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新撰組八犬伝  作者: 七味春五郎
1/2

真里見八犬伝

  序


 その処刑は、板橋宿――平尾、にて執り行われた。


 夜間、である。


 この時代、板橋宿は、江戸四宿の一つとして繁栄していた。中山道では、日本橋の次に来る宿場町で、川越街道の起点ともなっている。上宿、仲宿、平尾宿、の総称である。このうち、上宿にある大木戸からが、御府内、であった。


 深更にも関わらず、近隣の町民が集まっている。


 板橋宿は、刑場ではない。本当なら、付近の下手人は、小塚原に送られ裁判にかけられるところである。


 みな、この高名な武士の正体を、知らないのだ。


 竹で組まれた、簡易な刑場で、白布が敷きつめられている。その中央に、下手人が鎮座していた。そして、その下手人の目の前には、人の頭部がすっぽり入るほどの穴が開いており、布はご丁寧にその穴の中まで差し入れられているのである。


 仁右衛門は、刑場からはかなり離れた小籔の中から、体格のいい下手人からまんじりとも目が離せず、そのときを固唾を飲んで見守っていた。


 傍らには、土方歳三の他、佐藤彦五郎ら数名がいた。これらは、天然理心流日野道場の面々である。



 三つの篝火が、下手人の面貌をメラメラと照らしだす。新政府軍の兵士が、男を囲い、見下ろしていた。


 白装束にこそ着替えているが、切腹すらかなわない。が、下手人は泰然として、手を股に置いている。その心境を映す物は、なにもなかった。


 やがて、下手人が何かを口にし、大人しく首を差し出す段になった。


 土方がこらえきれずに飛び出しそうになる。仁右衛門らは懸命に押しとどめた。



 赤熊しゃぐまとよばれる赤毛の軍帽をかぶった男(色からして、土佐藩士だろう)は、下手人を土壇場にうずくらませると、大きく刀をふりかぶった。


 篝火に照らされる刀身、そして、仁右衛門の位置からは、下手人の髷しか見えぬと言うのに、その夢の中では、確かに男が顔を上げ、きっ、と自分を見ている気がした。


 やがて赤熊は裂帛の気合いとともに、刀を最上段からふりおろす。


 仁右衛門は思わず、夢の中で叫んでいた。


「近藤さん!」



 第一輯 奥村仁右衛門、仁の珠の犬士となるお話


   一


 ざーざーざざざー


 大粒の雨が、体を打っている。


 仁右衛門は夢から覚めた姿勢のままだ。虚空に右手を突き上げ、その涙に濡れた双眸は、未だ地に落ちた近藤の生首を見ているかのようだ。が、あれは、もう何日と前の話なのである。


 仁右衛門は右手を降ろし、体をまさぐる。


 身を横たえたまま、目玉をわずかに動かす。総身が痛み、呼吸をするのも億劫だ。


(一体、自分は、どこにいるのか――)




 眩暈がおさまると、朦朧とした視界の中に、樹幹がくっきりと浮かび上がる。

 茫漠とした意識がわずかに立ち直る。上野のお山か、と思ったときには、慌てて身を起こしていた。

 赤子の激しい泣き声が、いくさ場を引き裂くように、轟き渡っていたからだ。


   二


 辺りは一面水浸しで、泥濘の中に、具足を着た体が沈まっていた。パチパチ、パチパチ、木の爆ぜる音がして、見ると、御堂が火を噴き上げているのである。


 一体どのぐらい、気を失っていたのか。泥から腕を上げるのにも苦労した。にもまして厄介なのは、胴丸を貫通してくい込んだ、数発の弾丸である。


 敵弾を三発、立て続けに受けて倒れたことを思い出した。腹と胸に一つずつ。胴丸を貫通して食い込んでいる。それで怯んだところ、左の側頭を横殴りにされて、昏倒したのだ。


 痛みに堪えて身を返す。どうにか肘をついた。

 仁右衛門は、刀を探して這いまわる。


 地面は、敵味方が踏み荒らして、泥沼と化している。辺りには、仲間の遺体が、あちこちに転がっている。その仲間の血海と雨とが入り交じっているのである。


 不忍池をこして放たれたアームストロング砲の威力は凄まじく、仲間は散々に引き裂かれてしまった。

 仁右衛門はふと手を止めて、膝立ちのまま顔を上げた。


「いくさは終わったのか……?」


(彰義隊は負けたのか――)


 そのわりに、銃声だけは散発的に聞こえてくる。

 あたりは火気とともに、硝煙の香りが未だ漂い、鼻腔をさしてくる――


   三


 時節は、黴雨(ばいう)である。

 時は、幕末――

 所は、江戸。

 上野、寛永寺、境内であった。


 仁右衛門の奥村家は、御徒衆を代々続ける、歴とした御家人である。

 この二百年ばかり、徳川家の禄を食んできた。


 仁右衛門は、現当主だ。本人が死ねば、お家は断絶だが、彰義隊にノコノコと参加した困った男だ。

 御徒組――といっても、文久の軍制改革からは、御持小筒組と改称されている。以来、洋式銃砲の訓練を行ってきた。この男も、その変遷をたどって、生きてきた。


 やがて、その統率力を買われて、フランス伝習隊の隊長となり、長州征討、鳥羽伏見と、幕末の戦いを、幕府の命脈が尽きるまで続けてきた。その大半が負け戦であったが、ここ上野でも、この男は敗れたわけだ。


   四


 山内の伽藍が、続々と焼かれている。

 が、仁右衛門の関心は、徳川家の霊廟になく、赤子にあった。


 とまれ、仁右衛門は、刀を拾い上げると、燃えさかる文殊楼を後にし、声の出所を目指す。

 刀を杖に彷徨し、やがて官軍の捨てたとおぼしき新式銃を拾い上げた。

 うまい具合にスペンサー銃だ。


 スペンサーは後込めの連発銃である。弾丸は七発まで込められるはずだ。

 伝習隊で、操作は習熟している。


 弾倉はチューブ式になっている。後部銃床におさめられているのである。確かめると、二発の残弾があ

る。

 仁右衛門は、レバーアクションをして排莢する。ハンマーを起こし、銃床を頬に当てた。そのまま、わずかに腰を落とし、移動を開始する。


   五


 この、仁右衛門という男、元々、彰義隊士ではない。


 洋式訓練を受けてはいるが、元は直新影流の皆伝者で、長じてからは、牛込の試衛館で、近藤の食客となっていた。


 本人が御家人であるので、清河八郎の浪士組には参加しなかったが、試衛館の面々とは、ずっと剣を通じてのつながりがあったし、上洛のおりは、屯所に立ち寄り、親交を深めてきた。

 だから、江戸に戻って後は、伝習隊の脱走組には加わらず、甲陽鎮撫隊に、身を投じたのである。



 仁右衛門は、荒い息をつきながら、手近の幹に背を預けた。おもっていたより、傷が深い。血は胴丸にたまって、腰をおり、側線入りのズボンを染めあげていた


 仁右衛門は脇の紐をとくと、胴丸を落とし、より軽装になった。

 血が流れすぎたのだろう。痺れが手先に走る。

 仁右衛門は、木立を離れ、さまようようによろめいた。


 総司……


 植木屋に残してきた、沖田の姿が胸裡を埋める。悔恨があった。彼は、近藤の死を、沖田には告げずじまいで出てきたのだ。

 自分は飯もろくにとれんのに、近藤の心配ばかりして。奴は近藤の消息を知るためだけに生きているようなものである。


 医者ではない仁右衛門の見立てでも、総司はとても助からない。


 この二人、年が一つしか違わない。互いを意識し、切磋琢磨して生きてきた。  ふいに試衛館での日々が思い起こされて、仁右衛門は涙で胸を埋めた。


 多摩での出稽古の日々や、京での日々が、鮮やかによみがえる。


 彰義隊への参加をほのめかしたとき、沖田は彼を笑わなかった。


 が、今思うと、沖田は、これ以上、病み衰えていく姿を、自分に見せたくなかったのではないか。いや、自分こそが、あの強い総司が骨と皮だけになっていく様を見ていられなかったのではないか、と思うのである。


「卑怯者め……」


 仁右衛門は、そう自らを責めると、赤子の声に導かれるようにして、よろぼうていく。


 総司は江戸を守ってこい、と佩刀までよこしてきたが、江戸は守れず、早晩自分も死ぬことになりそうだった。


 総司、すまん、先にあの世で待っておくわい。


 仁右衛門は、決然顔を上げると、最後のいくさにのぞんだのだった。


   六


 慶応四年。

 五月十五日、のことである。


 江戸城は無血開城し、徳川慶喜は、すでに水戸へと去っている。


 が、彰義隊は、徳川家、霊廟守護を名目に、寛永寺に留まり続けた。

 薩長軍と敵対しては、政府軍兵士を殺傷する。そんな事件が、多発していたおりである。


 その新政府が、対旧幕軍の司令官として呼び寄せたのは、天才軍略家、大村益次郎であった。


 大村は、手始めに、上野山に総攻撃をかけることを、江戸中に布告した。


 市中に散らばる隊士を、一カ所に集めて殲滅すること、逃げる時間を与え、戦闘を回避することを、目的としている。

 事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には、千名ほどに減ってしまった。



 寛永寺は二百四十年間、江戸の鬼門を守り続けた、将軍家の菩提寺である。開府以来の隆盛を誇ってきた。が、それも、わずか半日の闘争で、地形が変わるほどに荒廃している。根本中堂はおろか、三十六坊にのぼる子院も五重塔も、大仏殿を要する伽藍も、灰燼に帰そうとしている。



