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ちっとも凄くない 寺生まれのKさん

ちっとも凄くない寺生まれのKさん 『始業式・初登校』前編

作者: 満月すずめ

 日が昇る前に起きて、ランニングウェアに着替えてパーカーを羽織る。

 冬場のジョギングにはパーカーが欠かせない。こんな所くらいにしか金をかけないから、二年前に買ったものがまだ着られている。流石に少し小さくなってきたが。


 朝の寒気が漂う縁側を歩いて玄関に向かう。吐く息の白さは昼とは比べ物にならない。この時間はまだ誰も起きていないが、たまに巡回から戻ってきたらしいおじさんと顔を合わせる事があった。


 本当、駐在さんも楽じゃない。

 実質24時間勤務なんて誰もやりたがらない。案外、おじさんが転勤を免れているのはそんな事情があるのかもしれなかった。


 ジョギングにしか使わない靴を取り出して、紐を結ぶ。玄関の段差――上がり框に尻をつけていると妙に冷えて、床暖房とやらを取り入れるべきか悩んでしまう。親父が帰ってきたら話をしてみようか。俺はともかく、親父はいつまでも若くはない。


 なるべく音を立てないように玄関の戸を開けて、ゆっくり閉める。

 最近、十二月よりも一月二月の方が寒い気がする。季節がゆっくり遅くなってきているような、そんな感覚。人間が適当につけた暦など、自然は意に介さない。


 思えば、春分や秋分も子供時代におかしいと思ったものだ。まだ春じゃないのに、とか。昔はもう春だったのだと思えば、今と比べても季節がずれていたのだろう。何物も変わらずにはいられない、諸行無常の響きは時の流れにも当てはまるということか。


 爪先でアスファルトを叩いて、靴の調子を確認する。問題ない、きっちりフィットしてる。

 軽く準備運動をして手足を慣らす。太ももを上げてその場ダッシュ、軽く息が上がるまでやって足を伸ばした。調子はいつも通り、息の白さが濃くなって、体が少し暖まる。

 白い煙を吐き出して、アスファルトを蹴り上げた。


 フォームを確認しながらいつものコースを辿る。商店街方面を避け、裏山を大きく回って畑や田んぼの中を走るコース。なるべく人がいなくて長く走れる、子供の頃からずっと走っている道。

