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「お酒、飲みすぎ。また日曜がなくなっちゃったじゃない」

「いいだろ?ちゃんと仕事しているんだから」

「もうー、たまには私たちとも遊んでほしいのにー」

「あはは、じゃあ、また来週な」

「約束よ!」

 両親は普通の夫婦であった、と、思う。

 私はまだ幼かったし、両親よりも、向日葵を抱いていることの方が多くて、よく、分かっていなかった。でも、恐らく、父の飲みすぎも、この頃はまだ、普通、と呼ばれる範囲だった。酒乱、と言われれば、そうだったのかもしれないけれど、まだ、それは、幸福で、穏やかな日々だった。

 終わりははっきりしている。

 父の会社がつぶれたのだ。その頃は何故そんなことになったのか、そうなるとどうなるのか、私は分かっていなかった。向日葵があたたかいから、大丈夫だと、そう思っていた。彼らも、私のような幼子にそれを悟らせたくなかったのだろう。だから、分からなかった。

「どう、するの」

「どうにかする、しかないだろう!」

 彼らはまだ若かった。考えてみれば、今の私と、同じ年だった。そんな年の、若い彼らにとって、私という子供は、ただただ、重い、重い、鎖だったことだろう。彼らの自由を奪い、逃げ道を奪い、未来を奪った。そうだ。鎖は、次から、次へと、不幸を引きずり込んだ。

「……耐えてくれ」

「わかってるわ」

「ごめん」

「いいえ、頑張りましょう」

 父の両親が続けて病気で倒れ、その介護も母の仕事になっていた。私は突然やってきた、おじいちゃんとおばあちゃんが苦手だった。何を言っているか分からない彼らの相手は、ひどく面倒で、私は、逃げた。そうして、母に甘えて、母の重荷となった。母は笑っていた。母が笑うと嬉しかった。だから、何も分からない『ふり』をして、その首に手をかけ続けた。

「つかれた」

 疲れなど、ただの甘えだと、思いつめる人だったのに、その言葉を、私は、聞き流した。

「おかあさん?」

 あの匂いを覚えている。

「大丈夫、ちょっとつかれただけ」

「そう……?」

「お金はちゃんとあるから」

「おかね?」

「そうよ。だから、給食費も払えるからね」

「だいじょうぶだよ、おかあさん、そんなの」

「大丈夫よ」

 あの人の、大丈夫、と言う言葉は、全てを切り上げる言葉だ。

「おかあさん?」


 それが自殺だったのか、事故だったのか、今になっては誰も判断できない。


 それに、私自身、よく覚えていない。

 あの匂いは覚えている。学校から戻る途中で、その火が見えたことも、覚えている。その煙が高く高くあがっていた。けれど、それが逆に、家に雲が落ちているようだった。雲から雷がびゅんびゅんとんでいく。赤い、火花。そういえば、赤い炎は不完全な燃焼なんだっけ、と、どうでもいいことを思った。そのことも覚えている。

「おか、あ、さん?おば、あちゃん、おじいちゃん……ひまわり」

 煙が喉を焼いていく。泣いているのは、心ではなく、生理的な現象だ。

「お嬢ちゃん、あの家の子?」

「は、い」

「今、おうちに誰かいる、とかわかるかな」

「おかあさん、と、おば、あ、ちゃんと、おじいちゃん……」

「さんにんもいるのか、わかった、ありがとうね」

「おかあさん、と、……」

「誰かこの子!保護しておいて……」

 声が遠くなっていく。炎には近づけない。煙の壁が、私を家から遠ざける。

「お父さんは?」

「おと、う、さん……よば、よばないと……」

「どこにいるの?」

「どこ、に……?どこ、だろう……」

 父はその時、仕事の面接に行っていた。私は、そのこともよく知らなかった。こどもだから、教えてもらっていなかった。携帯電話も持っていなかった。壊れた、人形のように、聞かれた言葉を、繰り返すだけだった。煙が襲い掛かってくる。灰色の煙、黒い煙、赤い炎、吐きそうな匂い、何もかもが、私を押し返す。

「ど、お、しよう……ひまわり、ひまわりは?」

「ひまわり?なに?弟とか、妹?」

「ちがう……わたしのひまわり……」

 向日葵は、鎖が切れ、保護されていた。その体を抱いた時に、私は、眠ってしまった。あたたかくて、やわらかくて、獣の匂いがして、いつもの、向日葵だった。向日葵は、眠る私にずっと、寄り添ってくれていたと、後で聞いた。

 そう。つまり、私は何もできなかった。何も、しなかった、のだ。

「ひまわり、ねえ、なにがあったんだろう……」

 きゅうん、と鳴いた、向日葵の濡れた鼻先を覚えている。

 その後の、葬儀や、納骨など、そういった義務のような作業があったはずなのに、どうしても上手く思い出せない。今でも夢に見る家はあの生家なのに、どうしても、その終わりを明確には思い出せないままだ。あの匂いを覚えている。あの叫びを覚えている。でも、どうしても、母の顔を思い出せないまま、私のそれまでの思い出は全部焼けてしまった。

「心が燃えたのだから、体も燃えてしまえばいい」

 父の言葉の意味が、今更よく分かる。

「何故、生きていかなきゃ、いけないのか」

 あの時は、どうしてもわからなかったけれど、その痛みは、今になってよく分かる。

 妻と両親が燃えた炎の横で、犬と眠り込めている娘を見て、役立たずを見て、彼は何を思ったのだろうか。

「俺はもう、頑張った……頑張ったじゃないか……」

 でも、その線をつなぎとめる方法は、分からない。それに、分かったとしても、もう、取り返しはつかない。

「空そら」

 過去には戻れない。

「おとうさんを、殺してくれる?」

 だから、私はずっと、この痛みから逃げてきた。逃げて、逃げて、ただ、転がるように、逃げた。




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