 黒門にいた仁右衛門は、よく戦った。山王台から砲撃にくわえて、旺盛な射撃を見せ、官軍を諸門に近づけなかった。


 が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。

 時を同じくして、加賀藩邸に据えられたアームストロング砲が、不忍池を越して炸裂した。


 薩摩兵の決死の吶喊がはじまると、各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。

 圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は、寛永寺本堂まで退却している。

 仁右衛門は、生きたまま、戦場に取り残された。


   七


 今、彼は、スペンサーのみを頼りに、声の主へと近づいている。


 この体ではもう刀は振るえないだろう。銃床を頬に当て、いつでも射撃ができるよう、引き金に指を添えて慎重に近づいていく。


 声は、近い。

 辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。


 赤子の悲鳴に混じって、激しい剣戟の音がする。

 残存兵がいる、と思った。自分と同じく逃げ遅れた者だろう。


 声がいっそう高くなった。

 仁右衛門は巨大な樫の根元で、争う人影をみた。


 上下真っ黒な着物をきた男が、太い根の合間に倒れた男に向かって、刀を突き下ろすのが見えた。仁右衛門ははっとなった。黒づくめの足下にいて、救いを求めるように虚空に右手を突き出した男が、白髪の老人だったからである。どちらが官軍かはわからない。が、仁右衛門は老人を味方と思った。故郷を遠く離れた薩長兵にあんな老兵が混ざっているとは思えない。


(赤子は――?)


 いた。胸を貫かれ、あげていた腕をドッと落とした老人の側で、白布にくるまれた赤子が、盛大に声を上げている。


 黒づくめは剣を引き抜くと、血ぶるいをして刀をおさめている。その間に、仁右衛門はひそひそと距離をつめた。失血のため、視界がくらんできた。この距離では当てる自信がない。


 男が赤子に向かってかがみ込むのに及んで、仁右衛門は力を絞って声を荒げた。

「待て、その子から手を離せ!」


 男が鋭く振り向く。仁右衛門は雨のかかるまぶたを瞬いた。

「お前は……」


   八


 見知った顔、であろう。


 男は、江戸も江戸の者。日野の佐藤道場に出入りしていた男で、その後、近藤の隊士募集に従って、新撰組に入隊した男である。


 頬はこけ、髭が伸び、人相がずいぶん変わっている。だが、太い眉の下にすっと伸びた切れ長の目をみて、仁右衛門には何者かわかった。


 天然理心流を学んでいるが、元は小野派一刀流。

 腕は、立つ。


「お、お前は……」と仁右衛門は、もう一度言った。「大石鍬次郎ではないか」 

 甲州で死んだのではないのか、と仁右衛門は問うた。


 流山で参集したとき、この男はいなかった。みな、勝沼で命を落としたと思ったのである。

 前身は、大工であった男である。


 多摩の出稽古時代に、多少顔を合わせていたから、互いに認知してからは、ひどく長い。


 仁右衛門は手を合わせたこともなければ、ろくに話したこともない。土方の口ぶりからはあまり気に入っていないらしく、自然仁右衛門から近づくことはなかった。


 が、ある種の人物ではある。京に上ったのちは、あれよあれよという間に、人斬りとよばれる存在にのしあがった。

 功名心が、よほど強いのだろう。


 大石は、足下の老人に刺さっていた刀を、ぐっと抜いた。老爺は、ピクリともしない。絶命した、と見えた。

 仁右衛門は、銃床にそえた左の手を、そっとなでるようにまわした。雨で滑る。合間の水気を、とろうとしてのことだった。そのまま銃口は大石に向け、ピクリともしない。


 大石、無言――刀は重みに任せるように、水のたつ泥濘に落としている。

 あいた左の手が、そろそろと赤子に伸び――


「動くなら、お主の頭蓋を飛ばしてやる」仁右衛門は(こわ)い声で言った。「その子から離れろ……」


「奥村――仁右衛門、だな」


 大石はゆっくりと言った。手の動きは止まったが、赤子の上にかざしたまま上げようとしない。頬は痩せこけ、全身の肉が落ちている。ここまでの苦闘を物語っているかのようだった。


 仁右衛門はゆっくりと引き金の指をあげ、また沿わす。指のこわばりをとるためだったが、血の気が失せて、自由がきかなくなったこともあった。

 弾は二発……が、不発でないとは限らない。まして、相手は人斬りの異名をとった鍬次郎である。

 外せば……何が起こるかわからない。


 かすかに吐息をつき、

「ここで何をしている」

 と、問うた。


 大石が、少し唾を飲むような仕草を見せ、

「異な事をいう……わしは……」


「彰義隊士ではあるまい」 と決めつける。「その赤子、よもや貴様の子ではあるまい」


 眼光が射るように大石の眉間に集まっていく。引き金の指が落ちかけたとき、「新兵衛どの!」

 と声がした。


 仁右衛門は、思わずそちらに銃口を向ける。しまったと思った。大石は刀を地面に突き立てると、赤子を両の手で掻き抱くようにして懐に入れたからである。


 仁右衛門は、新たに現れた男に驚いた。頭のはげ上がった入道だ。手には錫杖をもち、僧兵ととれなくもないが、武器と見えるものは他に何も持っていない。


 戦場の死体を、拝みにきたと思われてもおかしくない格好だが、梢をつかんばかりの巨体である。

 仁右衛門が、男に気をとられたのは一瞬であった。


 大石に銃口を振り向け、飛下がる。両者から距離をおいてジワジワと下がるようにしながら、どちらも射程におさめられるようにした。


 二人は、仁右衛門の殺気に気圧されたように、動きを止める。連射のきくスナイドルであったのは、幸い。だが、僧を撃てば、はしこい大石である。


 たちまち逃げ去ってしまうに違いない。


「貴様。何者だ! 薩長腹の手の者か!」

 仁右衛門は大石を見たまま言った。


「銃口を奴に向けろ!」と入道が言う。「伏姫を奪われるわけにはいかん」

 ふせひめ? と仁右衛門は心中に問うた。あの赤子のことか?


「大石が、なぜその姫を狙うというんだ」

 と切りつけるように言う。大石から、答えは引き出せまいと知ってのことだ。が、その大石は、


「こやつは、表の家人だ」嘲るように笑う。「何も知るはずがない」


 仁右衛門の目は、大石に釘付けとなる。大石は顔をさくように唇をつり上げ、壮絶に笑っている。


(表の家人だと?)


「ふふふ」大石、目だけは笑っていない。「お前がここにいるということは、沖田のやつはくたばったか。馬鹿な奴だ」


「どういうことだ?」仁右衛門は息をのんで言った。もはや銃口は、大石にしか向いていない。「俺が沖田と一緒にいたことをなぜお前が知っている――歳さんに会ったのか?」


 大石は身をのけぞらせながら高笑いをした。「だから、貴様らはバカだと言うんだ。かたや、近藤、かたや幕府に踊らされ、それで何が残ったあ!」


 仁右衛門は、胸裡にあがった疑問に、心を乱される。銃口が、わずかに下がった。

「二人を同時には撃てまい」大石はわざと、袂をあけ、赤子の顔が見えるようにする。「その傷で当てられるか、試してみるか!」


 仁右衛門は大石の言葉を聞いてはいなかった。大石の開けた袂、そこにちょうど赤子の拳程度の玉が、首から紐でぶら下がっていたからである。


 ギヤマン、でもない。その玉は、自ずから、まばゆいほどの輝きを放っていたからだ。

 僧は目を剥いて言う。「貴様、貴様が、なぜ義の珠をもっている!」


 赤子の泣き声はもうしていない。目が見えるとも思えぬ大きさだが、ジッと宝玉を凝視して、身じろぎもしないのである。


 大石は、その赤子の上で、カッと、犬歯を見せた。「今はわしのものだ、ちゅ大法師」


「二人とも動くな!」


 仁右衛門は体を回して牽制する。

 ちゅ大法師とよばれた男が、かまわず前に進み出た。


「祟り憑きに落ちたか、鍬次郎!」


 仁右衛門は動けない。二人の動きを封じるには、彼はあまりに傷つきすぎていた。それにちゅ大法師という名、彼はその名に聞き覚えがあった。


「わしは、力を手に入れた――みろ、犬江新兵衛もあのざまだ」


 犬江新兵衛だと?