 寺に戻ってくる時間は大体一時間と少し。もう少し長く走りたいときは裏山を回ったところでコース変更、町の外に出るような方向に行けば二時間くらいは時間を潰せる。


 煙草と同じくらいには、走る時間が好きだ。

 暫く走っていれば、何も考えられなくなるから。

 機械みたいに腕を振って足を動かしていれば、それでいいから。


 最近は特に、この習慣が好きになった。冬の朝は遅くて、誰もいない。静かで冷たくて、走っていると誰もいない場所に迷い込んだような気分になる。

 一人きりの世界は寂しくて、どうしようもないくらい楽だった。

 たまに霧が出ることもあって、本当にこの世の外に出た錯覚に陥る。


 何もかもから救われるような、全てから放り捨てられたような、この世から消えていけるような馬鹿な妄想をほんの少し信じられる。

 神隠し、なんてのはこの錯覚に囚われた人達が現実に戻れなかった事を言うのかもしれない。

 それなら、子供や疲れ切った人ばかりが遭うのも道理に叶う。


 頭の悪い考えを泡のように浮かべながら、規則的な呼吸で体を動かす。

 泡が弾けるまで、十分くらいはかかるのがジョギングの悪い所だ。

 煙草なら数秒で済むのに。


 今日はコース変更はなし、一時間くらいで戻る普段のルートを使う。時間の関係上、やむを得ない選択だった。


 今日は一月七日。例年より一日遅い、始業式の日。

 怜が初めてうちの高校に登校する日だ。



  ※          ※           ※


 寺に戻ると、風呂場に明かりがついていた。


 軽くクールダウンをして靴を戻し、制服をとって脱衣所に顔を出す。

 開け放たれた風呂場の仕切りの向こうで、黒髪を一纏めに縛った怜が掃除をしていた。


「おはよう」

「おはようございます、仁様」


 スポンジ片手に微笑む姿は旅館の仲居さんのようで、一瞬自分の家かと疑わしくなる。

 檜風呂と相俟って今が平成であることも忘れそうになる。本当に、時代錯誤な環境だ。


「悪いがちょっと着替えるんで閉じるな」

「はい、どうぞ」


 毎朝の事ではあるが一応声をかけ、仕切りを閉じる。


 回る洗濯機を横目にパーカーごとランニングウェアを脱いで汗を拭き、制服に着替える。そういえば、怜に制服姿を見せるのは初めてだ。

 顔見知り以外に煙草を吸ってる所を見られると不味いから、制服を着るのは好きじゃない。冬休みの間も一度も着なかった。


 脱いだ服を籠にいれたまま、仕切りを開く。


「怜、今日は洗濯するか? するならウェアをだすけど」

「はい、昨日できなかった分をしようかと思って――」


 振り向いた怜が、目を丸くして言葉を途切れさせた。

 どこかおかしいだろうか。久しぶりに着るとはいえ、裏と表を間違えたりはしていないと思うが。

 子供の頃に比べて悪くなった目つきでは、こういう真面目な服はいまいち似合わない。それは俺が一番良くわかっていた。


 中学までは、それほどでもなかったと思う。

 高校にあがってからは、透耶や志穂にも作務衣姿の方がまだ似合うとよく言われた。


「……まぁ、似合わないのは勘弁してく――」

「――いいえ! あの、その、とても良くお似合いです!」


 スポンジの泡を飛ばしながら、怜が大げさに体ごと左右に振る。

 余り見せない大きな反応に少し驚いていると、はにかみながら頭を下げて、


「申し訳ありません、少し驚いてしまって。これから毎日見るお姿なのだと思うと、何だか感慨というか何というかが溢れてしまいまして……」

「……あぁ、うん、そっか」


 何といえばいいのか分からない。

 謝られることじゃないと思うが、だからといってどうしろと言うのか。気の利いた言葉は口から出てこなかった。

 その類の事を言えば、怜の気持ちを受け入れてしまうようで。


 触らぬ神に祟りなし。何も言わずせず、流してしまうのが一番であると思った。

 まだ、俺は何一つ決めることができていないのだから。


「じゃあ、ウェアは出しておくな」

「あ、はいっ。今日は晴れるそうですので、出る前に干しておきますね」

「なぁ、今日くらい洗濯は俺がやっても――」

「いいえ。これは私の務めです。仁様は学校の準備をなさって下さい」

「いや、それを言うなら怜の方が、」

「私は昨日済ませていますから問題ありません」


 それを言うなら俺とて昨日の内に済ませているのだが、野暮だと思って言うのを止めた。


 怜は案外頑固だ。こうと決めたことは中々譲らない。我が儘はあの一度きりじゃないかと思うのだが、こういうのは別らしい。

 確かに以前怜に洗濯を頼んだことがある。そうした方が、もしかしたら気が楽かもしれないと思ってのことだ。

 それ以降、洗濯もまた任された仕事として、怜が一手に引き受けていた。俺がやるといっても断ってしまう。多分、どうしようもない事態でもない限り頷かないだろう。

 やることがなくなるというのは、結構困るものだと思い知った。


 ウェアを洗濯籠に入れて、自室に戻って念の為鞄の中身でも確認する。それ以外にやることもない。

 授業がないから教科書は入ってない。ノートが一冊に筆箱に予備の赤マル。

 ポケットの中の煙草の本数を確認する。半分はあるから、予備は一箱で十分。

 確認ついでに一本取り出して火をつけた。どうせ暇だし、やることもない。


 壁掛けの時計に目をやる。時間は六時を回ったくらい。もう少ししたら依歌が朝食を作りにくる頃合だ。

 怜の初登校日ということもあって、いつもより少しだけ早い。

 この寺から高校までは一時間もあれば着くが、怜の事を考えるとそうもいかない。ジョギングを長引かせられなかった理由だ。


 フィルターを咥えて、息とはやっぱり濃さも形も違う煙を吐き出す。暇を潰すように吸う煙草は、余り味がしない。不味いとも旨いとも思わず、ただ濃い臭いが脳に染み渡る。

 霧の中を走るときと似ていて、嫌いではない。

 ただ、同じようにどこか罪悪感に近い何かがあった。

 霧の中に消えてしまう錯覚に陥ったとき、頭の中を親父や依歌の事が過ぎって、痛みに似た胸の疼きが起こるように。


 紫煙は天井に届いて、周囲を漂う内に消えていく。天井まで消えないのが、部屋の中で吸う時に一番気に入っていることだった。

 赤マルの重たい煙が喉にきて、ゆっくり頭を揺らしていく。ピースみたいな渋味がなく、ラッキーよりも苦味がある。といっても、味を批評できるほど吸い慣れてるわけでもないが。


