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どうか幸せに

作者: 酸性

 夜も更ける頃、私がそのやけに古びた扉を開けると、店内の酒場らしいざわめきは一斉に止みました。歩を進め、カウンターに向かう間にも四方八方から視線が刺さります。

 無理もないでしょう。貴人に仕える侍女装束は凡そ場末の酒場には不釣り合いです。しかもここはただの酒場ではありません。流れの傭兵、情報屋、詐欺師、中には暗殺者なんかも集まるという噂。要するに、裏社会の交渉場のような所なのです。薄暗い店内をちらりと窺っただけでもそれはそれは怪しそうな人たちばかり。

 さて、カウンターにたどり着くと、マスターが前に来ました。穏やかな初老の男性といった感じですが、こんな酒場を経営しているのだからそれなりに修羅場を潜ってきているのでしょう。にこやかに口を開きますが、目はちっとも笑っていません。

「お嬢さん、申し訳ないがここはあんたのような娘が来る場所じゃない。悪いことは言わないから、今のうちにお帰りなさい」

「いいえ」

 きっぱり断ると、マスターの顔が僅かに引きつりました。そしてカウンターの上に私が置いたものを見ると、表情をはっきり強張らせました。

「これを見せるだけで良いと伺っておりましたが」

「……少し待ってくれ」

 マスターはため息を吐くと、奥に引っ込んでいきました。私は適当な席に座ると、カウンターに出した指輪を玩びました。徐々に喧騒が戻ってきています。ワケアリの女など履いて捨てるほどいますから、興味もすぐに失せるというものです。

 何か飲み物を注文しておけばよかった。何せこれから、一生分の話をするのだから。口がうまく回らないと困ります。

「……アンナ」

 指輪に灯りが反射して目に刺さりました。数度瞬きをして、刻まれた紋様をなぞります。何やら異国の言語だそうですが、さっばり分かりません。

「アンナ!」

 興味もありません。

「クライム殿」

 ゆっくり振り返ると、五年前より少し痩せたことを除けばさして変わらない男性が立っていました。いや、痩せた分更に陰ができて、きっと以前より女性の評判は上がっているはずです。

 思わず胸が熱くなります。私の中にまだこんな波打つ感情が残っていたのか。いけない、冷静に話すと決めたのです。

「ご無沙汰しております。お元気そうですね」

「……挨拶はいい。何かあったのか」

 顔を顰めるクライム殿は随分と余裕がない。この腕利きの傭兵と知り合ったのは今から六年前ですが、その時から彼はある一点においてひどく落ち着きを失います。普段は感情を乱さない彼が狼狽える様を、当時は微笑ましくももどかしい思いで見ていたものですが。

「ええ、ありました。そのために私が来たのです」

「場所を移そう。親父、部屋を借りるぞ」

 クライム殿に従って、店の奥の階段を上がります。この店、二階には個室があるようです。何に使うかは想像に留めましょう。今は関係がないことですから。

 通された部屋は狭いですが、考えていたよりも小綺麗でした。

「それで、あいつに何があったんだ」

 テーブルを挟み、椅子を軋ませて座るや否やこの質問です。やはり、シャロンお嬢様のことになると余裕がなくなるようです。

「……六年前のことを思い出しますね」

 私が話し始めると、クライム殿はぴくりと眉を上げました。

「お嬢様の静養先に盗人が入って、捕まえたのがあなたでした。それから旦那様に腕を買われて1年間、護衛として雇われた」

「……今更思い出話はいいだろう。早く本題に入れ」

 クライム殿は苛立たしく語気を強めます。でも構いません。続けましょう。

「お嬢様はすぐあなたに惹かれました。元々お体が弱く、あまり外に出たことがない方でした。それが、あなたを通して世界を知った。あなたから聞く世界の話はさぞ魅力的だったことでしょう。加えてあなたはお嬢様を特別扱いしなかった。はっきりと叱り、甘えを正し、長い療養で萎えかけたお嬢様にもう一度立ち上がる気力を与えた。実際あの一年でお嬢様は見違えるほど強くなられました」

