不屈の管領、細川高国
真面目な歴史のおはなしです。
戦闘は今も続いている、室町幕府の歴史は争乱の歴史であったと云えよう。
細川高国の勢力が再び、晴元を追い落とそうと蠢いていた……。
桂川原の戦いで敗れて近江に逃れた管領細川高国は、その後各地をさまよい援軍を求めていた。
しかし現実は厳しく、落ち目の管領の援軍要請に応えるモノは誰もいなかった。
細川高国は、惨めにも、頼みまわった伊賀、伊勢、備中、出雲全てで断られた。
現職の管領とはいえ、いったん落ち目になると世間というモノは冷たいものである。
「くっそう、管領たるまろを蔑ろにするとは、見ているでおじゃる!」
高国は不屈の闘志を燃やし、各地を歩き回った。
高国への加勢を諸侯が躊躇う中、……。
ついに備前三石城主浦上村宗が、高国のために挙兵してくれることになった。
もちろん、浦上村宗が高国の要請を受けたことは、なにも今回に限った事ではない。
以前にも赤松氏の庇護下に在った足利義晴の身柄を確保する為に犬馬の労を負ったことがあるのだ。
落ち目だから利用しようなど……邪推であろう。
そう反論できる程度に、浦上村宗は高国に対して先行投資をしていたのだ。
彼は、高国の”管領という名の権勢”の力を借りて播磨統一を果たしたいという野心があった。
細川の名も要は使いようなのだ、意外と使えるものなのである。
時代はまた、争乱の時期を迎えるのであった。
享禄3年(1530年)6月29日
播磨依藤城へ進出していた、晴元側の柳本賢治が就寝中に刺客より暗殺された。
順風に思われた、高国討伐は暗礁に乗り上げてしまう。
細川元晴としては不運なことに、三好元長が阿波に戻っていた。
元長は、晴元に媚びを売る他の諸将との折り合いが悪く、半ば頭を冷やさせる(謹慎)かたちで領地へと戻されていた。
高国とすれば、戦ではないものの『桂川原の戦い』の恨みを晴らす戦いの幕開けであった。
その後別所就治が擁する 庄山城(小寺城)、 三木城、 有田城 を同年7月27日までに、またたく間に落としていった。
浦上村宗は、悲願であった”播磨統一”を成し遂げたのであった。
足場が固まった高国・浦上連合軍はいよいよ細川晴元が擁する堺公方を攻め落とすべく、大軍を引き連れ意気揚々と播磨を出たのであった。
浦上村宗の悲願はかなった、今度は高国の宿願を果たす番である、晴元を打倒する戦いが幕を開ける。
播磨統一の勢いそのままに雪崩を打って摂津へ侵攻していった。
同年8月27日に摂津に入国神呪寺城に陣をはった。
これに驚いた細川晴元はすぐさま伊丹城、富松城に増援軍を派遣したが9月21日に富松城が落城し、増援に出向いていた薬師寺国盛は大物城(尼崎城)に逃げ去った。
が、11月6日には、細川軍の快進撃ぶりを見て薬師寺国盛が高国側に寝返った……大物城は降伏した。
事態は緊迫の度合いを増していった……。
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享禄3年、事態は大きく動き始めていた。
「いよいよあの時が近づくか……」
父を失った”あの辛い想い出”がよみがえり、長慶の目には思わず涙の粒が湧き出た……。
「「(長慶、泣いているの?)いや、今回は失敗しない、大丈夫だ千熊丸! (うん、がんばって)」」
そう、今回は早々と”松永兄弟”の協力を得られた。
万全とは云えないまでも、充分な対策を講じたつもりだ。
特に、法華衆本門流.和泉顕本寺には、多少の無理を言って しばらく持ち堪えられるように防衛力を高めた。
もしもの時の、脱出経路となる抜け穴も掘らせてもらってある。
「本当は、あの馬鹿(晴元)がしっかりすればいいのだが、期待できまいな……」
主家を悪し様に罵るのは、根が真面目な長慶にとって辛いことである。
しかし、馬鹿はバカとしか表現できないのが、ツライ現実なのであった。
たかだか三好政長を排除したぐらいで、”権力という名の蜜”に群がる悪党どもは減りはしなかったのである。
次ぎから次へと湧いてくるのであろう……例の黒いアレみたいに……。
「さあ、決戦の時だ!」
久秀に物見を放ってもらい、固唾をのんで様子を見守るのであった。




