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 あいつの家は坂の下にあった。

「開けろ」

 ドアを叩かず、そう言うだけで、そのドアは開いた。空は、逃げることもなく、抵抗もなく、俺に腕を掴まれる。俺が歩けば、そのままついてくる。俺がたたきつければ、リビングの床に倒れ込んだ。酒臭い家だ。煙草の匂いもひどい。床に押し付けたその体からは、死にそうな匂いがした。

 その目が、俺を映す。ドロドロに溶けていて、もう、酩酊状態にあるのは明白だった。

 でも、俺だって似たようなものだろう。別れた恋人の家に押しかけて、押し倒して、何をしようというのだろうか。

「見えるか、俺が」

「……まんまるぅ……い、おつきさま、だ……」

 俺の頬を、その手が撫でる。それだけで、泣けてくる。俺の目の色を、あいつはいつもそう言っていた。月のようにきれいだと、笑っていた。あれすら、最早すべて嘘だったのではないかと言う気さえしてくる。

「あめ、だぁ……」

 こいつはどこにいるんだろう。どうしてこうも、俺の話を聞いてくれないのか。

「きもちぃい……」

 その息は、酒の匂いしかしない。

「……なあ、聞けよ」

 それでも、抱きしめれば、少し、あいつの匂いがする。あんまり強く抱けば、吐くだろう、と思った。寝かせるなら体を横にして、そうして、吐かせてやらなきゃいけない、とぼんやりと理性が言う。でも、もうこの腕は離せない。もう、決めたから、逃がせない。

「俺を見ろ」

 吐けばいい。俺に全部吐けばいい。どんなに汚かろうが、臭かろうが、関係ない。

「なあ」

 こいつから出てくるものなら、何でも俺は飲み干せる。

「一緒に死のうか」

 返事なんて聞くつもりはない。こいつがどう言おうが、俺はこいつを殺すことしか、もう、考えられない。

「お前が好きな酒でも飲んで、吐くまで飲んで、吐いても飲んで、ずっと飲んでさ、体がマヒして、脳がマヒして、息が出来なくて、死んじゃうまで、飲もうか。……うれしいだろ?な?そうしよう?俺がなんて言っても、お前はもう、どうせ、聞いちゃくれないんだから、だったら、……飲もう。一緒に……な?うれしいな……?」

「……あはっ」

 空が笑った。腕から力を抜けば、ごてん、とその頭が床に落ちる。その笑顔は、まるで向日葵のように輝いていた。

「ゆきがいる……いい、ゆめ……」

 どんなに追い詰めても掴まることのなかった恋人が、やっと、俺の手に戻ってきた。そんな気さえした。だから、持ってきたウイスキーの蓋をあけて、その顔にかけた。

「ほら、飲めよ、空」

 彼女は痛そうに、目を閉じた。

「……ん」

「いらないか?じゃあ、俺が飲む」

 そうして、飲んだ。喉が焼けていく、痛み。それしか、分からない。ただ、義務のように、飲む。次第に、脳が揺れるような、視界が狭まるような、痛み。こんな飲み方、駄目だ、と理性が笑う。分かる。でも、死にたいのだから、これでいいのだ。口に入りきらずにこぼれた酒が、べたべたとシャツを濡らしていく。だから、何だって言うのだろう。

「ああ、おいしいな、おいしい」

 空いた瓶を放り捨てて、次を開ける。ただ、飲んだ。空は俺の膝の上に頭を置いて、ただ、視点の合わない瞳で、どこかを見ていた。

「ははっ」

 こんなに味のしない酒は、初めてだ。最後の酒だっていうのに、酒に失礼が過ぎて、本当に、最低だ。目を閉じて、ただ、酒を飲み干す。

 






「死なすのか」







 ふ、と重さが消えた。ぼんやりと目を開くと、膝の上にあったはずの頭がない。

「……空?」

 上げた視点に、それは、あった。

「いいや」

 黒い玉座の上に、空を抱えた美しい男が座っている。

「これは、俺の空落ち様だ」

「なに、を……」

「お前が落としたのだ」

「返せ」

 自分の口からこぼれた言葉に、驚く。

「返せ?……自分のものとでも思っていたのか?」

 俺が思ったことを、男が話す。

「誰のものでもないだろう、人は……」

 男の形をした、俺の心のように、それが話す。

「俺の、だ」

 むしろ、自分の口からこぼれる言葉が、自分が思ってもみないことを話す。

「俺の、空だ」

 思ったこともないことを、俺の口がこぼしていく。

「返してくれ。俺は、それが、いないと、生きていけない」

「ともに死ぬつもりだったくせに」

「だって」

「だって?何の言い訳をするつもりなんだ?」

 男は、灰色の王冠をはめた男は、空の髪を梳いて、とてもいとおしそうに、その頬を撫でる。その手はとても優しい。俺では到底真似ができそうもないほどに、ただ、優しい。それでも、俺の体は立ち上がり、男の頭の上を、殴りつけていた。