 今でも思い出せます。

『アンナ、私、あの人が好きなの』

 頬を染めてはにかんだお嬢様がなんと愛らしかったことか。クライム殿と過ごしている時のあの笑顔は、幼い頃からお仕えしてきた私でも決して引き出せないものでした。

「そしてクライム殿、あなたもお嬢様を憎からず思っていたでしょう」

 ドン、と机が揺れました。

「どうでもいいだろう! いい加減にしろ!」

「いいえ、どうでもよくなどございません。今回の件に深く関わることです」

 机を叩いた拳は強く握りすぎて白く骨が浮き出ていますが、ひとまず置いておきましょう。

「今更否定されても無駄です。お嬢様は大変魅力的な方です。可愛らしく、純粋で、心優しい、太陽のように暖かな方。あなたのお陰で心の強さも手に入れました。お嬢様とあなたとの間に何があったのか詳しくは存じませんが、見ていれば分かります。あなたは間違いなくお嬢様を愛していました」

 クライム殿は憎々しげに私を睨みます。

第三者に心の内を暴かれるのは不快でしょうね。

「しかし、あなた方は想いに身を任せるわけにはいかなかった。お嬢様の縁談が決まり、領地へ帰ることになったのです。お嬢様は大層苦しまれました。愛するあなたと離れ、顔も知らない相手に嫁ぐなど。いっそあなたに連れ去ってほしいとすら願っていました。ああ、実際にお聞きになった? お嬢様は時々驚くほどの行動力を見せられる方でしたからね」

 クライム殿は何も答えません。沈黙は肯定と取っておきます。

「しかし、あなたはお嬢様から離れました。ある日忽然と姿を消す形で、手紙とこの指輪を残して。お嬢様の将来を慮ってのことでしょう。傭兵風情のあなたと、あら失礼。客観的に身分の差があると言いたいだけで、傭兵という職を貶めるつもりはございません。ともかく、お嬢様とあなたには越え難い身分の差があった。あなたは、お嬢様は相応しい身分の方と結婚するべきだと考えた。それにしてもあなたが去ったと知った時のお嬢様の悲しみといったら! 何日も部屋に篭って食事も取らず、ずっと泣いていたのですよ」

「……さっきから過去のことばかり聞かせてどうするつもりだ。彼女を傷つけた分を償わせようとでも?」

「いいえ、償いなど不要です。お嬢様はあなたとの別れを乗り越えられました。お嬢様を立ち上がらせたのはあなたの手紙でした。『どうか幸せに』、あなたの言葉をお嬢様は確かに受け取った。あなたの願いを叶えるため、お嬢様は幸せになることを決めたのです。縁談を受け入れ、新たな地できっと幸せになってみせると」

 クライム殿は額に手を当て、ため息とも呻きともつかない声を出しました。私は服の胸元を強く握りました。そうでもしないとお嬢様に押しつぶされそうで。

「さて、あなたは手紙にこうも書いていました。この酒場であなたの指輪を出せばつなぎを付けられる、困ったことがあれば使えと。それで、今回私が来たのですけれど」

 クライム殿が顔を上げました。ようやく長い前置きが終わると思ったのでしょう。

「お嬢様のその後の生活はご存知ですか?」

「いや……詳しくは知らん。公爵と結婚して不自由なく暮らしているんじゃないのか」

 傭兵をしていると、貴族の情報は回ってこないものなのでしょうか。それとも敢えて耳に入れなかったのか。まあ社交界でも公にされていません。彼が知らなくても仕方がない。

「嫁がれてからのお嬢様は、とても苦労されました。もちろん懸命にお務めを果たそうと努力されていましたが、体調も崩れやすく、お世継ぎもできない。婚家は重圧をかけるばかり。使用人たちも余所者に冷たい。夫君の公爵閣下は優しい方でしたが、それだけでした。お嬢様がどんなにお辛くても適当な言葉を並べ立てるだけで、その原因を取り除こうとはしないのです」