 ふいに、仁右衛門は合点がいった。この二人はさきほどから、馬琴の戯作の名を口にしていたのだ。


馬琴はこれより、二十年と昔に死んでいるはずである。だが、彼の残した戯作――南総里見八犬伝は、今も残り続けている。


 江戸期最大の作家にして、その最高傑作は、絵手本、紙芝居、歌舞伎、浄瑠璃など、様々に形を変えて江戸に浸透していたから、仁右衛門もおおよその物語は知っている。


伏姫とは、あの伏姫か――?


 仁右衛門は血のにじむ唇をかみしめた。腹部の弾丸は、内臓に達したと見えた。


 気力の尽きる前に、あの赤子を救わねば――


 大石は、

「動くな!」

 とわめいて、ちゅ大法師を牽制し、懐の赤子に、切っ先を向ける。


「伏姫を死なせたくはあるまい……それともまた生まれ変わるのを待つか?」


「卑怯者め」

 仁右衛門は大石よりも上に向けて、引き金を引いた。雨中に硝煙が、ばっと散った。仁右衛門は、銃の反動に耐えきれず、どっと尻餅をついた。


 仁右衛門の放った弾丸が、大石の少し頭上の幹を砕いた。


 大石は、破片を避けるように身を下げる。


 ちゅ大法師が、空を飛ぶようにして、濡れた大地を走った。錫杖にて打ちかかると、大石は左手で伏姫を抱えたまま、右手の刀で受けた。


 六つの遊環が揺れ、激しく鳴る。ちゅ大法師はその膂力を利用して、錫杖を押し下げようとしたが、びくともしない。


 ちゅ大法師は瞠目した。

 自分をにらみあげる大石の全身に、炎に似た痣が、真っ黒な入れ墨のように、浮かび上がってきたからである。


   九


 仁右衛門は呻きながらも、膝立ちとなり、スナイドル銃を拾い上げた。


(まだ弾丸は残っているはずだ)


 だが、再装填しようにも、その手はブルブルと揺れている。いや、全身が、瘧にかかったように、震えているのだ。

 仁右衛門は、投げ捨てるようにして銃床を地に着けると、手首をレバーにかけ、むりやり下に押し下げた。ガチャリという音がして、どうにか装填はできた。


 顔をあげると、ちゅ大法師を退けた大石鍬次郎が、鬼の形相をしてこちらに駆けてくる。


(あれは、人か?)


 我が目を疑いつつも、夢中で銃を引き上げる。両膝をついたまま、銃口を向けるが、大石は瞬足の間に迫っていた。もう撃てる距離ではない。


上段にかぶった大石の刀が落ちてきた。仁右衛門は激痛に耐えながら、銃を掲げる。


 激しい刃鳴りがして、大石の刀は木被の銃床に、ガッと食いこんだ。スナイドルは暴発して、二人は同時に顔を背ける。


 仁右衛門は銃を放してしまった。


(刀を――)


 大石は、束に手を伸ばす仁右衛門を、許さなかった。右肩を蹴り上げると、倒れたところへ、一刀袈裟斬りをみまったのだ。


 深傷である。


 仁右衛門は、声もたてずに、倒れこむしかない。

 大石はさらに一歩出て、とどめを刺そうとした。その背を、ちゅ大法師が打った。


「ぐううっ」


 と大石はうめいて振り向いた。なにせ雲を突く巨漢の一撃である。


 仁右衛門は最後の力を振り絞ると、大石の懐にむしゃぶりついた。


「貴様あ!」


 大石は仁右衛門を躱そうとするが、ちゅ大法師もさせない。大石の両の手をおさえ、動きを封じようとする。

 仁右衛門はほとんど半身不随になりながら、大石の袂から赤子を引きずり出した。


「逃げろ」


 ちゅ大法師が、大石ともみあいながら、苦しい息のもとで言った。真っ赤になったその顔の中で、目だけが爛々と輝いている。


   十


 仁右衛門は、赤子を抱え、夢中で這った。が、四歩も行かぬうちに、力尽きた。


 肘をつき、仰向けになる。


 傍らでは、ちゅ大法師と大石が、激しい剣戟を交えている。


 仁右衛門は、どっと喀血する。

「総司……」

 と彼は言った。そういえば、このひと月は、沖田のこんな姿を、ずっと見続けてきたのである。天の迎えは皮肉にも、仁右衛門に先に訪れた。


 赤子を抱いたまま、横様に倒れる。


 驚いたことに、赤子はやはり泣いていない。雨をさけるように目を瞬いていたが、はっきりと彼を見ていた。


「すまぬ、お主を守ってやれそうにない……」


 仁右衛門は、半顔を泥濘に埋めながら、赤子に言った。それでも赤子を守るため、胸元に引き寄せる。


 大石は巨漢のちゅ大法師に抱きすくめられていた。驚いたことに、ちゅ大法師に頭突きをかまし、さらには噛みつき、激しく暴れ回っている。まるで、獣である。義の珠を持つとはいえ、大石は人間離れした力を発揮している。


「きさま、祟り神を身に取りこんだか」

 ちゅ大法師が叫んだ。血しぶきを上げている。大石は何か仕込んでいるのだろうか。ただ噛みついたとは思えぬ威力である。


 大石の異変は、黒痣だけではない、牙は伸びまるで狼だ。おまけに、首を自在に伸ばして噛みついてくるのだからたまらない。


「あんなやつに、お主はわたせん……」

 起き上がろうとするが、身は震えるばかりで、指も動かせない。

 仁右衛門は、身も世もなく泣けてきた。 


 胸元の赤子が、奇妙なほどに温かい。


仁右衛門は、ハッと目を開けた。伏姫が小さな手を伸ばして、頬に触れてきたからだ。

 赤子は、言葉にならぬ声を発しながら、何かを差し出してくる。


「何だ。何を持っている……」

 見ると、出来たての紅葉のような手で、黒い石のようなものを握っているのである。

 いぶかしみ、目を細めると、赤子はその玉で、仁右衛門の額を叩いた。赤子とは思えぬ力で、仁右衛門の朦朧とした意識が、そのときだけは、ハッキリしたほどだ。


「妙なもので……」

 無意識のうちに、手を出すと、赤子がその掌に珠を預ける。


 仁右衛門は、息をのんだ。


 真っ黒で、ゴツゴツとした鉄(と彼は思った)の玉が、突如として光芒を放ち、仁右衛門の手の内でくるりと回転をはじめたからだ。感触まで変化して、奇妙なほどに艶やかになった。赤子の柔肌のように滑らかな心地だ。握ると、回転は止まったが、純白の光は居残っている。


「こ、こんなばかな……」


 本物の珠なのか……


 とっさにその宝玉を握りこみ、「お前が真の宝玉なら、俺に力を……」そのとき、また、うむ、と血を吐き、その血が宝玉へとかかる。


「力を貸してくれ……」


 仁右衛門は宝玉を握りしめたまま、意識のなくなるのを感じた。


閉じたまぶたの向こうすら暗闇となり、すっと額より、血の気が引いていく。


   十一


 目を開けると、暗闇に立っていた。いまだ宝玉を握りしめ、その輝きだけが、濃い闇を払っている。


 赤子は、いない。


 雨もなく、痛みもなく、音すらもしなかった。


 俺は死んだのか、と仁右衛門は考える。

 身動きすると、その闇はいやに重く、体にまとわりついてきた。まるで、闇という海に、沈んでいるかのようでもあった。


 サァ……と何かが、体の脇を流れていく。闇の中に、何かがある。それが巨大な顔だと気づいたとき、はじめて、自分に向けて言葉を発していると知った。


「何者だ!」


 と仁右衛門は言ったが、声はたちまち闇に吸いとられていく。


 巨顔の声は、倭語のようでいて、そうではなかった。聞き取ることができない。


 そのとき、右の手のなかで、再び宝玉が、くるりと一回りした。胸元に差し上げると、珠の中央にジワジワと墨が浮かび、枝分かれをし、一個の文字と化していく。


「仁……?」

 それは、犬江新兵衛の所持したという、宝玉の文字に他ならない。


 仁右衛門は、右の肩に焼きごてを当てられたような痛みを感じた。

 仁右衛門は、左手で肩をおさえながら、「どういうことだ。俺に何をさせようというのだ」


声は聞き取れぬほどの早口になり、音量を上げ、彼をとりまいた。


「やめろ」

 声は、仁右衛門の体を侵食していく。皮膚を通り、肉を突き抜け、骨の髄まで染み渡る。


闇に浮かんで、ついに方角すらわからなくなった。天地は消え、浮いているのか、落ちているのかもわからぬ。

その中で、赤子の声だけがあった。彼は再び意識をなくしながら、その泣き声に向かって手を伸ばした。


   十二


 仁右衛門は、叫びを上げて、目を覚ました。


 ザーザーと、雨音が耳によみがえる。彼が抱いているのは、声の主である赤子である。


「ううっ」


 と仁右衛門は突っ伏する。激痛が、身の奥にあった。内臓を引き裂かれるような痛み。体の奥に埋まった銃の(つぶて)が、ズリズリとひとりでに動いて、出てこようとしているのだ。


