんだ!」
義観は夢中で玉目をはねのけると、ずり落ちた袴によろめきながら、廊下へとまろびでた。