 彼の表情がどんどん険しくなっています。怒りを感じているはずです。私も先程から同じ。怒りと、そして憎しみすら感じています。

「それでもお嬢様は必死で婚家に馴染もうとされていました。馴染むだけではなく幸せになろうと。あなたの願いがあったからです。前向きに、笑顔を絶やさずに進み続けました。でも一方で、公爵閣下が、おそらく体の弱いお嬢様に不満でもあったのでしょうが、使用人に手を付けたのです。そしてその使用人が身籠った」

 クライム殿が再び強く机を叩きました。もう一度叩かれたら壊れてしまうんじゃないかしら。どうでもいい心配が頭を掠めます。

「お嬢様はその日以来、ずっと床に伏せられてしまいました。お住いは療養を建前に、私と数人の使用人だけを与えられ領地の端に追いやられました。ご実家に連絡することも許されません。体面があるから離縁はできない、なのでお嬢様が病で亡くなるのを待つことにしたのでしょうね」

「もういい! つまりあんたがここに来たのはあいつを、」

 クライム殿は椅子を蹴倒して立ち上がりました。私は緩やかに首を振ります。受け入れ難い話になることぐらい、私が来た時点で分かっていたことでしょうに。

「お嬢様はご自身の立場をよく理解しておいででした。でも決して誰も恨まなかった。穏やかに微笑んで『幸せでいなければ』と言うのです。あなたが、クライム殿、そう願ったから。でも、やはり限界が来たのでしょうね。大事に、大切にしまわれていたこの指輪を出して、そして」

 私はとうとう言葉に詰まりました。ああ、やっぱり何か飲んでくれば良かった。声が掠れてないようにしなくては。

 私は、この男に、これだけを伝えるために来たのだから。


「亡くなりました」


 ヒュ、と息を吸い込む音がしました。男は惨めにも床に崩れ落ち、顔を覆っています。私は立ち上がり、胸を焦がす炎に焼かれながら、男の前に膝をつきました。

「私は何度もあなたを呼ぶことを進言しましたが、お嬢様は最期まであなたに頼ろうとはしなかった。何故だか分かりますか? あなたの願いを全うしたかっただけではありません。あなたに幸せでいてほしかったからです。『シャロンは幸せになった』と信じているあなたの幸せを壊したくなかったからです。亡くなる直前私にも、ご自分の死を決して漏らさないよう言い含めました。全てはあなたの幸せのために」

 男はガクガクと震えだしました。荒く息を吐き、あ、とかう、とか意味のない呻き声を上げています。

「でも、私は許さない。何も知らないあなたが幸せでいるのは許さない。あんな言葉でお嬢様を縛り付けて不幸にしたあなたを決して許さない。償いなんてさせない。あなたはこれから一生自分を責め、苦しみ、消えることのない罪を抱えて生きなければならない」

 そう、私は復讐に来たのでした。お嬢様の幸せを一人勝手に決め、押し付け、それで満足していたこの男に、お嬢様の言いつけを破ってでも復讐してやりたかった。今、それは果たされました。男の顔は絶望に歪み、私の存在を認識できているかも怪しい。髪を掻きむしり歯軋りをして、さながら狂人のようです。

 私は踵を返し、部屋を出ました。階段を降りて酒場に戻ると、マスターが物言いたげな目線を寄越してきたので軽く会釈して、部屋の使用料に足りるだろう額のお金をカウンターに置きました。

 外に出ると、夜明けの太陽が昇ってきていました。思った以上に長居していたようです。

 これから先あの男がどうなろうと、知ったことではありません。

 私は光に追いつかれないよう、暗闇に向かって足を早めます。

 これから先私がどうなろうと、知ったことではないでしょう。

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