「うああっ」


 肉を潰して、うごめく弾丸の痛みに堪えかね、仁右衛門は赤子を抱いたまま、のたうち回った。不思議なことに、赤子はもう泣いてはいない。まどろむような半眼を向け、かすかに笑んでいるようだ。


 仁右衛門は膝をついて起き上がると、痛みに耐えかね、袂を開いた。

 血は残っていた。が、大石に受けた刀傷が、みるみるうちに塞がり、赤々とした肉腫の皮が、胸元に一筋の川のように流れる。そして、腹部にポッカリあいた銃傷からは、ひしゃげた弾が、ボロリとにじり出てきた。


傷口は弾を押し出すと、瞬く間にふさがっていく。


「なんだ、これは……」


 荒い息をつき、呆然と輝く珠を見る。仁右衛門は、珠を指ではさみ、顔の高さまで持ち上げた。

宝玉の中央には、仁の文字が、いまだ黒々と浮かび上がっている。


「お前の仕業か……」

 傷は塞がったが、失った血はどうにもならぬようだ。血の気が落ちているせいか、激しく頭が痛む。

だが――

「体が動く。本当に傷がふさがったのか――」


 信じられぬことだが、体内に残った弾は、すべて身の内より取り除かれていた。刀を振るのに、何の支障もなさそうだ。


 だが――


「これでは、馬琴の戯作そのままではないか」


 仁右衛門は、赤子を抱いて立ち上がる。


大石がそれと気がつき、

「貴様、珠を奪いおったな!」

 とわめいた。


(貴様の玉ではあるまい)

 仁右衛門は、樫の根元にねむる老人に、やおら目をやった。


(あの老人は本物か? では、この子も――)

 伏姫なのか――?


 信じられぬ話だが。

なんの力かはしらない。が、傷が治ったのは事実だ。


 仁右衛門に、迷い、思いを巡らす時間はなかった。子玉しか持たないちゅ大法師は、大石の敵となりえていない。

 が、鍬次郎は一刀流の使い手である。

「刀がいる」


 仁右衛門は、急いで宝玉と伏姫を腹に隠した。


   十三


「仁右衛門!」

 と大石がわめく。

「宝玉をよこせ。それはわしのものだ!」


「逃げろ、仁右衛門!」

 と言いつつ、ちゅ大法師は、大石の強力に屈して、膝を突いている。


 仁右衛門は、無手である。


 争う二人にかまわず、樫の根元に走った。そこに、犬江新兵衛の亡骸があった。小柄な老人である。旅装を解きもしていない。入府してすぐに、大石と遭遇したのだろう。


 犬江新兵衛は、右の肩口から腹にかけてを、一刀のもとに断ち割られている。薩腹の示現流でも、こうはいくまい。


「ごめん」

 と断り、新兵衛が右手に握る愛刀を、指をへし曲げるようにして無理矢理にとった――とたんである。


 その刀は、たった今命を得たように静かな光を放ち、あまつさえ、かすかな冷気と水気を漂わせ始めた。


 これは――と仁右衛門はうめいた。

 よもや、霊剣村雨か――?


 村雨丸といえば、八犬士の持ち物である。


 ドサッと音がして、泥がはねとんだ。足下に、ちゅ大法師の巨体が落ちてきた。

 ちゅ大法師は倒れこんだまま、錫杖を大石に突きつける。


風がコオッと吹いて、雨と三人の衣服を払った。


 仁右衛門は瞠目した。大石はもう、人相まで変わっている。いや、人相という言葉では足りないだろう。人外――である。目は赤く輝き、首を振るたびに、その赤い残像が残った。口はさけ、巨大な牙がのぞき、そのすきまから白煙を吹き散らしている。体毛がみっしりと生え、その脂が雨水をはじいていた。刀を握るその指は、ぐわりと爪が伸び、まるで五本の小刀である。


 人、というよりも、狼に近い。


「あれは、なんだ?」

 と仁右衛門はちゅ大法師にささやいた。


「お主」法師が、チラリと仁右衛門の懐をみる。「それは、仁の珠か?」

 信じられぬ、と言いたげに首を戻す。


「お主は、里見一族の血筋の者か。まさか……」


 仁右衛門は否定しようとしたが、奥村家は、身分こそ御家人だが、古い家柄である。どこで、どの血が混じっていようかなど、わかるはずもない。


 大石が、犬のように喉を鳴らし、ヒタヒタと迫ってくる。骨格すらも変わったのか、膝を深く折り曲げ、人を遠く離れた動きである。自身も一流の剣客である仁右衛門は、大石の身ごなしを見て、逃げることも容易ならぬ、と判断した。しかし――


 仁の珠は、傷を治しただけではないらしい。今、過去味わったことがないぐらい、体の奥深くから、力が湧き出してくるのを感じる。剣術の修行を通して、これこそが極意、という感覚を得たことはあったが、体中に、別の動力を得たような心持ちである。


 が、油断はできない。体力は、著しく減少している。早めに決着をつけなければ――


「なぜ目玉が光っている」


「邪神眼だ。まともに見るな」とちゅ大法師もささやきかえす。「お主、名は?」


徳川家(とくせんけ)浪人。奥村仁右衛門」


「奴の姿が見えるのか?」


「どういうことだ?」


「常人にはあやつの姿はふつうの人として映るはずだ。お主には見えているのだな」と法師は言った。「傷は治ったか?」


 仁右衛門は立ち上がり、スッと、村雨を垂らす。村雨は雨気を受け、さらなる冷気を立ち上らせている。


 彼がうなずくと、法師はやや満足げに肯首(こうしゅ)した。


「お主ではまだ、宝玉の力を使いこなせまい。伏姫を連れて逃げろ、と言いたいところだが」ちゅ大が唾を飲む。「奴も新兵衛殿との戦いで、傷を得ておる。今、仕留めるべきだ」


「お主は、本物の金椀大輔なのか?」

 と仁右衛門はささやいた。ちゅ大法師が、チラリと彼をにらむ。


「馬琴のことは、今は忘れろ。奴をどうにかせねば……」


 そのとき、首をグルリグルリと回しながら、こちらに迫っていた大石が、止まった。喉を鳴らすのをやめ、その場で二度三度と腰を沈ませる。


 さらに深く沈んだかと思うと、鞠がはねるように跳躍をして迫った。


「伏姫を守れ!」


 ちゅ大法師が滑走したが、大石は鋭く左にはね飛んで、かと思うと、急激に角度を変えて、仁右衛門に迫った。


 仁右衛門は、下段にあった刀をさっと振り上げ、大石の一刀を受け止めた。大石は宙に浮いたまま、全体重を乗せて推してくる。


 重い――


「貴様、本物の壬生狼になりさがったか!」

 仁右衛門が刀を振り抜く。村雨丸は、周囲の雨粒を凍らせながら、鍬次郎の体をはねのけた。


「おのれ、犬士になりおったか――」

 と大石が吐き捨てる。村雨丸は、真の犬士にしか扱えないのである。大石の刀は大きく欠けて、表面に多量の霜をつけている。


 仁右衛門とちゅ大法師は、別の角度からジワジワと大石に迫った。


 大石が、法師に向かって、息を吐くと、その息は真っ黒な毒霧にかわった。


ちゅ大法師は、たまらず膝を折る。常人なら、即死したはずだが、百の子玉をもつ法師は耐えた。


 仁右衛門は刀を下段に預けたまま、飛ぶように距離をつめた。まるで、何者かが回しているのかと思うほど、足腰が軽い。


 鍬次郎が、直前で顎を閉じ、向き直った。


 仁右衛門もまた一息で迫ると、上段に跳ね上げた村雨丸を、真一文字に振り落とす。


鍬次郎が真っ向からうけた、狼と見紛う鼻より、毒霧をブフウと吹きながら食い止める。


 仁右衛門は、身の中心に重みを集めると、粘りをかけるようにして、村雨丸に身を預けていく。


 祟り神を宿す大石も、その重みに屈服して、腰を下げた。


 村雨丸は、大石の刀に切れこんで、その刀身を断ち割り始める。


「おのれえ」

 大石がのろいの声を上げると同時に、刀は真っ二つに折れ飛び、村雨丸がその胸を深々と切り裂いた。


 大石は、数歩よろめき下がる。胸元の傷をおさえ、


「村雨丸さえなければ」

 とうめいた。

 だが、仁右衛門もまた追わない。伏姫が、胸元で叫喚していたからだ。


(毒をすったか)