 依歌がくるまでどうしようか。適当にテレビでも見ているか、それとも。

 ふと目に付いた古文の教科書を手にとって、これでいいかと鞄に入れた。

 漢詩でも読んでいれば、いい具合に時間も過ぎるだろう。


 煙草の火を消し、アウターと鞄を手に居間に向かう。廊下は靴下越しにも冷たく、本堂横の縁側に出れば洗濯籠を持って庭に出ようとしている怜を見つけた。

 風呂掃除しながらまわしていた分だろう。今頃洗濯機は本日二度目の仕事に励んでいるに違いない。

 笑いかけてくる怜に軽く手を上げ、居間に入る。それ以外どうしようもなかった。


 適当にテレビをつけて、漢詩を読む。教科書に載ってる程度ではたかが知れていたが、何もしないより楽だ。

 洗濯物を干す怜の後姿を眺めるのは、気が引けた。

 課題も終わっているし、何かしら勉強をするにも中途半端な時間。

 早く依歌が来てくれないかと考えている自分に、溜め息が漏れた。



  ※           ※             ※


 寺生まれだが、霊感などの『ソッチ』の力がまるでない俺――吉備綱仁。

 隣の駐在所に住む幼馴染――島原依歌に世話を焼かれながら、なんとなくと惰性で生きてきた俺の前に許婚と名乗る女の子が突然現れた。


 クリスマスに寺に来たその子の名は、鬼瓦怜。

 親父の了承も得たという彼女に俺も依歌も何も言えず、一緒に暮らすことになった。

 その出来事をきっかけに、俺達の関係は少しずつ変わっていく。


 これは、俺達三人と、その周囲の人達を含めた町の物語。

 なんてことはない、特別でもない日常。

 世界を揺るがしたりなんか少しもしない、心が絡まるだけの出来事だ――



  ※             ※             ※


 制服にマフラーとダッフルコートの完全装備でやってきた依歌を迎えて、三人で朝食を摂る。今日のじゃんけんは依歌が勝ったようだ。味噌汁の味で大体分かる。

 食べ終わったら依歌は食器の片付け、怜は洗濯物を干して着替えに行った。またも手持ち無沙汰な時間がやってきて、すぐに出られるようマフラーを巻いてアウターを着込み、縁側で煙草を吸う。


