『三好元長の活躍と、バカ殿様』
今回は説明回ですね!
お付き合いくださいませ。
― 面歩.ひさひで ―
なぜ、室町幕府の歴史は とても覚えにくいのでしょうか?
そんなこと、あなたは、考えた事がありますか?
登場人物に魅力が無いと云うこともありますが。
答え! 『それは、なんのことやら、訳が判らないからです!!』
行動に私達が判るような一定の基準がなく、一見無秩序に動いているからですね。
もちろん当事者は、真剣そのものなのですが……。
この時代を語る上で重要なのは、トップの管領である細川家の人間はアホばっかりであるという事です。
《細川幽斎の存在に惑わされてはいけません、彼は例外中の例外です!》
真面目に思考していては、この時代の情勢を読み解けません。
お試し感覚で選ばれて、日本をグチャグチャにした『民主党w』と思えば、とても判りやすいでしょう。
覚えるだけ・考察するだけ、ムダなのです。
『どこからおかしな電波情報を得るのか?』
『そんなに、日本をダメにしたいのか?』と思える異常行動。
まさにあの姿です。
あれをイメージすると、驚くほどこの時代のことが身近になって理解できます。
まあ、あまり興味は出ないかも知れませんが、みてください。
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阿波に逼塞する三好元長は、伝手を頼って情報を仕入れておりました。
頼りとする情報源は、堺の町衆とお寺です。
三好家は、法華宗を信仰しております。
農民の心を掴んだ、一向宗に対して、町衆の大半に浸透し極めて強い勢力を誇るようになっていたのが法華宗です。
いわゆる、都市部の宗教です。
三好家は、その大旦那なのであります。
法華衆本門流.和泉顕本寺は、『堺』における三好の拠点です。
余談ではありますが、信長公の最期の地である、かの本能寺が『法華衆本門流の大本山』なんですね。
なにげに『堺の町』をほんのり支配しているのが、三好家なんですね~。
津島を押さえた、織田信秀の先輩になります。
さて、話を進めましょう。
先ずは敵の状況を把握いたしましょう。
細川高国の独裁政権は、新将軍に足利義晴を据える事で勢力を保とうとしていたようであります。
それまで担いだ御輿をあっさり捨てるのが、細川らしいです。
大永6年(1526年) 7月
それまで細川高国の独裁政権は、盤石に思われておりました。
反転攻勢を狙う、三好元長も付け入る隙がなくて歯ぎしりしていたことでしょう。
しかし、事態は急変いたします。
問題は、敵方に”細川尹賢”というアホがいたことです。
「くっそ~香西の奴、細川家の俺より重用されおって~、生意気な!」
細川氏の庶流である 細川尹賢は、寂しがり屋のかまってちゃんでした。
香西元盛が細川高国に寵愛されているのを腹立たしく思った細川尹賢は、高国の気をひこうと画策しました。
元盛の右腕とも言える矢野宗好という者を、その権力で買収してしまいます。
そして、”元盛が細川澄元などの阿波衆に内通している”という『偽文書』を作らせて、高国に讒言しました。
「高国さま、一大事で御座いまする」
「いかがいたした? そんなにあわてて」
「香西元盛の、謀反の証拠を手に入れました」
「なに? まさか元盛に限って……むむっ、これは!」
まんまとニセ文書に引っかかってしまった、高国なのでありました。
細川尹賢の悪巧みは、見事成功いたします! 一応は、細川尹賢の思うツボだったのですが……。
気の短いバカ殿さまは、ろくに調べもせず勢いだけで寵臣を殺してしまいました。
《細川高国が細川尹賢の讒言にまどわされて香西元盛を誅殺した事から、一気に政権は崩壊をはじめました。》
「なぜだ?」
波多野稙通は、突然の弟の死に激怒した。
「兄上、元盛は碌な取り調べもないまま殺されたようです!」
次兄の柳本賢治が、冷静にことの成り行きを兄に告げた。
「ばかな、そのような話があってたまるか」
「高国殿は、以前も家臣を讒言を鵜呑みにして誅殺されたことがあります」
「あんな奴、もはや主君ではないわ、敵討ちじゃ」
「おお、さすがは兄上! 早速、阿波の三好に繋ぎをとりましょう」
「うむ、苦しい戦いになるだろうが、このまま手をこまねいていては一族は破滅だ。頼むぞ賢治よ」
「お委せください、兄上」
いきなりの上意討ちに、香西元盛の兄である波多野稙通、柳本賢治が丹波で造反したのです。
まあ、あたりまえの出来事ですよね。
細川尹賢の陰謀を知った香西元盛の兄波多野稙満は丹波八上城に、弟柳元賢治は丹波国神尾城に立てこもります。
これに対して尹賢は高国から討伐の命令を受けて、意気揚々と波多野稙通らを攻めました。
「ふふ、ようやく儂の出番じゃ、ここで手柄を立てれば、後は……ふふふ」
誰もが固唾をのんで状況を見守ります。
《ああ、哀れな兄弟達……》
しかし、絶対的強者と思われていた高国の政権は、丹波の乱を鎮圧できませんでした。
もはやお約束か?というほど、尹賢は無能でした。
誰もが『エエッ!?』と驚くほど、軍事力の弱さを無様に露呈してしまったんですね~。
宿主あっての、細川家であります。後は没落の坂道を転がり落ちるのみでした。
かくして、波多野稙通、柳本賢治は、讒言を信じるアホな主君にあっさり見切りを付けました。
ニセの書状の通り、細川澄元派の阿波衆(三好元長)に繋ぎをとったというわけです。
『ウソから出たまこと』とは、この事でしょうか?