 仁右衛門にも影響はあった。が、仁の珠のおかげか、毒はたちまち中和していくようだった。


 大石が、刀を拾った。先刻、スナイドル銃とともに、仁右衛門が落としたものである。


 倒れていたちゅ大法師が、かすむ目を瞬かせながら、

「義の珠を奪え! あれは近藤殿の物だ!」


「なんだと?」

 仁右衛門は伏姫をなだめつ、じわりと大石との距離を詰める。


「貴様、近藤さんを裏切ったのか」


「裏切っただと!」


 大石が激怒した。その語調には強い恨みがある。口元から、ガブリと血をあふれさせながらも、波打つような怒気を放った。


「俺をだましたのは、あ奴らではないか。国のためと、祟り神と戦い、穢れのみは俺たちに負わせた! 結果をみろ、幕臣になって何が残った! 今では、国にすら追われておるではないか!」


 仁右衛門とちゅ大法師は動けなかった。大石の声に何者かの胴張り声が重なった。それは、裂けた大地の奥深くから轟くような、力強くも不吉な声であった。


「いかん、祟り神に飲まれおった」


 ちゅ大法師は錫杖をズブリと地にさし、指をからませ次々と印を結びながら、呪文を唱えていく。


 大石は苦しみもだえながら、天に向かって吠えた。辺りの桜が緑葉を揺らし、その身につけた水滴をバッと散らしていく。


仁右衛門はその邪気におされて、蹈鞴を踏みつつ、数歩押し下がる。


 大石が恨めば恨むほど、祟り神はその心を喰らっていく。大石の精神は祟り神と深く結びつき、もはや逃れるすべはなかった。心のはるか奥深く、深海よりも深い地の底から、地鳴りが轟いてくる。それは言葉というよりも、祟り神のもたらすより激しい感情であった。


 都で大石をむしばみ続けた穢れの数々が、肉体に残ったわずかな魂、その僅微な欠片を、いま、飲み込まんとしていた。


 大石の四魂は、乱れあらぶる。祟り神の巨大な御霊の前で、その四魂は、波にさらわれるあぶくのごとく、無力であった。呪詛に引きちぎられんとする魂を、すんでの所で鎮めているのは、近藤より奪った義の珠でしかない。だが、その堤は、あまりに非力で、蹴破られる寸前である。


 悪気(あっき)が腕の霊絡を駆け巡ると、六倍にも醜く膨れ、耐えきれぬ肉が裂け、噴血が暑気払いの打ち水のように辺りを打った。


   十四


 ちゅ大法師が結界をはりおえる。すると、雨はこの二人にはかからなくなった。


「受け取ろう」

 と法師が手を伸ばす。仁右衛門が懐を覗くと、伏姫は彼の懐でスースーと寝息を立てている。


 仁右衛門がふっと笑うと、ちゅ大法師も微笑んだ。


「豪儀なものだ」


 仁右衛門は、ふと真顔になりささやいた。「あいつが持っていた義の珠は近藤さんの物なのか?」


 法師は憮然とうなずく。 

「近藤殿だけではない。沖田もかつては、勇の珠の持ち主であった」


 なに? と仁右衛門は言葉に詰まる。「今――あんたはかつてと言ったな。それはどういう意味だ」


 ちゅ大法師は、黙って仁右衛門を見返した。


「後で話す」


 後などあるのか、とは、仁右衛門も言えない。ちゅ大法師はなだめるように仁右衛門の肩を叩き、

「奴は義の珠の持ち主ではない。だから裏返った」


「裏返るだと? それはどういう――」


「悪心を捨てねば、祟り神には対抗できん」ちゅ大法師は遮った。「お主もだ。まだ仁の珠を使いこなせてはおらん。逃げろと言いたいところだが」


 どこへだ――とは仁右衛門もきけなかった。

抜き身の村雨を手にしたまま、伏姫を見つめるばかりである。


 大石が祟り神に飲まれていく様は、凄惨としていながらも、なにか荘厳としたところがあった。


その背骨は和弓のごとく弓なりとなり、それに反して巨体となる。悪霊におかされ、重みまでましたのか、足首までが泥濘に埋ずまっていく。


「祟り神か、何かは知らぬが」と仁右衛門は言った。「あんな男でも新撰組だ。放ってはおけん」


地にめりこむ足の周りで、土は黒々と変色していき、オドロオドロと腐った水を吐き出し始めた。


 悪神、とはいえ、神である。


「神殺しの罪は重い。お主もわしもただではすまんぞ」


「あれが死ぬとは思えんがな」


「このままでは、御府内がふたたび穢土になりかねん」


「――どういう意味だ?」


「あれは鬼門を崩す気だ。食い止めねば」


 上野一帯が東叡山とよばれているのは、仁右衛門も知っている。江城を二百年守ってきた、御徒士の一族である。天海の手によって、江戸に結界が張られたという話は、寝物語にきかされてきた。それは馬琴の戯作同様、やや浮世離れして聞こえたが、八犬伝が現実なら(あの戯作のままだとは思えないが)、江戸の結界もまた正銘のものであって、おかしくはない。


江戸は天海亡き後も、海を埋め立て、拡張をつづけてきた。結界はほころび、崩れさる寸前である。


 仁右衛門は考えた。上野が本物の鬼門封じなのだとしたら、この戦争でその守護は崩潰したとみて疑いない。


「あいつは、玉梓にそそのかされた可能性が高い」と法師は言った。「なにか裏があるはずだ」


「玉梓まで存在するのか」


 仁右衛門は嫌気がさしたように言った。


ちゅ大法師は黙殺した。


「江戸が要だったのだ。家康殿は江戸を芯にして日ノ本の守りを、もう一度まとめなおした。だが、二百年の平穏も外夷とともに崩れた」


「あんたは」と仁右衛門は尋ねた。「まとめなおしたと言ったな。なおしたと――権現様が、元々あった結界を、むすびなおしたという意味なのか」


 ちゅ大法師は眉をひそめた。結界に関する知識のあることに、瞠目したのである。


 仁右衛門は大石に向き直る。「それならば、取り戻せるはずだ。作り直せるものならば」


「そのためには、あやつが邪魔だ」


 ちゅ大法師もまた、大石に目を向けた。仁右衛門は犬江新兵衛を見ている。


 俺はまだ生きている――そのことをくっきりと実感した。死ぬことを怖れていたわけではない。彼は平穏な時代の武士ではない。数々の出兵を繰り返し、その大半は手ひどい負け戦で、いずれも苦しいものだった。仲間の死を見送り、自分も死の縁に接してきた。


 だが、仁右衛門の感動は、そんなところになかった。


時を得た――と仁右衛門は思った。


戦がなくなり、平和なときをえて、旗本も御家人も存在意義をなくしていった。夷狄とあいまみえたいま、彼らは旧態依然の遺物と化した。仁右衛門は、生き方をかえ、役目も変えさって、ときに従い生きてきた。


 だが、自分の父や祖父、先祖がやってきたことは、無駄ではなかった。奥村という家が禄を食み、徳川家に尽くしてきたことは意味があった――


 場を得た――


 と彼は思った。自分の人生どころか。奥村の家を守り、 御徒士という職禄を得てきたこと、そのことに意味があったのだ。一所懸命が、武門の誉れならば、彼は所を得たのである。


思えば、御徒士組が解体となり、撒兵隊となり、伝習隊に編入された後も、違和感があった。 自分は、江城の守護者として、身を立てたかった。御徒士とは、そういうものだ。奥村という家に与えられた御役とは、元来そういうものだったはずだ。


「俺は――」と仁右衛門は言った。「俺たちは、開府以来、このお江戸を守ってきた。今更、あやつらなぞに譲れるか」


 ほう、とちゅ大法師は笑った。


「よかろう。あやつを任せられるか」


 心得た、と仁右衛門は言った。彼は犬江新兵衛のもとに歩いていく。


   十五


 犬江新兵衛は意外におもうほど小柄であった。大石に遺体の生命力まで吸い取られているのか、老人の皮膚は瞬く間にしなび、干からびていく。


 仁右衛門の心は、怒りに燃えた。彼には、この老人が、千年の知己のように感じられたからだ。まるで仁の珠が、哀悼の意を示しているようでもあった。犬士となった今では、この老人の苦闘の歴史が、不思議とよくわかった。


 仁右衛門は、犬江新兵衛の腰から鞘を抜き取り、その胸元に手を置いた。


「表裏のことはわからない。だが、俺は新兵衛殿の後を、確かに継いで犬士となった。あなたのやろうとしたことも、自分は継ごうと思っている。今は安らかに眠ってくれ」


 仁右衛門は決然と立ち上がり、大石に向き直る。


   十六


 仁右衛門が側に行くと、ちゅ大法師は錫杖を地面に幾度も打ち付けながら、古代の呪文を唱えていた。夢の中できいた、あの言葉に似ている。


(こやつ、もしやあの男の言語がわかるのか?)


