3
古き王の肩にとまった、その美しき鳥の形をした空落ちがこちらを見る。遅れて、その王もまたこちらを見る。その額にはまった王冠は暗闇の中でも、鈍く光る。
「何をしに来たのだ」
「……俺の空落ちが、会いに行けと」
「……ほう」
しかし、空落ち様は俺の腕の中で眠りについてしまった。その頬についた涙の跡が、ただただ可哀想で、つられて泣きたくなってしまう。この優しいお方は、俺やこの男よりも、このことをひどく、悲しんでいる。
「お前が一人で死ぬのではないか、と」
「……それで?」
「俺の空落ち様が泣かれるのだ」
「それは断れない、か」
男はひとつ息を吐いてから、俺を手招きした。
「来ると良い」
「……失礼する」
男の部屋は整っていた。というよりも、ものがほとんど残っていないのだ。男の前の椅子に座ろうとすると、その空落ちが、高く、軽やかに、鳴いた。
「うん、……その空落ちはそこの寝台を使うと良い」
「……しかし」
「安心しろ、新しいものだ」
「……お借りする」
空落ち様を寝台に横たえて戻ろうとすると、俺の服の裾をその細く柔らかな指先が掴んでいた。
「……あなた様……」
「服をおいてこい」
「……」
それしかないだろう。シャツを空落ち様にお渡ししてから、椅子に座る。目の前の男は肩に乗った空落ちに何かを囁いてから、こちらを見た。
「お前の空落ちは何を成す?」
「……酒を作ると」
「さけ?」
「ああ」
「……ふ、ふふ、そうか、そう言ったのか、面白い空落ちだな」
「知っているのか?」
「何をだ」
「さけ、が何か……先生も知らないと言うのに……」
男は口髭を撫でて、したり顔で笑う。
「王の空落ちとはひとつのことを成すために現れるものでもない。お前の空落ちは、言葉が使える分、心を通わせるのに苦労するだろうな」
それがひどく不愉快だ。
「俺が、あの方のために苦労などしない。空落ち様が望まれたなら、何もかも全て、喜びでしかない」
「それを、あの空落ちが理解するまでに、お前は苦労するのさ」
男は柔らかく笑い、それから自身の空落ちを撫でた。その美しい鳥はその手に頬を寄せた後に、飛び、俺の空落ちの側におりた。
「好きか?」
「何が」
「お前の空落ちが」
「ああ」
「そうか」
男は自身の空落ちを眺め「そうか」ともう一度呟いた。それは俺に対して言われた言葉には到底思えないものだった。
「……空落ち様は、お前が、俺の父だから、ひとりで死なすなと言う」
空落ちがいる限り一人になることはないと言うのに、涙まで流された。男はひとつ頷いてから、こちらを見た。
「お前の空落ちは、人間が一人で死ぬことを悲しみとしているのだ。空落ちはどこから来るか、知っているか?」
不意に変わった話に、虚をつかれた。目の前の男は、たたこちらの回答を待っている。
「空からだろう?」
「いいや、記憶からだ」
「記憶?」
「闇のものがどこから生まれるか、知っているか?」
「闇からだ」
「闇のものに取り込まれると、何になる?」
「卵になる」
「そうだ。しかし闇のものに取り込まれたものもまた闇を孕む。その卵もまた、記憶に沈むのだ」
「……問答か?」
「事実だ」
男がこちらに右手を伸ばした。意図がよくわからず、そのシワだらけの手を見る。
「手を」
「何故?」
「これが最後だからだ」
「最後、も、最初もないだろう。俺がお前と話すのは、これが二度目ではないか」
「ああ、だからこそ……一度ぐらい、息子の手に触れてみたい」
「……」
言葉でなんと返せば良いのかわからず、ただ、その手を握る。かさついた手のひらだ。指先が冷えている。両手でその手を取り、指先をあたためてやると、男は嬉しそうに笑う。
「お前の母を俺は覚えているよ」
「……母?」
「あれは優しくて哀れな女であった。覚えている。この記憶から、いずれ卵ができるのかもしれない」
「……、言っている意味がわからない」
「言葉とは誤解を生むものだ」
「お前の言葉は曖昧だ、誤解もなにも、理解ができない」
「言葉という檻に収まらないものを無理に押し込めるわけにもいくまい……そもそも理解と読解は違うものだ」
「謎かけのようで、頭にとどまらない……何が言いたいんだ?」
男の左手が俺の両手にかかる。その手もやはり冷たいので、ひとつ息を吐いてから、両手で包んで、あたためてやる。
「お前は優しいな」
「何故こんなに手が冷たいんだ」
「死ぬからだ」
「やめろ。その理論でいくと、俺の空落ち様も死ぬことになる」
「空落ちも死ぬさ」
「死なない!」
「ではお前の空落ちは生きていないのか?」
「違う!生きていても、死なない!あの方は、俺をおいて死んだりしない!」
俺の言葉に男は何度かまばたきをしたあと、「それがお前の願いか」と吐き捨てるように、低く、言葉を落とした。
「当然だろう、誰もが願うことだ」
「ならば、お前の空落ちは死ぬぞ」
「……は?」
男の両手が俺の両手を包む。
「お前に喪失を教えるためだけに、空落ちは死ぬ」
「な、ぜ……そんなこと……あり得ない!」
「お前が王になるからだ」
「ならば、お前の空落ちは生きているではないか!」
「代わりに俺は、お前の母を失った」
「……は?」
「……お前は何ももたなかったからこそ、喪失を知らない。執着は業となる。空落ち以外に、何かを、早く、失うといい。そうでなければ、残らぬぞ。愛など、恋など、死の前には、あまりにも軽すぎる」
その瞳は、俺と同じ灰色をしている。
「王はすべての重圧を背負うものだ」
しかしその瞳は鏡で見るものよりも、はるかに、重い色をしている。ぞっとする。寒い。怖い。こんなにも冷たいものに包まれている。空落ち様を眺める。涙の残った頬。だめだ。今、あの方にすがるわけにはいかない。あの方は、ただ、この男を哀れんでいるだけなのだ。ならば、この重さを、教えるわけにはいかない。伝えるわけには、いかない。
目の前の男を睨む。
「それ、でも、わがあるじの、望みだ。俺は、王になるっ……わがあるじを失ったりもしない!守ってみせる……!」
男は、ただ、微笑んだ。
「ならば、そうするといい。それもまた、お前の務めだ」
「当然だ!」
「……いい、王になるといい」
俺の手を離し、男は立ち上がった。
「いこうか、我が最愛」
その鳥は呼ばれたことを喜ぶように高く、軽やかに鳴いて、飛ぶ。それに向かって、男が手を伸ばす。
「……良い旅路を、古き王」
「ああ、いずれまた、新しき王よ」
その手の先から、皮がめくれるように、羽が生まれ、瞬きをしている間に、男は灰色の鳥に変わった。そうして、緑の鳥と絡み合うように、踊るように、くるくると飛び、天窓から逃げ出すように、駆け出すように、出て行った。
残された王冠を拾い上げると、思ったよりもずっと重く、ずっと、陳腐に見えた。
「……あるじ、わが、あるじ」
何か、とても、恐ろしいものを見た気持ちだ。
「俺の、俺だけの、かみさま」
寝台に入り込み、その薄い身体を抱きしめる。
「いかないで……おいていかないで……」
自分の口からこぼれた声で、その言葉で、俺は、あの男が死んだことが悲しいのかと、わかった。けれど、何故そんなことを思うのかよくわからず、同時に、ひどく、怖かった。ただ、目の前の身体をあたためるために、抱きしめた。