 やることがないと本当に肩身が狭い。こんな環境にも慣れてしまえるんだろうか。でも、他人が忙しそうにしてるのに自分だけ暇というのは、妙な辛さを感じる。

 自分の家のはずなのに、浮いてしまって心苦しい。漫画でも読んでればよかったか。でも、煙草を吸うのとさして変わらない気もした。


 ダッフルコートのポケットに手を突っ込み、煙草をふかす。屋内と違って、外だとすぐに煙が消えてしまう。せめて軒上までは持ってくれと見つめるが、無駄に終わった。


「仁、怜さんはまだ?」

「ん、あぁ」


 洗い物を終えた依歌が鞄片手に居間から出てきた。


 着ているのは、俺と同じダッフルコート。違うのは色と丈くらいで、俺のは紺で依歌のは橙。高校に入る前に一緒に買った代物だ。

 特に拘りもなかったし丈夫ならそれで良かったから、依歌に選んでもらった。礼代わりに依歌の分の代金は俺が持った。無意味に持ってるよりもいい使い道だと思う。

 依歌がおばさんから貰っていたコートの代金はシュシュやらニットセーターやらに消えた。試しに値札を見たらとんでもなくて吃驚したのを覚えている。


 他人から見たらどう思われるか、くらい察せないわけじゃないが、今更その程度でどうこう言う奴はクラスメイトにすら一人もいない。

 俺達の間に他意がなければ、それでいいはずだ。


「どうする? 私表に出てようか?」

「なんでだよ」


 障子を閉める音を聞きながら、振り向かずに灰を落とす。

 後ろでどんな顔をしているのか、出来れば見たくはなかった。

 それがどんなものであれ、何も思わずにはいられないだろうから。


 赤マルを思い切り吸って、どこぞの怪獣みたいに煙を吐いた。

 怜の制服姿を見るのは、俺も今日が初めてだった。


「お待たせしました」

「あぁ、」


 小走りに駆け寄ってくる足音に顔を上げて、



 言葉を失った。



 見慣れた藍色の制服に身を包んだ怜は、本当に漫画にでも出てきそうだった。


 華奢な手足が制服から伸びて、色のコントラストで浮き上がるように白さを強調している。肩にかかり背中に垂れる黒髪が制服の藍と混じり、無理やり浮世に繋ぎ止めていた。

 見慣れたものと見慣れぬものの融合は、目撃したものを別世界に連れて行く。

 着せ替え人形じみた、けれど確かに人の熱を感じる姿に、異世界に迷い込んだ気分になる。


 朱に染まる頬が、やけに際立って見えた。


「あの、どうでしょうか? やはり、私には似合わないでしょうか……?」

「――うん、いや。似合ってる。うちの制服とは思えない」

「良かった……」


 反射的にひりだした言葉に、怜がほっとしたように微笑む。

 その顔に少し罪悪感が刺激される。思ってもないこと、ではないが、『この場に相応しい言葉』を口にしてしまった気がする。


 無難に、平穏に、相手が望むであろう言葉を。

 煙草を吸おうとして、もうフィルター近くまで火がきていた。

 すり潰して二本目を取り出そうとして、


「仁! 怜さん! 早く出ないとゆっくり案内できないよ」


 玄関の上がり框のところで依歌が叫ぶ。

 二本目は学校に着いてから吸う事にして、ポケットに突っ込んだ。出来れば一刻も早く吸いたかったが、依歌の言うとおり時間が余りない。

 玄関傍の電話台に置いてあるデジタル時計は、七時過ぎを示していた。


「三人だし初登校日だし、カブ使えないでしょ? 遅刻するよ」

「分かってる」

「二本目吸おうとした癖に?」


 依歌が玄関を開けながら、靴に足を突っ込む俺にジト目を向ける。

 流石に俺が何をしようとしたかくらいお見通しらしい。抗弁するだけ首を絞めることになるのは火を見るより明らかだった。


「悪い、助かった」

「ん、良し。怜さんもコート着ないと寒いよ」

「はい、そうですね」


 靴を履いて玄関の戸棚からチェーンと南京錠を取り出し、依歌に続いて玄関を跨ぐ。

 後ろではローファーを履いた怜が玄関の鍵をかけていた。

 余り意味はないが、もう男所帯ではなくなったのだ。そういうのも必要だろう。


 怜のアウターはチェスターコート。ローファーと合わせてフォーマル感が強く、怜らしい。ブーツの依歌と並ぶと、下手したら同年齢には見えないだろう。

 依歌が気にするだろうから、口には出さないが。


 全員が潜ったのを確認して門を閉め、チェーンを巻いて鍵をかける。

 今時の防犯としては物足りないかもしれないが、この町ではこれで十分だった。駐在所の隣にある寺を狙う強盗もそうはいない。


「道は覚えやすいと思うな。遠いけど」

「そうですね。地図でも確認しましたし」