 疑問がわいたが、彼はちゅ大法師を見てもいない。僅かにうつむき、佇立している。


 いやに、心が鎮まっていた。

 祟り神にのまれた大石は、恐るべき相手である。姿がではない。大石の奥底から、あふれでる力が、ここからでも感得できるのだ。


 仁右衛門が村雨丸の束を抜くと、はばきが鯉口を離れた瞬間に、鮮烈な冷気があふれてくる。

 彼は抜き身を垂らし、結界をでた。強い雨が全身を打つ。


 天は、墨のような雲が立ちこめ、稲光が九天を割るようにして、いくつも走った。


 仁右衛門はつと、まわりの桜をみた。江戸の誇る名所も、無残なものだ。銃弾に幹を砕かれ、砲弾にその身を裂かれ、昔日の面影はどこにもない。


 そういえば、この桜も、天海が吉野山から、植栽したものである。


 北で、黒雲に逆らうように、炎を上げているのは、文殊楼であった。二層屋根の大門で、題額からついだ別名べつなが、吉祥閣。江戸庶民は、正月の十六、七しか登れなかったが、いまや赤々と燃え落ちんばかり。二百六十年、江戸の平和を見守りつづけてきた東叡山の堂塔は、灰燼に帰そうとしている。


 大石が吠える。その体を真っ黒な呪怨が、取り巻いていた。


 仁右衛門には見えた。体が仁の珠になじみはじめると、黒々とした呪怨の中に、苦しみもがく人の顔が、いくつもいくつも現れはじめたのだ。あれがただ呪いなのではなく、人の怨霊なのだと気がついた。祟り神は怨霊を従え、また怨霊の魂を喰らって、力と変えている。


 それはヘドロのように粘着のある代物らしく、地に落ちると、たちまち大地を穢土へと変えた。大石が咆哮すると、津波のように辺りに散っていく。桜が呪怨を浴び、たちまち緑葉をおとし、尽きていく。


「仁右衛門……」


 大石の声は、祟り神の声と重なり、二重唱となって聞こえた。その呪怨は、痩身から、炎のように立ち上っている。生命を求めるようにさまよい、周囲の下生えや樹木を枯らしていく。


 怨霊どもの呪いの声は、冬の木枯らしのようだ。人の背筋を凍らし、笑みを奪い、弱き者の生命を奪う――そんな声。


 怨霊どもの声を断ち割り、大石の怒声が轟いた。


「お前たちは、もう終わりだ! 主君をなくし、土地を奪われ、どこへゆこうというのだ!」


 これは、大石の言葉ではない、と仁右衛門は直覚した。あるいは、大石はその身の内で、すでに意識をなくしたのかもしれない。


「城をとられ、玉(慶喜のこと)も逃げたではないか! 今更、表の貴様らに何ができる!」


 仁右衛門は雨に打たれ、雷に煌とさらされながら、祟り神によばわった。


「徳川は滅びるかもしれん。だが、世は続くだろう! 日ノ本が消えるわけではない。志は残り、民を(いざな)う。この国にいるべきは、貴様などではない」と言った。「どこから来たかは知らぬが、さっさと元いた所に、いぬがいい!」


 それは、海図のない船出のようなものだ――悪神はいった。「貴様らが、どこに行き着くというのだ! 滅びろ、現世(うつしよ)はわしらのものだ!」


「黙れ!」仁右衛門は、祟り神の怒気を払うかのように、刀をふった。「そんなことはさせんぞ、おれは、江戸を守る御家人だ! 大石鍬次郎! こんなことが、貴様の望みか! 祟り神にのまれ、正体をなくし、貴様こそ何を望むのだ!」


「宝玉を得た程度で、図に乗るな!」


 大石が腕を振るうと、呪怨が三日月のように空を飛び、大地をえぐりながら迫ってきた。仁右衛門は下段の刀を跳ね上げこれを切り裂くが、まるで大蛇の太胴を断ち割ったような重い手応えである。


 革靴の踵がズルズルと後ろに下がる。呪怨は左右に断ち割れ、背後のちゅ大法師の結界にぶつかり、岸壁に打ち当てられた波濤のごとく、周囲に飛散していった。


 仁右衛門が、背後を気にしたわずかな隙である。


 大石は、境内を穿つような勢いで地を蹴って、わずか二歩で目前に来ていた。

 呪怨に包まれた刀を、振り下ろしてくる。


 仁右衛門は身を下げつつも、村雨丸を引き上げ、受けた。村雨は、刀こそ食い止めたが、仁右衛門は呪怨をまともに浴びて、後方に大きく跳ね飛ばされる。怨霊どもが体に食らいつき、呪怨が毒のようにしみこんでくる。


 大地に叩きつけられ、その手から村雨丸が離れる。


 仁右衛門は空を飛びながら、身をひねり、村雨丸に向かって手を伸ばした。あれがなくては、祟り神と化した大石には、対抗できない。


 村雨の刀身が、指にからむことはなかった。


 仁右衛門は大きく回転しながら大地を幾度も転がり、樹幹に背を打ち当て、ようやくとまった。


 村雨を拾おうと、地面を這いずるが、呪怨が穢れとなって、総身を蝕んでいる。皮膚を冒し、肉をついばみ、ついには骨にまで達して、手足の自由を奪った。


 力が、抜ける。


 泥をかきわけるようにして這いずる仁右衛門の目の前で、巨大な犬が現れ、村雨丸の束をくわえた。


 犬――とも言えない。馬と見紛うばかりの巨体である。色は白く、目玉は銀色。長くたなびくその体毛は、ところどころで銀に輝く。その銀毛は、馬のたてがみのように、背骨に沿い伸びていた。


 巨犬は、鮎のように身を振って、村雨丸を放ってよこす。仁右衛門は、手近につきたった村雨丸を、手中に収めながら、

「八房なのか?」

 と言った。八房――と言えば、伏姫をさらい、八犬士誕生のきっかけとなった、霊犬である。


 戯作では、金椀大輔に討たれたはずだ。

 が、その伏姫も、現実には、赤子である。


 大石が怒りに燃えて打ちかかると、八房は負けじとその胴に食いつく。牙をたてるが、呪怨が大石の身を守り、歯が通らない。怨霊どもが小さな手を無数に伸ばして、八房の顔を打ち、耳をひっぱり、または首を伸ばして、耳に呪詛を吹き込んでいる。


 大石は、八房の首にぐいと右腕を回すと、力任せにこの霊犬を宙に放り上げた。八房は、さも犬めいた悲鳴を上げたが、空で身を切ると、独楽のように一回りをして、タッという音も鮮やかに、優雅ともいえる軽やかさで、地に柔らかく足をつけた。


   十七


 この大犬はどんな霊力に守られているのか、祟り神の毒素にも、なんら影響を受けていないようであった。ブルブルと体を振ると、その身にまとわりついていた呪怨はあっという間に飛び散って、あとはなんの痕跡も残さぬのであった。


『伏姫は無事か?』


 犬が口をきいたので、仁右衛門は動揺した。声を出したのではなく、頭のなかに響いたのだと気がついた。


「ちゅ大法師がつれている」

 とうなずいてみせた。


 八房が少しこちらをみ、

『お主、仁の珠の犬士か』


 新兵衛が倒れているであろう方角に首を向け、やがて、悲しげに頭をたれた。それを振り払うように顔を上げ、

『輪王寺宮があぶない。あやつと争っている暇はないぞ』


 宮様が、と仁右衛門も驚いた。寛永寺門跡――輪王寺宮は、東叡大王、ともよばれている。慶応三年五月に江戸に下ったばかりである。このとき、若干二十一才であった。


 上野の他、日光山輪王寺門跡を兼務し、ときに天台座主でもあった。仏教界における最高権力であった。


 輪王寺宮門跡は、世襲制ではない。だが、宮家のひとつとされ、身分は僧侶でありながら、皇族である。


 三山管領宮――

 寛永寺の貫主に、このような権威を持たせたのは、偶然ではない、とは聞き知っている。もし、京の天皇を擁して謀反の起こったときは、江戸幕府が擁立するための皇統を、関東におかねばならない。東叡山におられる親王殿下――噂めいたその話が、こと幕末においては現実味を帯びてきた。実際に、輪王寺宮を天皇におしたて、西軍に対抗しようと動く者たちはいたのである。


 だが、そうなれば、日本は真っ二つに割れる――


 号令をするはずの慶喜は、上野を離れている。輪王寺宮を、東の天皇に。それを実行する権限のあるものは、彰義隊にはいない。


「宮様を弑するというのか? それは官軍の動きなのか――」

 だとすれば、とんでもない話だ。


 仁右衛門は、祟り神と化した大石をみた。

「だが、大石は近藤さんの義の珠を持っている」


 あの珠を取り戻す必要がある、と仁右衛門が言うと、八房は器用に驚いた顔をして見せた。


『祟り憑きが、犬士になれるはずもあるまい』

 見間違いではないのか、と八房も疑う。


「だが、あの珠は生きているぞ」

 義の文字が確かにあった、と仁右衛門は言った。


『宮がまだ林光院にて結界を張られておる。あの祟り神は、ここで調伏せねばならん』


「逃げておられないのか?」

 輪王寺宮は影武者をあえて落とし、天野八郎らはこれを追ったというのである。


 とすれば、確かに時はない。


 仁右衛門は、義の珠を使えば、沖田の命は救えるのではないのか? と考えたのだ。信の珠は自分の命を救った。沖田は、義の珠の持ち主ではないかもしれない。だが、宝玉は、大石に対しても、祟り神を抑える役目を果たしている。