10月
「ようやく、復讐の秋がきた!」
これを好機と捉えた三好元長達は、阿波で挙兵いたします。
足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑む主君・六郎(晴元)を助けて、畿内まで進軍して越年します。
高国に造反した波多野軍との合流を果たしました。
三好の逆襲が始まります。
翌、大永7年(1527年)
三好元長は、高国と義晴の連合軍(官軍)と激突し、これを撃破いたします。
高国と義晴の連合軍を近江へ追い落とし、立場を逆転させました。
やぶれた高国は2月14日、義晴をつれて坂本に逃げ去ります。
将軍や管領が京の都を落ち延びることは今まで何度もあったのですが……
評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、幕府は完全に崩壊してしまったのでした。
遁走した高国政権に替わり、細川晴元政権が逃げだした評定衆や奉行人を取り込みます。
政治機能を一旦堺に移す事になりました。
高国と管領職を争っていた細川晴元が、足利義維を擁した形で和泉国の堺を拠点とし、京都への支配を行うようになったため、京都の公家や権門から「堺公方」と呼ばれるようになったのです。
《後は、時を見て上洛すれば良いだけの状況でした。》
とはいえ、争いはまだ続いておりました。
懲りもせず堺公方派を追い落として復権しようとする、細川高国一派でありましたが……。
秋には、細川晴元側が近江の六角定頼と越前の朝倉宗滴らの加勢を得て、桂川周辺の泉乗寺で高国を撃退したのでした。
細川晴元による、新たな畿内支配体制を確立させるべく大いに尽力した元長なのでした。
こうして三好元長は、立役者のひとりとなったのです。
堺の政権は、次の将軍を擁した幕府をなるべき政権でした。
実際、足利義維は従五位下・左馬頭に任じられており、将軍就任に向けての準備が整いつつありました。
ところが、三好元長が柳本賢治と山城守護代を巡って争ったために、結束にヒビが入ることとなります。
敵がいなくなり、かえって摂津国人衆らと阿波国人衆との権力闘争を激化させてしまうのでした。
まあ本来であれば、そこを上手く調整し取り持つのが摂津衆や阿波衆の主筋に当たる晴元の仕事です。
しかし肝心の晴元が、それまでの最大の功労者ともいえる三好元長を危険視し、柳本たち摂津衆に肩入れし始めるのでした。
《まあ、多少気持は判らないことはないですが。恩知らずすぎます、悪手ですね。》
さらに驚くべきことに、細川晴元は、ようやく立ち上げた堺政権を放り出して義晴将軍派に転身し、義晴政権下で、管領に就任してしまったのでありました。
《……意味が分かりません!》
まあ彼もアホの一族だったという事であります。
『細川連立政権』と聞いただけで、無能感が半端ないです。
多少うるさいが親身な味方を放り出し、甘言を以て惑わす敵になびくとは、アホですね。
当人は、『僕って政治センスが、バツグンじゃん』と思っているのでしょう、おめでたい一族であります。
せっかく、天下をお膳立てしたにもかかわらず、報われない三好元長なのでした。
強引に例えるなら、信長が義昭を奉じ上洛したら、「信長ウザイ!」と、義昭が将軍宣下を受ける前に速攻で三好と組んで信長と対立したみたいなものです。
『せめて、将軍になるまで待てよ~!』
ワケ判りませんよね?
この馬鹿話を『小説仕立て』で書くのは、他の作家の方にお任せいたしましょう。
私といたしましては、皆様に一応の流れさえ判っていただければ、それでよろしいのです。
もはや小説ではない、アホらしいほどの説明回。
ばかばかしいお話しで、全部を真面目に書き上げることは出来ませんでした。
まことにスミマセン。
『三好長慶の物語』と連動しているとは云え、書けば書くほど判らなくなってしまいます。
もしかしたら間違っているところが多々あるでしょうが、そこはまあ研究レポートではないのでご容赦を。
(多少、小説としてアレンジしている部分もございます。)
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(作者の心を折らない配慮をお願いいたします。)
面歩、ひさひで