「返せ……」

「お前では空落ち様を幸せにはできない」

「そんなの……わかっているっ」

「では何故、求めるのだ」

「そんなの……、欲しいからに、決まっているだろう」

「何故、欲しがる?不幸にすると分かっていて」

 空は、元々、よく笑うやつだった。

「それでも、好きなんだ」

 その笑顔が、向日葵のようで、一目で、欲しい、と思った。人間に対して、そんなことは思ったことがなくて、始めはそれが恋だとは思わなかった。ただ、優しくしたかった。先生にからかわれても、優しくし続けた。空が、俺に対して、笑ってくれるだけで、何だって出来ると思った。空の手をとったときに、これがなかったときなど、想像ができないぐらいに、満たされた。

 これが恋なら、今までしてきたものはなんだったのかと思うほどに、恋をした。

「愛しているんだ」

 そうやって、時を過ごしていく内に、とても離れられないものになっていた。何があってもそばにいたいし、何がなくてもそばにいたい。家族になりたいと思った。自分の家族とだって、それほど上手くいっていないのに、空とは家族になれると信じて疑わなかった。空と手をつないで、歩けなくなる年になっても、一緒にいたかった。

 断られるなんて、考えられなかった。

 そのせいで、空が笑わなくなるなんて、思ってもみなかった。

「返してくれ」

 それでも、空がいない未来なんて、俺にはない。

「俺は、まだ、死にたくない」

「……この方は死にたがっている」

「空が死にたいはずないだろう!俺が、ここにいるのに……!」

「お前が落としたのだ」

「なに、を……さっきから、なにを……」

 その男の顔は、どこかで見たことがある。

「……お前、……俺、か?」

「そう見えるのか?」

 俺の声が、笑う。馬鹿にしたように、笑う。

「なんだ、これは……死ぬ、のか」

「死ぬとして、見えているものを信じずに、何を正とする?」

「何が言いたいっ問いかけなんて、うんざりだ……っ正しさなんて何の意味もない。俺は、空がいないなら、死ぬ。空が、いなくなるなら……空と、死んでやる……っそう、……そうするしかないんだ!」

「その自己満足が、愛だと、本気で思っているのか?」

「俺の思いに、俺が名前をつけて、何が、悪い!」

「捨てられた男が偉そうに愛を語る……滑稽だな?」

「黙れ」

「惨めだな」

「黙れっ!」

 体に力が入らない。酒のせいだ。そもそもこれも酒のせいで見ている幻覚か。

「お前などに、空はやらない」

 だとして、譲ってやる理由は何もない。

「……お前が、落とした」

 男が、また、そう言う。

「お前が、落としたんだ、この方を」

「俺が、……落とした……」

「お前が、突き落としたのだ、この人を、絶望に」

 男の手が空の頬から離れて、俺の頬を撫でる。それは、やはり、とても優しい手だった。

「ちゃんと見てたのか、お前は、この方を」

「……え?」

「いつだって、お前にだけに、助けを求めていたのに」

「おれ、に」

「何故、受け取ってやらなかったんだ」

 責めるような言葉なのに、その口調はとても優しく、そして、やはり、その手も優しい。力が抜けた膝が、地面に落ちる。その男の膝にすがるように、しがみつく。黒い、空の髪が地面に向かって、落ちていく。それが指に当たったとき、あまりに懐かしくて、あまりに、遠い。気持ちが悪くて、吐きたくて、仕方がない。

「……酒、なんて、ろくなこと、ねえ……くそっ……」

 悪態を吐き捨てて、生唾を吐き捨てて、見上げる。俺と同じ色をした瞳の男は、優しく微笑んでいた。

「王よ」

 男が笑う。

「お前が、病むと、世界が縮む」

「何の話だ」

「すべてわからないと、納得がいかないのか?すべて知らなければ、愛せないか?」

「……俺のせいなのか、全て?」

「ではこの方のせいにして、納得したいか?それで、お前の手の中に、空は戻るのか」

「だって」

「今度は何の言い訳だ」

 その言葉に、少し笑えた。

「わかった、……わかった、俺のせいだ」

「ああ」

「……がんばる」

「うん」

「ちゃんと、がんばるから、返してくれ」

 男が、俺の頭に手をおいた。わしゃわしゃと、まるで犬のように撫でられると、ひどく、嬉しかった。

「これは、俺が預かっていた分だ」

「……え?」

「撫でられたかったのだろう?ずっと……」

「……ははっ……ああ、そう、そうなのかも、しれない……」

 吐き気に任せて、涙を、落とした。

 空は優しくて、たしかに、俺は、彼女にずっと、母の役割すら、求めていた。そのことに気が付いて、もう、あまりに情けなくて、泣くしかなかった。

「それから、これは、……お前に預ける。必ず返せ」

「え?」

 男の優しい手は、俺の幻覚は、俺の腕の中に、何かを押し付けた。それが何か分かる前に、意識が、一瞬、飛んだ。





「……あれ?」

 男は消え、俺の腕の中には、空と、よく分からないものが詰まった瓶があった。






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