「あの珠がいる」


『輪王寺宮を守らねば、上野はおしまいだ』


「両方救う。文句はあるまい! 手を貸せ!」


   十八


 膠着した黒門口の戦いを決着させたのは、肥前の大砲隊が加賀藩邸に据えた、アームストロング砲二門の砲撃であった。


 後装式で、連射のきく代物だ。砲身内に螺旋状の溝を施し、炸裂砲弾に回転をくわえて飛ばしたから、その正確性も飛距離も、旧砲をはるかに凌いでいる。


 この当時、十数門が入ってきていたが、上野に向けられたのは、肥前藩が、からくり儀右衛門こと、田中久重にめいじて、独自に制作したものである。


 大村の許可をうけて、この最新鋭が火を噴いたのは、正午ごろのことであった。その一撃は吉祥閣を燃え上がらせ、山内の木々、石塔を粉砕し、彰義隊士を芋の子のように斃してまわった。


 昼の八ツ半(三時頃)を過ぎて、本郷台の砲は、どれも沈黙している。諸藩の主力は、上野本山に拠点をうつし、肥前兵もまた、この新式砲を守る者たち以外は、離れて居ない。


 その加賀藩邸に、本陣にいたはずの総督大村益次郎が姿を見せたのは、そんな折りであった。


   十九


 女は、最初比丘尼と名乗った。人を手玉にとるような、それでいて人好きがして、しばらく接すると離れがたくなるような、そんな不可思議な魅力をもった女だった。


 女――としては、よほど大柄である。当時の日本人はおしなべて小柄だが、男に体格のみ劣っているのは、変わりがない。が、この女、六尺は優にあるだろう。その黒々と生命力にみちた髪は、膝元まで届いている。


 手足が、妙に長い。


 このような女子、西洋の(はて)にも見たものはなく、寡少の風聞もきかない。と、西洋人嫌いの大村なら、思ったかもしれない。通常の折の、大村なら。


 大村は、その女の、本当の名を知らない。


 なるほど、防長二州を救ったかもしれない。だが、女のもたらしたのはさらなる混乱だし、ために、藩の有為無為の人材を、次々死なせてしまった。高杉晋作とてその一人だ。


(この女は人を狂わせすぎる)


 と大村は思っている。今では彼ですら、この女の術中にはまった一人だ。女はあまりに妖艶で魅惑に満ち、一度はまってしまえば、二度と抜け出せぬ深い泥沼に似ている。利用しようとして、その実、こちらのすべてを吸われ尽くしているような……。


 今大村は、奇兵隊の一隊を率いて、加賀藩邸を目指している。あそこには、肥前の兵が、僅かしか残って

いない。他の藩兵は、すべて移動するよう、彼自身が令を出していたからだ。だが、それも、元々の自分の発案であったかどうか……


 女は江戸に入れないといって、ついてこなかったのだが、これまで同様、夜な夜な彼の枕元にたった。女は毎夜毎夜手練手管を尽くし、今ではその事が苦痛ですらあった。


 昼間なら解放されるかと思ったが、比丘尼は、他者には見えぬ霊魂となって、のべつまとわりついてくる。益二郎の周囲をとびまわり、悪魔のような考えを吹きこんだ。


 益二郎は言った。

「上野の退勢は決したではないか。なぜ無用な砲撃がいる」


「馬鹿をお言いでないよ。上野の連中はまだ屈しちゃいない。反撃の機会をうかがってるんだ。戦が長引いたら、そうなったらどうなる。地球中から軍艦が来ちまう! 馬関戦争を忘れたのか!」


「彼らは、彼らは文明国だ!」


「夷狄がなんで信じられる! あいつらはお前らのことを、牛か馬のようにしか思ってない!」


 それは貴様もだろう! と益二郎はわめきたかった。


「高杉が上海で何を見たと思う! お前にも見せてやろうか。海の向こうで何があったのか」

 と比丘尼は袖で目元をおおい、さめざめと泣いた。


「江戸を取りたいんだろ?」

 と女は袖から目だけを覗かせ、小ずるく言った。


「江戸をとって、毛利の殿さんを将軍にしてやりなよ。村医の子どもだった貧しいお前だが、立身出世も思いのままさ。お前以上に頭のいいのが、この世にいるのか? みろ、まわりの兵どもを。お前に比べたら、虫けらじゃないか。お前こそが、人だ――」


 女は、唇が触れるほどに耳朶に近づき、熱くささやく。


「そうすりゃ、イネのやつだってお前になびくさ」


「なにを――」益二郎は真っ赤になった。イネはシーボルトの娘。女医である。「わしは、わしはそのようなこと」


「いいんだよお」女は益二郎にしなだれかかり、その優雅な指で胸をついた。「正直になりな」


 ぞくり、とした。益二郎は、反論もできずに立ち尽くした。


「あちこちで御家人どもが集まってる。あいつらは、いくさに参加するそのときを、眈々ねらっていやがる。官軍に弓引くのは、主家への反駁だとわかってるからね。下手すりゃ切腹だ」


 女は無遠慮に笑い声を上げた。若々しくて、下卑た笑いだった。


「叩くんなら、大将のいない今だろう。がんじがらめの八万騎に何ができる。だけど、それには条件があるんだよお」


 と女は両の拳をつくって、益二郎の胸をつく。


「あいつらにきっかけは与えちゃいけない。一分だって与えちゃいけない。江戸の外に出た脱走部隊だって、いつ戻ってくるかわからん。すぐそばまで来てる奴らもいる」


 と女が言ったので、益二郎はぎょっと女のさす方角を見た。この女は千里眼というか、不可思議な術を持っているからだ。


「そうなったらお前たちは袋だたきだ。夜までに上野を片付ける必要があるとは、お前が言ったんだろうが!」


 女はまるで鬼女である。


「やれ! やれ! 殺しちまえ! あの大砲が居るんだ! ぶんどっちまいな!」


「肥前は……」


「江戸三百年の守りを、お前たちが崩すんだ! 何をためらう! 烏合の衆はお前らのほうだ! 肥後も肥前も、信用できるのか? 肥前の妖怪やろうは、ギリギリまで兵隊を出し惜しみしたんだぞお! お前らの塗炭の苦しみを、あいつらはわかっちゃいないんだ」


 その苦しみを生み出したのはお前だろうが! 益二郎は今にも卒倒しそうだ。


「お前たちは、引っ返せないとこまで突っ走っちまった。わかってるだろう。天下の孤軍になりたくなかったら、勝ちを拾うんだ!」


「江戸百万の民草を焼き払うことになってもか」


 益二郎は、やっとそれだけを言った。


「そうさ。民草なんて、日ノ本にはまだまだいる」女は幼女の無邪気さをもって、恐ろしいことを言った。


「お江戸一つの犠牲ですむなら、安いもんだ」


「お主は、お主は恐ろしい女だ」


 比丘尼は満足げにうなずいた。「本当にいい女ってのは、恐ろしいもんなのさ」



 大村は肩を揺さぶられ、ハッと顔を上げた。女は姿を消していた。大村は雨に打たれていた。目の前には、二十名ばかりの隊士がいて、彼の下知を待っている。


 兵らは、呆然と立ち尽くす大村を、不審げに見ている。


 いつも、こうだった。彼が、女と長々しゃべったところで、まわりでは少しも時間がたっていないのだ。まるで、桃源郷――いやさ、黄泉の国にでもつれこまれていたかのようだった。


 とまれ、この連中は、博徒が集まった部隊である。学がない。正規の藩兵よりは、よほど扱いやすいと思ってつれてきた。


 奇兵隊は、身分に関係なく兵を募ったように思われているが、その実、内側では、身分職業によって部隊わけがされ、階級が明確に存在していた(維新後の暴発につながっていくことになる)。それとて、あの女がすすめさせたことだと、今の大村は知っている。


「肥前は、肥前藩は信用ならん。奴らは薩長に砲を向けるつもりだ。あの砲の威力は知っていよう」


「あの砲を、味方に向けるってんで?」


 と少し年嵩の男が口を切った。みな肥前が裏切るときいて戸惑っている。


 肥前佐賀というのは、九州の片隅で力を蓄えつづけた特異な藩である。薩摩とおなじような鎖国体制をしき(事実国内よりも、異人たちの間で評判となっていた)、東洋諸国はおろか、西洋でもおいそれとない工業施設を築きあげ、幕末の藩兵の中に、無欠の洋式部隊として、突如として躍り出てきたからでる。