「志穂が案内したがってたけど、行かなかったの?」

「誘われましたが、遠慮しました。最初は仁様と一緒に登校したかったので」

「あー……そう、なんだ」

「はい」


 作業中の会話は聞こえなかった事にして、鞄の中に鍵があるのを確認する。

 ジッパーを閉めて担ぎ直し、


「行くか」

「うん」

「はい」


 俺を真ん中にして、三人並んで歩き出した。

 毎日顔を合わせているからそう話すこともないと思っていたが、道案内していれば結構話の種も出てきた。

 その殆どは町の誰かの説明やら、昔の思い出に纏わる話だったが。


 何か話す度に依歌が生き生きし、怜がほんの少し寂しそうな顔をする。

 横目にその様子を見ながら、俺は案内と説明の殆どを依歌に任せていた。

 俺が言えば、何かが偏る気がして。

 話を振られた時だけ、首を縦に振るか横に振るか。


 煙草が吸いたかった。

 達也は、いつもの場所にいるだろうか。

 学校に着くまで考えたことといえば、そのことばっかりだった。



  ※             ※              ※


 無事学校に着いて職員室に怜を送り届け、教室に鞄を置いてすぐに出た。

 教室に達也の姿はなかった。けれど、鞄はある。だったら、いつもの場所にいるはずだ。


 依歌に軽く手を振って、校舎裏に向かう。

 目指すは隅に隠れるようにある、スタンド式の吸殻入れが置いてあるだけの喫煙所。

 仕切りもなく適当に置かれた赤い箱の傍に、達也が居た。


「おはよう」

「おぅ」


 軽く手を上げる達也の横に並んで、同じ赤マルに火をつける。

 火をつけた瞬間だけ少し暖かくなるのは、ライターのせいだろうか。平均820℃もあるという火種のせいかもしれない。

 達也の吐いた煙の方が長く宙に漂っているのは、気のせいなんだと思う。


 脳に煙が満ちて、思考が鈍くなる。考えることが端から飛び散って、ぽっかりとドーナツの穴みたいに空洞が生まれる。

 その感覚が、どうしようもないくらい気持ちよかった。


 何かの事も、誰かの事も、頭から消え去って気にしなくなる瞬間。一時的に過ぎないそれが、心に羽を与えてくれる。煙草なんて、やっぱり麻薬だ。

 でも、それは酒に頼るのと何が違うのだろう。

 アイドルに熱を上げるのと、漫画に夢中になるのと、恋だの愛だのと騒ぐのと、一体何が違うというのだろうか。


 逃げるのが悪いというなら、どうしたらいいのか教えてほしい。

 生まれ上どうしようもないものを、一体どうすればいいのか。

 俺も達也も、同じようにどうしようもないもので行き詰っていた。


「今日はどうするの?」

「お前は?」

「全部出る。怜……許婚もいるし」

「なら、俺も出るわ。見ておきたい」

「吃驚するよ」

「噂は聞いてる」


 横目で盗み見た達也は、こちらを一瞥もせずに煙草をふかしていた。

 達也はいつもと変わらない。それが何故か安心できて、隣で煙を空に向かって吐いた。

 少し昇るとすぐに広がって散らばっていく。煙は己を保てない。曖昧模糊とした形しか持っていないから。


 ぼうっとして、気がつけば二本目に火をつけていた。いつの間に咥えたのか、記憶がない。体が勝手に動いて赤マルを吸っていた。

 お互いに何も話さず、ただ煙を吸っては吐いてを繰り返す。ゆっくりしたペースで、言葉の代わりに紫煙が漂う。


 家より自分の部屋より、何より居心地の良い空間。

 臭い煙草の煙が漂うみすぼらしい校舎裏の一角。達也と一緒に煙草が吸えるこの空間が、学校に来る一番の理由になっていた。


 ジュッ、と煙草を押し付けて火が消える音がする。空いた穴から水に放り込めば、微かな音とともに残り火さえ葬られる。

 二本目を赤い箱の中に捨てて、三本目に火をつけようとしたとき、


「仁、達也。もう朝のHR始まるよ」


 声に振り向けば、少しあがった息を整えようとする依歌がいた。

 ちらりと達也の方を窺えば、火をつけたばかりの赤マルを押し潰していた。


 達也は基本的に他人の言う事なんて右から左だが、俺と依歌の言葉は聞いてくれる。

 それがどんな意味を持つか、今の俺には判別がつかない。

 三本目を箱に戻して、ライターごと仕舞い込んだ。


「分かった、行こう」

「今日は怜さんがいるんだから、サボったら駄目だよ」

「そうだな」

「煙草吸ってるとすぐ時間忘れるんだから」

「すまん、いつも助かる」

「達也も、腕時計くらい持ってないの?」

「ないな」


 謝る俺から達也に狙いを変え、依歌が角を突く。

 達也と吸っていると時間を忘れるのは確かだ。今回は本当にサボるつもりはなかったから、助かった。

