悠久の橋
俺は座り続けている。
そこは橋だ。
橋しかなかった。
板と鎖と縄でできたつり橋で、だけど支える柱が見えなかった。どこまでも橋が続いている。
地平線の彼方まで、と言うと表現がおかしい。ここには地面がない。
橋の下は分厚い雲が広がっていて、下界の姿は見えない。そもそも、それがあるかは知らない。
「今日は青天、と」
雲一つない青空を見て、俺は一人つぶやく。手にした手帳に今言ったことを書き記して、胸ポケットにしまった。一応ここにも天気や時間があり、今とは逆に雪の降る夜もある。
いつからいたのかは知らない。気づけば、この上にいた。素人ながらに冬山に挑戦したのが仇になったのか、それも知らない。
最初は混乱したが、今は諦観的にこの事態を見ている。
ここの居心地は悪くない。尿意も便意もない。空腹も渇きもあまり感じないが、時折、サックから食料を取り出しては口に入れている。眠れば心地よく、なぜか心が軽い。
俺は死んでしまったのか。あるいは今は昏睡状態で、どちらかの端に辿りつけば死ぬか、目を覚ますかするのだろうか。
橋から落ちてみることも考えたが、やめた。今日もぼんやり空を見る。
半年が過ぎた。俺は歩き始めることにした。
行き着く先が地獄であれ、現実であれ、このまま無為に時間を使うのにも耐えられなくなっていた。むしろ、長い間座っていることによく耐えられたと思う。
歩いてみると体はあまり鈍った感じはせず、思ったように動く。長く歩いているのに疲れも感じない。今さらながら、髭が伸びていないことに気づいた。
なんてシンプルで怪奇な空間なのだろう。改めて、不思議に思う。
ある日、目を覚ますと雲の中にいた。別段、珍しい訳でもない。
月に何度かはこういう日もある。俺は気にせず、体を起こし歩き出す。
しばらくして、見渡しの悪い雲の中でぼんやりと二本の柱が見えた。
不意に現れた柱、突然のことで立ち止まり、それが何を意味するかに気づいて、俺は走った。
衝撃で揺れるつり橋、視界が上下に蠢く、しかし柱に迫るほどに揺れは少なくなった。
「つ、ついた」
柱を抜けると陸地があった。とうとう、俺は橋を抜けたのだ。万感の思いで土に触れる。掴んで、両手で擦り合わせて、柔らかい土と硬い石の感触を確める。
そこには雑草もあった。すぐさま撫でて、引き抜いて、舐めて、咀嚼する。
「うっ」
苦い草の味が口に広がる。それが嬉しかった。何かが始まる、そう期待した。
その時、突風が吹く。風は雲を散らす。
目の前に、橋が現れた。今までのと違う、車を通すために作られた島と島を繋ぐような大きな橋だ。
絶望はなぜか少ない。この空間のせいか、それは知らない。
確かに、始まった。新しい橋が始まった。
あの日から、幾日か経った。
俺は橋の上にいる。コンクリートと鉄筋とワイヤーで出来た大きな橋だ。
一日、陸地の上にテントを張り、また歩き出した。冷静に考えれば状況はあまり変わっていない。結局、俺にできることは変わらないが、悪いことばかりじゃない。
靴底から感じるアスファルトの感触が懐かしく、今までなかった直角の形が新鮮で、点検用の扉から登った支柱からの眺めは素晴らしかった。夜にはライトアップもされ、電球の煌びやかな輝きに心を躍らせる。
毎日が新鮮で、その様子を手帳にしたため続けた。
その後も橋の終わりには陸地があり、また橋があった。
日本古都にある弧を描く橋、手擦りのない一枚岩の橋、木の根や蔦の橋、渡り廊下、中世欧州の石橋……様々な橋が続く。
いつしか陸地で一泊するのが習慣となり、新たな橋に思いを馳せるようになった。橋の造形と機能に好奇心を突かれ、本来の目的を忘れることもある。
しかし、橋は変わっても変わらない物もある。空だ。
空だけはいつもと変わりなく、流れる雲は美しい。
俺は今日も歩く。空を見上げながら。
――夏山で一つの手帳が発見された。行方不明者の物と思われるその手帳は、今も文字を刻み続けている――