「あれが、敵にまわっては、戦況は一転しかねん」


 みなは、この恐るべき知謀を持つ参謀の顔を、穴の開くほど見つめ、ゴクリと生唾を飲んだ。


「おれたちゃ、どうなるんで」


「それは、これからわかる」


 大村たちは、無人のように静まりかえった加賀藩邸に踏みいった。砲は二カ所。一門は、支藩である富山屋敷に据えられている。


 大村は部隊を二つに分け、一隊は富山屋敷に走らせた。


 頭の中では、比丘尼の、いいぞやれやれ、という励ましの声が、呪いのように轟いていた。


   二十


「八房あ!」


 祟り神の邪心が、仁右衛門の体を打った。


 大石は、身の内に怨霊を住まわすことを、嫌うように罵声を上げている。祟り憑きとはいえ、生身である。目より涙の代わり、口よりは唾の代わりに血を垂らしている。


 義の珠をつかっても、耐えられないのだ。


「また我らの邪魔をするか、犬めが!」


 大石から、はじけるように出でた怨霊は、一つに集い、たちまち巨大な荒御霊となった。


 大石が腕をふった。仁右衛門は巨大な腕に身を捕まれたように感じた。じりじりと大石の方に引きずられていく。まるで、巨大な磁力に、引きつけられているかのようだ。


 八房もこの力を喰らっているのか、首輪をつけられた犬のように首をふり、うなる。


 仁右衛門は、不意に体が軽くなるのを感じた。足の裏から、温水のように暖かいのが、骨を伝って全身に広がっていく。ちゅ大法師が、地を突く錫杖の動きに合わせて、法力を送り込んでくるのである。仁右衛門は、全身の関節を固めるようだった呪怨が、身内から退くのを感じた。


「法師、俺のことはいい! 早く結界式を――!」


『見ろ――!』

 大石の足下から、真っ黒な穢土が周囲に波紋が広がるようにして、ざあっと波を立てながら、打ち広がっていく。


『だめだ、これでは上野の結界が崩れる!』


 仁右衛門と八房は、祟り神に斬りかかろうとするが、穢土を踏みつけたとたんに、総身が痺れ、仁右衛門は革靴の底を焼かれ、八房もまた、肉球を傷つけられて飛び退いた。


「くそ! 近づけない!」


 そのとき、背後にいたちゅ大法師が、三度錫杖を地面につきさし、両の指を組み合わせ、複雑な結界印を組んだ。古代語で何事や叫ぶと、ちゅ大の法力は言霊となって、大石に向かって押し寄せていく。地面は波打ち、広がりゆく穢土とぶつかり合った。


 仁右衛門は、ちゅ大法師の、力道の跡を追おうとした。が、中途で足をとめ振り向く。


『どうした仁右衛門!』


「北になにかある」


『あれは鬼門だ』


「ちがう! 誰かこっちを見ている!」


 八房は驚いた。仁右衛門は、犬士となったばかりだというのに、宝玉との結びつきを強め、その力を使いこなそうとしているのだ。

(この男、もしや里見の血を、色濃く残しているのか――)


 上野の結界が崩れれば、むろん鬼門は開くことになる。魑魅魍魎――北で手ぐすね引いて待っているのは、その手合いだろう。


 仁右衛門が村雨をきらめかして迫ると、祟り神は伸腕の術で腕を伸ばす。五本のかぎ爪が頭蓋を断ち割ろうとしたが、仁右衛門も右に身を沈めてこれをかわす。さらに数歩――仁右衛門は、ほとんど激突するほどの勢いだ。大石は伸ばした腕を引き戻し、かつ左の手を、下からすくい上げるようにして、彼の喉笛を手刀で狙った。


 八房がその右腕にくらいつき、仁右衛門を抱えこもうとするのを防いだ。仁右衛門は右の胴をすり抜けつつ、体を鋭く回し、大石の右胴をかっさばいた――かに見えた。


 村雨が切り裂いたのは、大石が胴に回した呪怨のみであった。大石は沈み込むようにして、右の脇下からさきほどの手刀をおくりこんできた。


 仁右衛門は躱しきれない。鋭く伸びた五本の爪が、半身になっていた彼の左肩口に食いこんだ。


『仁右衛門!』


 爪を食い込ませたまま、片手斬りに村雨丸をふり下ろす。


 大石の左腕は、前腕の中程から、真っ二つに断ち割れた。


 傷口から、噴血が、ばっと上がった。地面に飛び散ると、穢土すらも腐り溶かしていく。 祟り神が罵声を上げたかと思うと、小口から呪怨が吹き出し、真っ黒な腕に変わった。


 同時に大石は延ばした右の腕をムチのように振るい、八房の巨体を投げ飛ばした。


 仁右衛門はそれどころではない。左肩に刺さった手がドロドロに溶けたかと思うと、赤黒い肉塊に変わって、肩に喰らいついてきたからだ。


(――いかん)


 と仁右衛門は鞠のようにはね飛び、大石鍬次郎から距離をとった。その瞬間、聞いたのである。


 ヒュルヒュルという、独特の飛翔音を。


 振り向きざまに着地をすると、燃えおちんとする文殊楼に再び榴弾がおち、着発信管が威力を発揮し、真っ黒にすすけた柱を、幾本も突き崩すのが見えた。


 彰義隊の隊士と、上野を散々に引き裂いた薩長の新式砲が、またぞろ火を吹き始めたのだ。


 大石が、刀を上段に上げて走り込んでくる。仁右衛門は、腕がきかない。左腕をぶら下げたまま、拝み打ちをすんでのところで躱したが、その刀身は呪怨が取り巻いており、彼の前半身を、嬲るように薙いでいった。


 呪怨の毒気にやられて、彼の体は大きくはね飛ぶ。


 その間も、榴弾が境内にいくつも落ちて、爆発音を響かせている。


 大石が、地面に転げ、穢土まみれになっている仁右衛門に、とどめを刺そうと迫る。八房が、その背に体当たりをくれて転がした。


 仁右衛門の目の前に、悪神と霊犬が転がってきた。


『こいつの動きをくいとめろ!』


 八房の声に、仁右衛門はとっさのことだ。村雨丸で、大石の右胸を、地面にむかって突き通した。大石は標本のように食い止められて、呪いの声を上げている。そこへ、ちゅ大法師の法力が、四方からばっと迫った。


 三人の周囲から穢土が退き、大石の体からは、呪怨が取り除かれていく。村雨丸の貫くその傷口から、怨霊がいくつも抜けでる。仁右衛門の左肩にとどまっていた受肉もまた、塩に打たれたナメクジのように、力をなくして、ズルリ、肩より落ちていく。


 ドオン、ドオンと、下っ腹にぶちかましてくるような音が、池の方角から轟いた。瞬時もおかずに、またヒュルヒュルという榴弾の音、さほども遠くもない地面をどっと切り崩し、古木も下生えも、まとめてなぎ

倒してしまった。


「砲弾だ! また撃ってきたぞ!」


『これは防げんぞ!』


「法師、急げえ!」


 と叫んだ仁右衛門の目前で、ちゅ大、背後の樫に榴弾が打ち当たり、法師が破片をくらって、どっと倒れこむのが見えた。


『伏姫!』


 八房が走り戻っていく。


 意識をなくしたのか、ちゅ大法師の法力が引き潮のように退いていく。


 仁右衛門は、村雨の束に反力を感じた。傷口から抜け出ようとしていた怨霊が、形を変えて村雨丸にまとわりつき、刀身を押し返そうとし始めたのだ。


「こいつ、大人しくせい!」


 仁右衛門は自由になった左腕を束にまわし、全体重をかけ、村雨丸をおしもどそうとする。


「仁右衛門! 貴様の名、覚えたぞ!」


 祟り神は半ば変化がとけ、狼の顔と大石の顔が混じり合ったようになっている。悪神は、地面に縫い止められたまま、虫のようにもがき、仁右衛門もまた逃すまいと刀をねじった。


 が、この闘争も一発の榴弾が、二人の側近くに落ちることによって、食い止められた。


 仁右衛門の体が空を飛び、山の斜面に落ちていった。大石もまた榴弾の礫を喰らい、無言の内に倒れ伏している。


 仁右衛門が抜き身をもったまま、急斜面を這い上がる。顔を覗かせると、境内に喊声がわきおこって、北の方角からはせ参じる部隊が見えた。


「か、官軍だ」


 おそらく砲声に気づいて駆けつけてきたのだろう。刀の構えを見たところ、薩摩の兵らしい。


『仁右衛門』

 と下から声が掛かった。八房が斜面をまわりこんでいた。口に伏姫をくわえ、背にちゅ大法師の巨体を負っている。


『ついてこい』


「大石はどうする?」


『奴は逃げた。輪王寺宮の元に、向かうつもりやもしれん』


「どうする気だ?」


 八房は顔を上げて、斜面の先をみた。社がある。

『あそこに地主神がおるはず。気に食わん狐どもだが、力を借りよう』


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