 戻ろうとする俺の隣に依歌が並び、俺達の少し後ろから達也がついてくる。


 達也は、あんまり隣に並ぶのが好きじゃない。というより、人と一緒にいるのが好きじゃないようで、文化祭の打ち上げだのなんだのに参加したことは一度もない。

 理由を聞いたことはなかった。必要なかったし、達也も喋りたくなさそうだから。

 それでも、こういうときはやっぱり気になる。俺と二人だと並ぶこともあるけれど、他に誰かいるといつもこうだ。


 嫌な予感はしないでもないのだ。

 俺が一緒にいる『誰か』は、その殆どが依歌だから。

 教室に戻ると、いつもより少し騒がしかった。

 その理由に心当たりがないでもない。皆何も言わずとも、突き刺さるような視線でわかる。

 そんな中を恐れずにやってくるのが、坂上志穂という奴だ。


「あっ、ホモの仁くんのお帰りだ~」

「めちゃくちゃな言いがかりをつけるんじゃない」


 適当にあしらいながら席に着く。志穂のからかいは今に始まったことじゃない。達也と一緒に一服した帰りは、いつもこうだ。

 そして、何故か俺の方にばかりちょっかいをかけてくるのだ。


「大体、達也はどうなんだ」

「私、性的嗜好で人を差別しない主義だから」

「おい、さっきといってること違くないか?」

「だって、仁くんホモだし」

「何も話が繋がってないんだが……」


 人を玩具にして楽しんだかと思うと、あっさり背を向けて、苦笑する依歌のところに行ってしまう。

 流石、クラス一の自由人は違う。好き放題だ。

 ふと見れば、いつも通り透耶が達也に絡みに行っていた。


「朝からいい度胸だな、山下ぁ! 煙草は脳細胞を破壊するぞ!」

「そうか」

「つまり! 次こそオレがお前に勝つ時だ! 精々遊んでいるがいい! 次の試験でオレに敗北し、涙で枕を濡らすまでな!」

「まぁ、頑張れ」

「てめぇこら人の話聞いてんのかオラァ!?」

「あぁ、聞いてる」


 今にも噛み付かんばかりの形相で達也を睨む透耶だったが、鳴り響くチャイムに苦虫を噛み潰したような顔をして席に戻る。

 透耶と達也は犬猿の仲、というより透耶が一方的に達也を嫌っている。


 瀬良透耶は真面目な学級委員長で、見た目どおり勉学にも力を入れている。が、学校のテストで達也に勝った試しがない。実を言うなら、俺にも勝った事はないのだが。

 小学校の時からずっと、クラス一位――即ち学年一位はずっと達也で、二位が俺、三位が透耶という順番は不動のものだった。


 子供の頃は俺もそれこそ死に物狂いで頑張っていたから、透耶にしてみれば納得できた相手だったらしいが、達也はそうじゃなかった。

 いつ勉強しているのか全く分からないし、そんな素振りも見せない。それなのに、俺も透耶も一度も勝てたことがなかった。

 しかも、小学校時代から筋金入りの不良。教師の言うことは聞かない、授業はさぼる、隣町の生徒と喧嘩をする。悪い噂は常に絶えなかった。


 俺はまぁ二位でも面目が保つからそれなりに満足していたが、透耶はそうはいかなかったらしい。

 ヤクザの家に生まれ、子供のころから真面目だった透耶には不良である達也に負けるというのは我慢がならなかったらしく、事あるごとに突っかかっていた。

 だが、あらゆる分野で透耶が達也に敵うことはなかった。ただ、中学になって学校の枠を超えた模試が入ってくると、少し状況が変わった。


 模試では、透耶が学年で一番成績が良かったのだ。

 俺は二位、達也は三位か、それ以下の時もあった。

 これで少しは収まるかと思ったが、そうもいかなかった。むしろ、余計に酷くなったと言っていい。

 模試で勝つのに学校の試験で勝てないのはおかしいと、苦悶するようになったからだ。


 からくりとしては極めて簡単で、達也はほぼ完璧に出題範囲を読みきっている。

 どんな問題をどんな点数配分で出すか、教師ごとの特徴を見切ってヤマを張っているのだ。

 一度教えてもらったことがあるが、ほぼ100%の的中率を誇っていた。少し背筋に寒気が走ったほど。


 ここの学校も、転勤が少ない。上級生やらOBやらに聞けば、どんな先生がどんな性格か大体教えてくれるし、出題傾向も聞こうと思えば聞ける。

 達也は漏れ聞こえる情報と実際に授業を受けた経験を元に、見抜いてしまっているのだ。


 学校の試験に限れば、これなら確かに達也のほうが上を行く。

 達也を見習ってヤマを張るようになってから、昔より頑張らなくてもテストの点は取れるようになった。ただ、透耶にそんな真似は無理だ。そんなもん信じられん、とか言い切って真面目にテスト範囲全部カバーしようとするから。


