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「愛ほど、憎しみに変わるものはないんだよ。だから、逃げるなら、最後まで逃げなきゃだめだって言ったんだ」
目を開く。
「先生?」
「うん」
「……なんで、こんなところにいるんです」
「こんなところ?ここはどこだい?」
「ここは、……変な、場所です」
「僕にはいつもの研究室に見えるよ」
起き上がり、見渡せば、確かにそこは研究室だった。先生はいつも通り顕微鏡をのぞいている。私の書いた研究日誌が机に上に置かれている。たしかに、私の字で、内容も私のものだ。
「……夢?」
「仮眠中に夢まで見たのかい?」
「……仮眠……」
先生が顕微鏡から目を離して、微笑む。
「寝ぼけている」
「あ、……す、すいません」
「いいよ、反応待ちはしんどいからねえ」
「あっ、え、えと、何を、していたんでしたっけ……」
「ええー?そこからー?どんだけ寝ちゃってたのよー」
「すいませんっ」
自分の研究日誌を開き、最後のページを見る。イカリソウの薬理作用の検討……、こんなもの、私はやっていただろうか。しかし、日誌を読んでいけば、確かに自分の字だし、内容も納得ができる。そう、……そうだ、私はこの研究をやっていた……んだ……。
「え、っと、今は何の反応待ちをしていたんでしたっけ……」
「ん?君が抽出した成分を病理細胞に投与してるんだよ……どうしたんだい、一体」
「いや、記憶が」
「酒の飲み過ぎじゃないか」
その、声。
「先生、あんまり俺の彼女を連れ回さないでくださいよ」
その、顔。
「ええー?昨日は飲ませてないよー、っていうか雪くんが飲んでくれたらいいんだよー」
「俺もあんたも潰れちゃったら、ここが開かないでしょう。月一だけです、俺が飲むのは」
「それで誰よりも飲むからなあ、君は……本当にラスボスだよねえ……」
「酒が嫌いってわけじゃないですから」
その、手が、肩に触れて、指先が、頬を、なぞる。
「どうした?本当に顔色悪いな」
「……あ、なた……」
「何だ変な顔して、……俺を忘れたのか?ははっ水でも飲んで目を覚ませ」
くしゃくしゃと私の髪を撫でて、彼は先生の隣に座った。
「どうです、反応出てます?」
「出ているっちゃ出ているけどーって感じだなあ」
「ああー効果は見られる、レベル?」
「まあ、効果出てくれたら研究費も出てくれるけどねえ」
「それじゃ死人の数は減りませんよ」
「それなんだよねえ」
彼が先生の横で笑う。
――それを見ているのが、本当に、好きだった。
優秀で真面目で、優しいけど、厳しくて、お酒も強くて、私よりずっと強くて、ずっと上にいる人だった。なのに、私のことをとても大切にしてくれた。とても、愛してくれていた。私は、それを知っていた。それが、重たくて、仕方なくなるぐらい、よく、知っていた。
「あなた、は、いい、ひと、だ」
穏やかな二人が、とても見ていられなくて、目を閉じて、自分を抱きしめる。
「……どうした?」
「私は、それを、認めたくなかったんだ……」
寒い。きている服を掴み、胸元に引き寄せる。寒い。
「私が、……あまりにも、器が小さくて」
あたたかい、服。白い、ローブ。
「あなたを傷つけた……」
炎だ。
「あつっ」
目を開けると、何もかもが、燃えていた。その中心に、彼がいた。彼は私を見ていた。いつかのように、とても穏やかに、笑っている。
「……ごめんなさい」
「お前はそれしか言わなかった」
「ごめん、なさいっ」
「俺は、お前の言葉がもっと聞きたかった。お前の心も……なあ?俺が悪かったんだろ……なら、何が悪かったのか、言ってくれなくちゃわからない。わからなければ、謝ることもできない!喧嘩すら、できない……そんなことあるかっそんなやり方が……!」
「ちが、ちがう、わたしが」
「お前は、俺を見ていたか?」
炎の中を、彼が進んでくる。
「本当に、俺を見てくれていたのか?」
私に向かって、一歩一歩、進んでくる。
「わ、……わたしは……だれも……だれも、すきになっちゃ、いけない……」
「なんでそんなことを言うんだ」
「だって、私は、罪人だ」
「理由になっていない!」
その手が好きだった。その手に触ってもらえるとき、とても嬉しかった。
「俺を見ろ!ちゃんと俺を見ろよ……!」
その目が好きだった。その目にうつるとき、とても幸せだった。
「俺が、お前を好きになったことさえ、間違いだったのか?」
その口が好きだった。その口からこぼれる言葉が好きだった。
「……頼むから、何か、言ってくれ……」
その涙だけは、どうしても、見たくなった。
「こんなに、悲しくて、辛くて、悔しくて、腹立たしいことはない!」
炎が私たちを、覆い尽くした。