 そんな事情があって、透耶は学内試験では三位に甘んじ、一位である達也に強い対抗心を燃やしている。

 燃やしすぎて、普通に話すだけで半分喧嘩してるように見えるが。

 この二人が小学校の時は上級生に苛められていたなんて、当時を知っているクラスメイト以外は誰も信じないだろうと思う。


 チャイムが鳴り終わると同時に、担任が教室に入ってくる。

 そう広くもない町、教師だって殆ど顔見知りでご近所づきあいの相手だ。教室内の浮ついた空気とその原因にすぐに思い至ったようで、苦笑いを浮かべていた。


「落ち着け、お前ら。あー……転校生だ、皆仲良くしてやりなさい」


 極めて雑な紹介とともに、「入っていいぞ」と外に声をかける。

 教室の良く音の鳴るドアを開けて、怜が入ってきた。


 何度見ても、漫画か絵本かと錯覚する。教室に入ってくる様など、本当に何かの1シーンのようで息が詰まる。

 クラスの反応も殆ど予想通りで、誰もが息を呑んで怜を見つめていた。


 日常を纏う、非日常。

 初詣の時に全員見たはずなのに、教室内が耳鳴りがするくらいに静まり返る。

 だから、礼がチョークで黒板を擦る音も、自己紹介する声も、良く響いた。


「鬼瓦怜、と申します。吉備綱仁様の許婚として、お寺にお世話になっております。殆どの方とは二度目の顔合わせになるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」


 澄んだ高音の挨拶は優しく耳朶を打ち、すんなりと脳に染みる。

 誰とも知らず手を打ち鳴らし、すぐさまそれは大きな拍手となって怜を迎え入れた。


「おぉー!! やっぱすげぇ! 鬼瓦さん、いや怜さんって呼んでいいッスか!?」

「くっそ、なんで仁の許婚なんだよオイ! お前にはもう島原がいるだろうが!!」

「依歌ちゃんに鬼瓦さんとか、俺も仁に生まれたかったぜ畜生!!」


 男共が拍手に紛れて好き放題に叫び、静かだった教室が喧騒に包まれる。

 女子もまた静かとは言えず、好き放題に声を上げた。


「ウッソ、やっぱちょー可愛いじゃん!!」

「あーもーこれダメだわ、依歌に勝ち目ないわ」

「ねぇねぇ、どうしたらそんな漫画みたいになれるの!?」


 下手したら男連中より酷いかもしれない言動をしつつ、怜に興味津々な視線を向ける。

 実際、妖精だの妖怪だの、そう言われた方がまだ納得できる雰囲気を怜は纏っていた。


「よーし、静かに! これから始業式だから、細かい話は後のHRですること! 今日のHRは全部くれてやるから!」

「さっすが、話が分かるぜ(りき)ちゃん!」


 力ちゃんの愛称で親しまれる、担任にして社会教諭・飯塚力也(いいづか りきや)は苦笑しながらクラス全員を教室から追い出す。

 無駄に広い体育館での始業式は、多賀谷敦(たがや あつし)校長の長話を聞くまたとない機会であり、立ったまま寝る奴さえ出る睡眠耐久試験だ。

 ここに居る奴の誰もが必要だと思っていないが、『そういうもの』なので仕方ないと思っているもの。


 朝に合計で三本も吸ったせいか特に煙草を求める気持ちもなく、怜にとってこの学校で初の始業式ということもあって大人しく体育館に向かう。

 その間にも、クラスの連中――特に男共が飛び掛ってくる。


「羨ましいなぁおい仁! 毎日両手に花か、えぇ!?」

「なんでだよ! 俺とお前にどんな差があるっていうんだ!?」

「俺も寺に生まれてぇ! 寺に生まれてぇよぉ!!」


 隣の芝生は青い。

 その言葉を学校で噛み締める機会が訪れるとは思っていなかった。

 適当に笑いながら流していると、依歌にも同じように女子が群がっているのが見えた。

 話している事は大方想像がつく。こっちと大して変わらないだろう。


 ふと、依歌と目が合った。

 苦味の濃い笑みを浮かべるその顔は、どこか不安そうで、寂しそうだった。

 必ず起きてしまう変化に戸惑うような、厭うような。

 同じ気持ちを共有していることに、ほっとした。



 ほっとする自分が、何より醜いと思った。

明日には後編出します

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